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ショーペンハウアーのいう「精神的快楽」とは?

漠然としていてよくわかりません。詳しい方回答お願いします。

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回答No.1

18歳の時にショーペンハウワーの主著「意志と表象としての世界」を読んだとき、宗教的な「回心」の体験をして、以来、かれの全集を買って隅々まで読みました。 読み終わった時、世界がすっかり変わってしまい、人生の見方がそれまでとガラッと変わりました。 ショーペンハウワーは私たちがこの世界が存在していると思うのは「生きんとする意志」の作りだした幻影であって、実際は世界なんて存在しないのだと言いました。 「生きんとする意志」のもっとも代表的な現われが「性欲」だという。 男が女を、女が男を追いかけまわすのは本人の意志ではなくて、「生きんとする意志」に操られているだけに過ぎない、いわば人間は「操り人形」なのだ。 この「生きんとする意志」は仏教でいう「業」のこと。 仏教も「業」が描き出した幻影が、この世界なんだと言います。 もし、「生きんとする意志」や「業」を否定すれば、世界は「空」である、と。 ショーペンハウワーの「精神的快楽」というのは、肉体的快楽の反対、肉体的快楽は「生きんとする意志」の肯定だとすれば、「精神的快楽」はその「生きんとする意志」の否定の果てに現われてくる、エクスターゼ、仏教でいう「涅槃」です。 世界も私も存在しない、ただ「空」があるだけ、自分の「業」から解放され、世界はその真実の姿を現す。 これまで欲望によって曇らされた世界からベールが取り払われて、真実の世界が現れてくる。 もはや、生死もなく、人生もない、苦しみもない、プラトンのいう「イデア」の世界が現れてくる。 これこそ「快楽」!

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noname#208724
noname#208724
回答No.5

ネットで検索して、ショーペンハウエル の名言というページを見つけたので、その中から二つとりあげてみました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。読書にいそしむ限り、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。そのため、ときにはぼんやりと時間を潰すことがあっても、ほとんど丸一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていく。 ショーペンハウエル の名言 他人の考えを読み取ることは他人の食べ残しを食べるようなもの、他人の脱ぎ捨てた衣服を着るようなものだ。 ショーペンハウエル の名言 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― ということは、ショーペンハウエルの本を読むのはいいけど、他人に答を求めるな、ということではないですか。だからわざと漠然とした書き方をして、読者自身の感じるままに任せるという手法をとったのではないですか。だとしたら、私が先に出した回答は、ドイツ的な決定論とみたうえでの回答なので、間違っていることになります。むしろ、質問者さんが、ここで質問すること自体が間違っているということになります。ようは他人に答を求めるなということでしょうね。まあ知らずに回答してしまった私も愚かだと、ショーペンハウエルは言っているのでしょうね。

参考URL:
http://meigen-plus.com/s/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%AB/
回答No.4

ショーペンハウワーはヨーロッパにそれまで知られていなかったインド思想や、仏教思想を紹介した功績者の一人です。 彼の伝記を読むと、インドのバラモン教の聖典、ウパニシャッドを毎日読んでいたようですし、自分のペットの犬にも、アートマン(我)という名前を付けていました。 だから今でいうインド思想と仏教思想の「オタク」でした。 彼の思想は基本的にカントの思想とプラトンの思想からなっていますが、もう一つ、インド思想が入っています。 彼は「生きんとする意志」を否定することを唱えましたが、その否定の果てに現われるものを仏教の「涅槃・ニルバーナ」と同じものだと考えていたのです。 だからショーペンハウワーがドイツ人だから、インド思想も、仏教思想も知らなかったというのは誤解か、それともショーペンハウワーを知らないというだけです。 インド思想や仏教思想がヨーロッパに入った時、その宗教は「無」の宗教だ、「虚無」を唱えているということで、ひじょうに恐れられました。 「虚無」を唱えている宗教なんか知らなかったからです。 しかし、だんだんインド思想や仏教思想が知られてくると、決して「虚無」を唱えているのではなく、心の平安を求めているのだということが分かってくると誤解も解けて行きました。 ブッダは人間の人生は苦しみの連続、生老病死の苦しみであることを知り、それで悟りを求めて「空」を悟ったのであり、その「空」は決して人生が「虚無」だと言ったわけではありません。 ショーペンハウワーも、それを「虚無」と思ったわけではなく、却って「涅槃」を快楽と思っていたのです。 苦しみからの解放、それがニルバーナであり、エクスタシーだったのです。 結局、ショーペンハウワーの思想はヨーロッパの思想とインド・仏教思想の総合でした。

noname#208724
noname#208724
回答No.3

ごめんごめん、リンク貼るの忘れてたので、参考URLをどうぞ。

参考URL:
http://digitalword.seesaa.net/article/135649291.html
noname#208724
noname#208724
回答No.2

ショーペンハウアーは、ドイツの人でしょうから、仏教の涅槃を意味しているわけではないと思いますよ。もっと現実的に、禁欲を求めただけなんじゃないかな。もし、ドイツ哲学として仏教の涅槃を説くようなことがあれば、それはドイツ国民に対し、「キミたち死になさい!」と言うのと同じことだと思いますよ。だからそんなことは決定論を好むお国柄を考えれば危なっかしくてできないはずです。ハイデガーだって、存在と時間の上下巻を出版する予定だったのに、1930年代後半には、みずから、時間から存在を決定づけることはできなかったとして、下巻をあきらめたでしょ。そういうお国柄なんです。下町育ちの日本人から見ると、ちょっとイタイ人たちですよね。 だからむしろ、吾唯足知、を実社会に合うようにドイツ語でドイツ哲学として説いたのではないかな。 「吾唯足知」(雨露をしのぎ、飢えをしのぎ、人の役に立てることを出来る範囲で生業とし、少しの楽しみを持ち、人と心をかよわすことができるなら、私の人生はそれで十分に満たされているだろう。)これが精神的快楽である。 ※( )内は、私が訳しました。ちなみに私は、ショーペンハウアーなんて知りませんし、本も読んだことないです。だけどドイツの思想はこんなもんだろうと思いますよ。