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言語の生成

こんばんは。 今回は、大上段に構えまして、失礼致します。 「(1)なんらかの「発信」があって、(2)それを受け取る(受け取ろうとする)側がある」 これが、基本ではないかと思いました。 ・・・つきましては、関連することであれば、何でもご回答ください。 よろしくお願いいたします。

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回答No.1

言語とは、予め動機づけられた信号(声、文字)を介して、 発信者と受信者の脳内に類似のイメージを想起する事だ。 しかし、たとえば一般に動物の鳴き声は信号として特定の 行動を導きはしても、それは条件反射的な場合が多く、 「脳内に類似のイメージを想起する」というものではない。 その結果、言語の特徴の1つである“組合せ”や“再構成”と いった現象は見られない(類人猿や一部の社会的動物を除き)。 そのためには、1つの入力信号に対して反射的に1つの 反応をするのではなく、五感の相関した経験の蓄積により 脳内のニューロネットを発達させ、新たな情報性の高い 刺激(光や音)において五感の相関した経験を励起させる (=そこに行った時に起きる、より生理的刺激の予測=空間 的広がり)事が必要だ。 それによってこそ様々な性質の複合した“対象”として把握 し、その「様々」から抽出(抽象化)して単語化し、再構成 (文章化)する事が可能になるのだ。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 「非言語コミュニケーション」ということも、あるのですね。

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その他の回答 (11)

回答No.12

 こんにちは。  ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について すでに何度も問い求めて来ていますが それは成り立たないことを例証します。  (1) 音素が意義素でもある。というかたちで シニフィアン(しるし)とシニフィエ(意味)とのあいだに《自然で論理的な絆がある》ということを例証し 恣意性が支配しているとは見られないことを明らかにします。  (2) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ  といった三つの語における特には子音としての音素(すなわち / n / および / g / )にそれとしての意義素があるという仮説を提出します。  (3) すなわち まづ語義としての類似性は こうです。:   《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。  (4) と見て さっそく仮説を推し出します。    音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる    音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある  すなわち  いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。  すなわち  / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行する》という意義を示そうとしていると仮説します。  (5) どうでしょう?  / na / が決してそのままでは 《草木や波風や胸騒ぎ》のことを指し示すという意味ではありません。そのナを用いて自己表現する話し手が 《否定し消滅して欲しいもの》として 具体的にそれら三つに絞って当てはめた。  / gi / では その否定を受けての移行や消滅の過程を 語義として指し示す恰好である。  (6) すなわちこれは 子音の / n / や / g / が同じというかたちでシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。   / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  ちなみにこのとき ソシュール(もしくは丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く ただナ行やガ行の子音として互いに差があることによってのみすなわち恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったに過ぎないと言っています。  言いかえると このささやかな例証では  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 自然でかつ論理的なきづなが見出されるという説です。  (7) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。  けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。やはり 《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (8) さらに語例を伸ばしましょう。  《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。そして この場合は 《恣意性》を否定するというのではなく いわゆる《有縁性》として 音素と意義素とのあいだにつながりがある〔だけだ〕と見られても仕方がない語例ではあります。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)  つまり みんな / nagi / なぎ =和ぎ という語と縁のある意味をもった語です。ここでは 母音が交替していますね。であっても  / nVgV /という語の形態には変わりなく しかも語義には 類似性が見られます。  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    (9) ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  (あ) オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。   ・ 郭公は その / k / の音素をじっさいの鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。      ・ 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  (い) あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまりさきほどの:   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。有縁性の場合です。(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  といった考察は すでに成されています。  (10) 派生語ではだめなので さらにさらに語例を増やします。ここで子音の清濁の違いにかかわらず 同じ意義素を帯びると仮説します。すなわち / g / = / k /:《過程相・移行相》です。  nuku / nuke-ru 抜く/抜ける      (障害・邪魔の除去・離脱)  noku / noke-ru 退く/除ける     (障害・邪魔の離脱。除去)  nugu / nuge-ru 脱ぐ/脱げる      (同上)  nugu-u / nogo-u 拭う         (同上)  nige-ru / niga-su 逃げる/逃がす   (同上)  noga-su / noga-reru 逃す/逃れる    (同上)    (ただし ここまで来ると 障害や邪魔は 離脱する者のほう    ではなく対立する相手の側に 設定されている。)  noko-ru / noko-su 残る/残す      (同上)    (ただし 上の補注と同じように 視点の移動が見られる。    消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく     以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに    焦点が移ってしまった。  (11) おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV / なる音韻(シニフィアン)      =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  (12) ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。  (13) うえの(11)における 音素=意義素 の仮説は その意義素がなぜ現われるのか。これについては 長くなるので割愛します。  次の書き込みなどを参照してください。  【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8508948.html  その回答No.1のお礼欄などです。

