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大阪市天王寺区の地形についての質問です。
大阪市天王寺区やその周辺に、地形が窪地になっている場所、あるいは昔に地形が窪地になっていた場所って結構たくさんあるのでしょうか? 大阪市内は比較的平坦な土地が多いそうなのですが、 天王寺区は天王寺七坂とか上町台地があって、そうでもないみたいです。 大阪市天王寺区やその周辺には、地形が窪地になっている、もしくは過去に地形が窪地になっていた場所が、結構たくさんあるのでしょうか?
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窪地と呼ばれるようなところはそんなには沢山ありません。 ただし、明治前期までは通天閣周辺は湿地帯だったようです。 詳しくは地理院地図(電子国土Web)をご参照ください。 天王寺七坂(てんのうじななさか)などと呼ばれる坂は、天王区西部内で窪地から上る坂と言うよりは、平坦な西部地帯から、東部の茶臼山を南端とする上町台地西側(夕陽丘地区)に上る坂の総称です。 大阪の地形の変遷は大和川が大きな影響を及ぼしています。 現在大和川は生駒山系を出たあとに真っ直ぐ堺へ抜けていますが、古くは八尾の辺りを経て現在の大阪北東部で淀川に合流していました。 大阪北東部の現在河内平野と呼ばれる一帯は大阪湾に続くおおきな入江(湖)でした この斑鳩の地から続く大和川の河口にある台地(上町台地)に聖徳太子が建てたのが天王寺です。 大陸との交流で瀬戸内海をはじめとする海へ乗りだしたり帰港したりする窓口の位置でした。 大陸からの使者が窓口の地で最初に目にする立派なお寺でした。 大和川 - Wikipedia - ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/大和川 河内湖 - Wikipedia - ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/河内湖 上町台地 - Wikipedia - ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/上町台地 天王寺から西成にかけての地形の変遷は下記のサイトのほうが分かり易いかと思います 西成郡 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/西成郡 天王寺区など大阪市の西部地域である河口デルタ地帯は、大阪が「なにわ」と呼ばれた頃には、北から淀川、南から大和川(旧河内川)が流れ込んで長年の間にたくさんの砂洲ができていました。 「なにわ・八十島」といわれる干潟地帯になっていました。 現在の木津川は江戸時代初期に掘削されたものですが、古代の大阪南部にも沢山の中小河川がありました。 上町台地からの土砂を運び込んでいました。 大阪に人が住むようになってから、これらの中小河川を埋めたり砂州上に耕作地をつくるなどてして現在の平坦な地形の元になりました。 大阪のように起伏のすくない都市の高低差を道路地図やGoogleマップなどで調べるのは非常に無理があります。 数十メートルの高低差でもにそこで暮らす人には大きく影響しますが、道路地図などの縮尺の関係で高低差が表記できません。 平面の距離の縮尺と高低差の縮尺を比較してみて下さい。 実感するには、自転車で走行すると明確にわかります。 机の上で色々知識を仕入れて考えるのも良いですが、是非実感してください。 有史以来人はテクテク歩いていました。 その上で便利なように街づくり道づくりをしました。 車で走り回ったのでは、なぜこのような街になったのかということが正確には分からなくなり多々誤解を生みだしてしまいます。
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味原(鶴橋の北西。高津高校の裏辺り。)には、明治時代まで「味原池」と言う池がありましたが、今は宅地に変わっています。ここは歩いてみると地形が窪地になっていることが実感できます。 上町中学校の裏も窪地になってますね。旧熊野街道の細道が南北に通ってますが、がくんと下りて、すぐまた登り坂になります。 細工谷のあたりもその名の通り谷間になってます。谷町筋や上町筋も良く見ると結構アップダウンがあります。 どれもものすごい高低差と言う訳でもないですが、意外に多いですよ。
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ありがとうございました。 谷町筋、細工谷、清水谷等、谷のつく場所は周りより低くなっている場所ですよね。 大阪市内にも、意外に谷の付く地名は多いと思います。 近鉄上本町駅の近くに昔あった味原池は、地形の窪みを利用して造った池みたいですね。 大阪市内にも、特に天王寺区は窪地が結構あったのだと思います。 ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。