《野狐の禅》ですか。言い当て妙ですね。
しかし《野狐の禅》は一種、全ての求道者の憧れでもあるような気がします。そして少なくとも、ちょっと前までの日本人は、求道者に対して憧れを持っていたような・・・(^^;)。ここで言う「道」は、「大道廃れて仁義あり」の道とは、全く別物でありますが。
いかに世間知らずで現実的には迷惑であっても、その一途さや純粋さに打たれて、許してしまうようなところが、ちょっと前までの日本人にはあったような気がする(しょうがないから、面倒みちゃるか・・・と)。そしてそれを言ったら、高倉健さんの任侠(仁義)シリーズにだって、似たような心理が働いていた気がする。こうなるともう、「道」も「仁義」もない。
《野狐の禅》ではないですが、自分も一年に一回くらい、TVもPCもコンビニもインターネットも路線バスも酒屋もないようなスキー場で、自主キャンプを張る事があります。路線バスもないから行ったら行ったで、もうひたすらスキーするしかない。酒も呑めないので(←これが重要!)、滑ったら風呂入って飯食って寝るしかない。
そして人間界に下山した時の街の刺激の新鮮さが、なんと清々しい事か!。《滑る事》に《野狐の禅》に、理由なんかいらないのだ。やりたいからやるのだ。これぞ「三昧の境地!」などと勝手に思ってしまいます(^^;)。
なんか取り留めないですが、その道一筋の聖人が俗世間に触れて俗人化する例は、洋の東西を問わずあります。ニュートンも良い例です。東西随一の自然哲学者と持ちあげられ、国会議員となり造幣局長を任命され、そこで醜悪な縁故びいきを行います(要するに汚職です)。まるでTVに出会った、織田無道のようだ・・・って例が悪いか(^^;)。
※無道さんは、好きなんですよ(^^)。正直だから・・・。
「三昧の境地を知っている」雰囲気を発散する、現実的な迷惑者に対し日本人は、そんなに悪印象を持たないものです。たとえ行動が的外れであっても、そこにちょっと清々しさを感じちゃうのような気がします。
その学者さんは知りませんが、もしかするとその人の「暗黒面」と付き合ってるのかも知れないですね。「暗黒面」は、学者でも(学者は特に(?))誰でも持ってます。
お礼
回答ありがとうございます。 その曹洞宗の学者のせいで、 私の曹洞宗への疑問が出ているので、 関心を持たせる意味では成功しているのかもしれませんが、 曹洞宗を否定させたがっているのか?と思うようになりました。 だとしたらその曹洞宗の学者自身が実は 曹洞宗に対して否定的なのだろう、と。