kurinal
質問者

お礼

B様、ありがとうございます。 高校時代、「古典」という分野で、「古語」というのを習いました。 曰く、「同じ単語でも、現代の意味とは、違います」 (もう、捨てちゃいましたが、「古語の辞典」というのも、ありました?)

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noname#214841
noname#214841
回答No.11

回答番号8のplapotaです。多くの書物を読破なさるurigadai2013さんの御回答は、いつも拝見してゐて勉強になります。教えて!gooは、ねこさんまで見切りをつけてしまつて、正統的な投稿がほとんどなくなりました。urigadai2013さんにも、御参加をお願ひいたします。kurinalさんもおいでください。あちらではkurinalさんの宣伝もしてゐます。 私は、チョムスキーやサピアなどに比較して、ソシュールの思想が、言語を道具のやうに考へてゐるところが好きになれないのですが、urigadai2013さんが同じ理由で支持なさるので、めんくらひました。おもしろいものです。歴史性を重視する言語学に反発する形で、ソシュールが登場してきましたので、ある程度やむをえないことなのですけれど、現代西洋言語の枠内でしか語られてをらず、狭い世界での、いかにも還元主義的な発想に感じられます。 言語の恣意性については、ソシュールのたいへん有名な発言ですが、古来より論争があります。プラトン『クラテュロス』には、音にも意味がある、といふ側に軍配があがつてゐます。論拠は、でたらめですけれど。 [1] まるい [2] きつい この二つの形容詞を外国人が聞いて、ぶらげろさんとkurinalさんの写真を見せ、どちらがふさはしい形容詞であるか尋ねてみれば、全員が同じ答を出すのではないでせうか。私は、音にもある程度の意味があると思つてゐます。 文字は言語ではない、といふのが、かつての西洋言語学の主張でしたが、最近はそんなこともなくなつてきたやうです。当然のことですけれど。アルファベットだつて、意味があります。「A」は牛です。「A」をさかさまにして見れば、2本の角のある牛の顔になります。もともとのフェニキア文字ではさうでした。表音文字・表意文字の区別も便宜的なものにすぎません。 なにごともさうなのですが、多種多様な見解の中間に妥当な答があるのではないかと思ひます。古来より中庸が重んじられてきたとほりです。その意味でも、Q&Aサイトでさまざまな意見が聞けるのは喜ばしいことです。OKWaveとgooが分離したのは残念です。

kurinal
質問者

お礼

plapota様、ありがとうございます。 >「私は、チョムスキーやサピアなどに比較して、ソシュールの思想が、言語を道具のやうに考へてゐるところが好きになれないのですが、urigadai2013さんが同じ理由で支持なさるので、めんくらひました。おもしろいものです。歴史性を重視する言語学に反発する形で、ソシュールが登場してきましたので、ある程度やむをえないことなのですけれど、現代西洋言語の枠内でしか語られてをらず、狭い世界での、いかにも還元主義的な発想に感じられます。」 なるほど。 >「言語の恣意性については、ソシュールのたいへん有名な発言ですが、古来より論争があります。プラトン『クラテュロス』には、音にも意味がある、といふ側に軍配があがつてゐます。論拠は、でたらめですけれど。 [1] まるい [2] きつい この二つの形容詞を外国人が聞いて、ぶらげろさんとkurinalさんの写真を見せ、どちらがふさはしい形容詞であるか尋ねてみれば、全員が同じ答を出すのではないでせうか。私は、音にもある程度の意味があると思つてゐます。」 ・・・ぶらげろさんの写真は、拝見したことがありませんので。 >「文字は言語ではない、といふのが、かつての西洋言語学の主張でしたが、最近はそんなこともなくなつてきたやうです。当然のことですけれど。アルファベットだつて、意味があります。「A」は牛です。「A」をさかさまにして見れば、2本の角のある牛の顔になります。もともとのフェニキア文字ではさうでした。表音文字・表意文字の区別も便宜的なものにすぎません。」 なるほど。 「学びて、おもわざるは、」なんでしたっけ。 >「なにごともさうなのですが、多種多様な見解の中間に妥当な答があるのではないかと思ひます。古来より中庸が重んじられてきたとほりです。その意味でも、Q&Aサイトでさまざまな意見が聞けるのは喜ばしいことです。OKWaveとgooが分離したのは残念です。」 はい。

