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難解
「行水の捨て所なし虫の声」と「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」に共通しているのはどういうことでしょう?ご存じている先生っていらっしゃいません?
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- jakyy
- ベストアンサー率50% (1998/3967)
皆さんは風流とか、愛情だとかというように いい解釈をしておられますが、 実は私は、この句には江戸時代の複雑な家族関係が 隠されていると解釈します。 風雅な句ではなく、嫁と姑の問題ですね。 【行水の捨て所なし虫の声】 行水の水を捨てようにも、姑が口うるさく、 「ここに捨ててはいけない」等というので、 捨てる場所に困っている。 「虫の声」を「姑の声」と置き換えればわかると 思います。 【朝顔に釣瓶とられてもらひ水】 これも「朝顔」を「姑」に置き換えれば わかりやすいですね。 姑が意地悪をして釣瓶を使っていて 使わしてくれないので、 隣に水をもらい行くという解釈ができます。 【嫁姑の壮絶な戦い】 両方の句には、嫁の無念さが表現されています。 「秋茄子(あきなすび)嫁に食わすな」という 表現もあります。
- mocharie
- ベストアンサー率28% (50/173)
生きるものへの思いやり、やさしさ、哀れみ、ということを 皆さんが書かれていますので、別の観点から意見を述べてみますね。 「行水をした後の水をどこにも捨てようがない、虫が鳴いているから」 tasuketeyoさんのお国では虫の音の趣きを好みますか? 日本人は虫の音が好きです。 蒸し暑い夏が終わり涼しい風が吹き始める頃 その涼感をいっそう心地よいものにするのが いろいろな虫の奏でる音です。 虫は冬になるまでには死ぬような、儚く取るに足りないものですが わずかな一生の間に一生懸命鳴いているということに 私たちはより深く感銘を受けるのですね。 虫の音は、聞いているだけで美しく心地よいものですが 一年中鳴いていたら、それほど感じ入らないのではと思うのです。 自分の汗を流した水を捨てることよりも虫の音(わずかな虫の一生)を 大切に思う心が、描かれていると思います。 「朝顔が井戸水を汲み上げる釣瓶に巻いてしまっているので 水を汲むことができずもらい水をする」 井戸から水を汲むことは、生きて行くことに必要なことですから いつまでももらい水はできないでしょう。 おそらく水を汲もうとしたのが朝で、釣瓶に巻いている 朝顔の花が咲いていた。朝顔の花は昼にはしぼみます。 せめてその時まではそのままに咲かせてあげたい、 という感じに受け取りました。 人も、虫も、花もいつかは死にます。でも必ず輝いている時があります。 その時を感じ取り、大切に思う。 それが日本人の持っている粋を愛する心、風流ということだと思います。
句の解釈は既に出ている通りですが、両句とも日本人独特の心性を表しています。日本人は仏教伝来の前から 自然の一部として生活をしていた多神教、つまり森羅万象に霊(あるいは神)が宿ると考えます。元旦の日の出を拝む、路傍の大木のほこらを祀る行為などに現われています。 従って朝顔も虫も自分と同じ生き物、仲間として受け止めます。自然と対立し自然を征服してこそ人間の幸せが得られると考える西欧、特にキリスト教徒とは違った 考え方です。 生きとし生けるものを哀れむ心が両句に働いています。
- greenbird
- ベストアンサー率42% (147/349)
こんにちは。 いい声で一心に鳴いている虫を驚かせたくないので行水の水が捨てられない・・・。 井戸水を汲めば、釣瓶に巻き付いている朝顔を痛めてしまうので、近所でもらい水をした・・・。 作者の、虫、朝顔に対してのけなげさ、思いやり、やさしさ。 ここが共通点だと思います。
- akio_myau
- ベストアンサー率34% (515/1480)
虫と朝顔の違いはあれ 自然に対するやさしさではないでしょうか。 前の句は行水の水を捨てようと思ったら 虫の声がするので、虫を脅かしてはいけないと 水を捨てられない。 後の句は井戸の水を汲むための釣瓶が 朝顔が巻きついているので それを動かしたら朝顔のツルが取れてしまうかもしれないので他から水をもらう。 という意味ではないかと思います。