まず、考察が可能な書物、考察に耐えられる書物というものが、果たして、今日、あるのかというのが疑問。そういうモノがあるように見えたとしても、それは、今日的にそういうことにしておこうという「仮説」に過ぎない。より良いモノ、より真実なるモノを求めて、「仮説」は、日々、修正を強いられていく。「真実」と信じられているモノは、実は、一時的な「仮説」なのだという認識があれば、それは、「仮定」修正に向けての「考察」ということになり、相当の力技になる。過去の関連書籍を読破することから始めなければならないということになるので、相当の時間も必要になる。
そんなことが課題とされる筈がない。
あるいは、出題者にとっては、考察と感想が同一である可能性がある。真実を感覚(感想)で捉えて論を進めることを考察と思っているかも知れないし、自身の実体験に裏打ちされた感覚、感想を進めることが、即ち、考察であると思っているかも知れない。そういう感覚が、今時の大学生の感性と思われていれば、「考察と感想」という言葉の意味は、本来のモノと違ってくる。