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回答No.10

ソシュール研究家の互盛夫の「言語起源論の系譜」と言う本で、西欧の古代から近代までの言語の起源をめぐる歴史を論じていますが、その結論部分で、ソシュールは「言語の起源と言う問題がニセの問いに他ならない」、と指摘したと言っています。 なぜ、言語の起源を問うことがニセの問いなのか? 簡単に言うと、言語の内側でしか決して生まれない思考や論理を言語起源論は言語それ自体に当てはめて語るからだ。太古の昔までさかのぼっても、人は昨日話した言葉を今日も話している、と言うことしか見いだせない。 人間は言語の発明者ではありえない。 神、自然、理性、民族精神、どれを言語の発明者に仕立て上げようと、それらを語る言葉は、言語それ自体の内側にあり、昨日話されていたがゆえに、今日も話している、それ以外ではありえない。 つまり言語の起源を問うことは「ボロメオの輪」「ウロボロスの蛇」という問いに他ならない、循環的な問いだということです。 私たちは言語の起源を問う前に、すでに言葉を喋っているのです。 すでに言葉を喋っているのに、その言葉の起源を問うことは循環に巻き込まれる、ということ。 無限遡行、悪無限に巻き込まれざるを得ない。 いいかえれば、言語の起源と言うのは無いということです。 新約聖書・ヨハネ伝の冒頭に「初めに言葉・ロゴスがあった。言葉・ロゴスは神と共にあった。言葉・ロゴスは神であった。すべての物はこの言葉・ロゴスによってできた」とありますが、これがギリシャの言葉・ロゴスの典型的な考え方で、古代ギリシャでは、言葉・ロゴスが先にあり、人間はその後に存在した、つまり言葉・ロゴスが人間を作ったと考えられていました。 プラトンはその対話篇「クラテゥロス」で、言語は自然・フィジスか、あるいはノモス・規約か、を論じ、プラトンはどちらかと言えば言葉は自然・フィジスと考え、言葉は人間に先天的に有するモノと考えましたが、アリストテレスは言葉は人間同士の約束事ではないか、と言いました。 言葉が自然・フィジスか、ノモス・規約かを巡っては、その後の西欧でいろいろな哲学者・言語学者で意見が対立してきました。 近年のチョムスキーは「生成文法」を唱え、言語は人間が生まれつき備えるもの、先天的だと考え、そのチョムスキーを継承するスティーヴン・ピンカーは言語本能説を唱え、同じく、言語は人間に先天的であることを唱えました。 それに対して、20世紀初頭のソシュールは「言語には差異しかない」「言語はネガティヴな差異の体系」といい、もしかしたら言語なんて存在しないかもしれない、と考え晩年に「沈黙の10年」に陥りました。 ソシュールは言語をプラトンのように自然なもの、言語とそれの指し示す対象との間には、その結びつきの必然性はない、恣意的である、と言いました。 たとえば、文字「猫」と音声「ネコ」との間には必然的な結びつきなんてない、それを「サル」と呼んでも、「ヤマ」と呼んでも一向に構わなかった。 たまたま、長い間の習慣で、それを「ネコ」と呼んでいたから、必然的な結びつきがあると思っているだけで、実際は恣意的なんだと。 しかし、固有名の場合、言葉とそれが指し示す対象との間には必然的な結びつきがあるように見えます。 例えば「富士山]。 固有名と言うのは、世界にたった一つしかない、と言う意味。 だとすると固有名・「富士山」とその指し示す現実の対象との間には必然的な結びつきがあるように見えます。 これを言語学では、「有縁性」と言っています。 だけど本当にそうだろうか? たまたまその山を「富士山」と命名したから、ただ一つの固有名は言葉とその指し示す対象との間に必然的な結びつきがあるように見えるが、実際はそんな必然的な結びつきなんてないのではないか? たとえば、人の名前。 それも固有名ですが、親が子供が誕生した時、どの名前にしようか、いろいろ候補を上げて、その一つにして命名しましたが、別の名前だって、良かったのではないか? だとすれば固有名も恣意的だということができる。 また、日本語には「オノマトペ」と言う擬態語・擬声語がたくさんあるけど、動物の鳴き語を模した擬声語には「有縁性」があるように見える。 しかし、それでさえも、各国によって同じ動物でも、鳴き声の表現が違う。 だとすると「オノマトペ」も言葉とその示す対象の間に結びつきの必然性があるかと言ったら、無いのではないか、と考えられる。 また、漢字は表意文字とか、象形文字と言われ、「山」という漢字は現実の「山」の形から、それを抽象化したものだから、有縁性があるものと考えられる。 西欧の音声文字、表音文字・アルファベットの場合は有縁性がないが、漢字は有縁性があるように思える。 しかし、その「山」でさえも、中国人は「サン」と言い、日本人は「ヤマ」と言う。 と言うことは文字は同じでも、それをどう呼ぶかには恣意的だということができる。 文字「山」と音声「サン」、「ヤマ」には必然的な結びつきはない。 こうしてソシュールは言語は自然的だとするプラトンやそれを受け継ぐチョムスキー・ピンカーの言語生得説を否定しました。 こうした言語学の歴史を振り返ると、言語の起源にはいろいろな考え方があったのが分かります。 あなたは言語は人間同士のコミニケーションから、その手段・道具として発生したのではないかと言いますが、それも一つの考え方でしかありません。 私は言語は手段でも、道具でもないと考えますから、言語は個人の「内的独白」から生じたのではないか、と申し上げましたが、それも一つの考え方に過ぎません。 言語の起源という問いはソシュールのいうところではしょせん、「ニセの問い」なのですから。 言語の起源は無いと言うしかありません。

kurinal
質問者

お礼

urigadai2013様、ありがとうございます。 >「あなたは言語は人間同士のコミニケーションから、その手段・道具として発生したのではないかと言いますが、それも一つの考え方でしかありません。 私は言語は手段でも、道具でもないと考えますから、言語は個人の「内的独白」から生じたのではないか、と申し上げましたが、それも一つの考え方に過ぎません。 言語の起源という問いはソシュールのいうところではしょせん、「ニセの問い」なのですから。 言語の起源は無いと言うしかありません。 ・・・「こうしてソシュールは言語は自然的だとするプラトンやそれを受け継ぐチョムスキー・ピンカーの言語生得説を否定しました。」 なんですね。 >「簡単に言うと、言語の内側でしか決して生まれない思考や論理を言語起源論は言語それ自体に当てはめて語るからだ。太古の昔までさかのぼっても、人は昨日話した言葉を今日も話している、と言うことしか見いだせない。 人間は言語の発明者ではありえない。」 簡単に、表現して頂きました。

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noname#208724
noname#208724
回答No.9

Kurinal さん、こんにちは。独り言は、発する側も自分だし、受ける側も自分だから、言語でなくても成立します。 そもそも世界中の人間が、ばらばらに暮らし、コミュニケーションがなかったら、言語は必要なかった。たとえコミュニティーがあったとしても、自分だけに通用する言葉を発していたら、気味悪がられるか、虐められるか、アベルのように叩かれる。だいたい叩く人と叩かれる人はコミュニケーションが成立していないのだ。だからコミュニティーで認められない言葉を発していた人は生き延びることが難しかったと予想できるので、その言葉は言語に昇格しなかったと思う。しかしここで力関係が問題になる。もし、自分だけに通用する言葉を発する人が、そのコミュニティーにおいて、強い力を持っていたとしたら、その自分だけに通用する言葉が言語に昇格し、それまで使っていた言語が失われた可能性が高い。そういう意味で言語とは、その当時のコミュニティーの性質を反映しているといえる。 以上。学生さんが残していった原稿を丸写ししてしまいましたが、納得いきましたでしょうか。

kurinal
質問者

お礼

garizo-cojp様、ありがとうございます。 >「独り言は、発する側も自分だし、受ける側も自分だから、言語でなくても成立します。」 ・・・はい。「一人こと」を、他者が見た場合、それは何か。

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noname#214841
noname#214841
回答No.8

>こんばんは。 こんばんは。 >大上段に構えまして、失礼致します。 どうぞ、どうぞ。少しも失礼ではありません。もつともつと大冗談にお構へくださいませ。 >(1)なんらかの「発信」があって、(2)それを受け取る(受け取ろうとする)側がある はい、これが言語の基本的な機能だと思ひます。伝達、理解しやすいこと、これが主となるべきです。相手は自分自身でもあるわけですけれど。ですから、回答番号2の方の御意見もよくわかります。人間、ずつとひとりでは楽しくありません。 ちなみに私はフェルドナンド・ソシュールの見解は噴飯物ととらへてゐます。学生のころ『一般言語学講義』は読んですぐに捨てました。以前回答番号5の方のブログにそんなことを書きましたので、ソシュールかチョムスキーかサピアをとりあげてくれるのではないかと期待したのですが、あひかはらずマイペースのやうです。

kurinal
質問者

お礼

plapota様、ご回答ありがとうございます。 >「ちなみに私はフェルドナンド・ソシュールの見解は噴飯物ととらへてゐます。学生のころ『一般言語学講義』は読んですぐに捨てました。以前回答番号5の方のブログにそんなことを書きましたので、ソシュールかチョムスキーかサピアをとりあげてくれるのではないかと期待したのですが、あひかはらずマイペースのやうです。」 「噴飯物」「読んですぐに捨てました」 ・・・(レベルに違いがあるかもしれませんが)質問者にも経験があります。

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回答No.7

たぶん言語学を知らないで、常識的に、言語は人間同士のコミニケーションの手段として発生したと考えているのだと思いますが、それは間違いです。 私が伝えるべき事柄を内的にイメージして、それを言語を持って他人に伝達し、他人はその言語を聞くことで、内的イメージを喚起され、それで他人のいうことを理解する、というように言語を考えているとしたら、それは誤解です。 言語はコミニケーションの手段でも、道具でもありません。 もし、言語が意思の伝達のための手段だとか、道具だったら、私から切り離して考えることができますが、言語は私の存在とは密接不離で、私が存在するということは言語と一緒で、言語から切り離して考えられない以上、言語は「独白」から始まったもので、私ひとりのモノ、他人とのコミニケーションは派生的に生じたものでしかありません。 たぶん、あなたは私が「独白」できるのは、その手段・道具としての言語を「私的」に用い、公的な言語の派生体と考えるかもしれませんが、それは逆です。 ソシュールが言っているように「言語はネガティヴな差異の体系」です。 また、「言語にあるのは差異だけしかない」「語と語のネガティヴな差異から意味が生じる」などと言っているように、言語は私の「内的な独白」から、その心的な「差異」から言語が発生したのであって、他人とのコミニケーションの必要から言語が発生したのではありません。 もう少し、現代の言語学をよく学んでください。 常識だけを頼りに、そんなことを言わずに。

kurinal
質問者

お礼

urigadai2013様、ご回答ありがとうございます。 >「他人とのコミニケーションの必要から言語が発生したのではありません。」 と、すると。 仮に「発狂」していても、他者とのコミュニケーションを求めている限りは「言語」です。

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noname#207011
noname#207011
回答No.6

宗教的な理解じゃ無いのだけどな・・・ 普通 どんなものにも 共通で伝える事の出来る名前が付けられる・・・ それが たまたま 文鮮明が「二性性相」と付けただけだと思うが!? だって 俺は統一教会に所属してる訳で無く 創造原理に魅了されただけだしね・・・ 宗教とは無縁・・・只 心から正しいと感じてるだけだから・・・

kurinal
質問者

お礼

nakataku42様、ありがとうございます。 >「俺は統一教会に所属してる訳で無く 創造原理に魅了されただけだしね・・・ 宗教とは無縁・・・只 心から正しいと感じてるだけだから・・」 なるほど。 >「普通 どんなものにも 共通で伝える事の出来る名前が付けられる・・・ それが たまたま 文鮮明が「二性性相」と付けただけだと思うが!?」 そうですか。「名付け」の問題なんですね。 (ピタゴラス、アルキメデス、ニュートン、アインシュタン、・・・)

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回答No.5

 こんにちは。  言葉がどのように生まれて来たか? という問いでしょ?  次のように考えます。  われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。と大きく捉えます。  われなるミクロコスモスと世界なるマクロモスモスとは 同時に生成する。     こういう仮説です。  そのとき例証として コトバの生成について想像した物語をかかげます。  そうして ひとりのわれなる主観の内面とそしてそのほかの人の主観との間におけるマジハリとは――つまり内面のみと外における言葉をとおしてのマジハリとは―― 同じ内容を持つと考えます。         *  奈良(ちなみに na-ra=地(な)‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずである。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。  つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  〔ここで 内面は言葉として 《はし。うるはし》である。外部は 見ている光景としての《やまと‐は》である〕。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。       *  すなわち 仮説のねらいとしては うたのヌシ(言葉の発信者)とその内面なる心とそして外なる周りの山々といった自然環境 これら三つは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。    人間の認識が先行するというもの(そういう一面のみ)ではなく また 環境が人間をつくるといった一面のみではない。基本は すべての存在や現象が 同時一体である。〔わづかにわが内なる心のうごきが その世界の静けさを突き破って 言葉を生成した〕。  ものごとは それとして(そう言ってよければ)量子現象として励起されるし 存在は・つまり特に人間は 知性(ないし精神 つまりは 記憶・知解・意志の三つの行為能力の一体)をともなってそのユラギが励起されるようになる。    ユラギは もともと 世界すべてにわたって 同時一体である。    といった主観内面の自己表出のドラマを持つ一人のわれが ほかのわれとのあいだでカカハリを持ちマジハリをすすめる。その内と外とは――発信と受信とは―― 誰にとっても同じ構造を成す。のではないか。中身に具体的な多様性をもった――言葉を介しての――展開がある。

kurinal
質問者

お礼

B様、ご回答ありがとうございます。 >「言葉がどのように生まれて来たか? という問いでしょ?」 ・・・そうなんですけど、 >「われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。と大きく捉えます。」 「(どうであれ、)世界の一部」と言われれば、そうですね。

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noname#207138
noname#207138
回答No.4

こんにちは。 収集範囲が巨大で面白いですね。 1. 何かの存在(思考や意思なども存在とする)がある。 2. それを他人と認識合わせをするために名付ける 3. 過去に名付けられた膨大な量の概念を順番にならべて発信する 4. 受け手(自分を含む)が受け取り、同じく過去に名付けられた膨大な量の概念を組み合わせる 5. 発話者が何を言いたいのか理解し、応える この繰り返し…でしょうかね。 まだ他にも要素がありますでしょうか… このように、言葉は「存在に対する認識を他人と共有するため」の要素が強く、極端に言ってしまえば「あれ」とか「これ」というその存在を指し示す役割しか備えておらず、故に言葉では説明できない事象は世界に山ほどある。 なぜなら、言葉というものにはそれほど優秀な機能が備わっていないから。 だから直感による理解はとても大切。 言葉の入る余地のない理解に勝る言葉による理解はなく、言葉は指し示すために存在する実体の無いものなので、言葉にはまりすぎると物事の本質を見失う事もある。 ...とでも言いましょうか。 眠たいな。。。頭が回ってない感がするがまー良い(笑)

kurinal
質問者

お礼

Apostle様、お世話になっております。ご回答ありがとうございます。 >「収集範囲が巨大で面白いですね。 1. 何かの存在(思考や意思なども存在とする)がある。 2. それを他人と認識合わせをするために名付ける 3. 過去に名付けられた膨大な量の概念を順番にならべて発信する 4. 受け手(自分を含む)が受け取り、同じく過去に名付けられた膨大な量の概念を組み合わせる 5. 発話者が何を言いたいのか理解し、応える この繰り返し…でしょうかね。 まだ他にも要素がありますでしょうか…」 Ano.2様によれば「独り言」の重要性、、、 >「このように、言葉は「存在に対する認識を他人と共有するため」の要素が強く、極端に言ってしまえば「あれ」とか「これ」というその存在を指し示す役割しか備えておらず、故に言葉では説明できない事象は世界に山ほどある。 なぜなら、言葉というものにはそれほど優秀な機能が備わっていないから。 だから直感による理解はとても大切。 言葉の入る余地のない理解に勝る言葉による理解はなく、言葉は指し示すために存在する実体の無いものなので、言葉にはまりすぎると物事の本質を見失う事もある。 ...とでも言いましょうか。 眠たいな。。。頭が回ってない感がするがまー良い(笑)」 なるほど。 「「A」と発話したら、「A」と伝わった(!)」といった、経験も、あることでしょう。

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noname#207011
noname#207011
回答No.3

授受作用ですね・・・ その前に 二性性相を勉強した方が判り易いが・・・

kurinal
質問者

お礼

nakataku42様、ご回答ありがとうございます。 「宗教的な理解」ですね。 >「その前に 二性性相を勉強した方が判り易いが・・・」 ハイハイ。

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