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江戸時代の仏教の生まれによらない思想とは?
- 江戸時代の仏教には、生まれではなく行為の重要性を説く思想が存在していました。
- 日本の身分制度があった時代において、生まれを否定する思想が広まっていた可能性があります。
- 仏教では、行為によってバラモン(高貴者)であるか否かが決まると考えられていました。
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仏教がインドのカーストにおける四姓平等を説いているのは事実。 しかし、これは仏教教団内部での話であって、 広く社会に向けられたもの、 仏教がインド社会に存在していたカーストという制度を否定した、と考えるべきではない。 また、これは『リグ・ヴェーダ』に登場する、神々による原人供犠と合わせて理解するべきもの。 ───────── プルシャ 〈男〉〈人間〉〈家来〉などを意味するサンスクリット語であるが,次のようにインド哲学上の重要な概念として用いられる。《リグ・ベーダ》の一節では宇宙の根源(原人)とされ,神々がプルシャを供物として祭式を行ったとき,その口からバラモンが,両腕からクシャトリヤが,両腿からバイシャが,両足からシュードラが,意から月が,眼から太陽が,へそから空界が,頭から天界が,両脚から地界が生まれたという。 http://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3 ───────── これによれば、生まれどころか、生まれる前に、バラモンになれるかどうかが決まっている。 しかし、仏教は。こうしたヴェーダ伝統の考えに、「そうではない。行いによって、バラモンになれるんだ」と叛旗を翻す。 そして、 「オラッチの教えを信じ、修行すれば、だれでもバラモン(梵行者)になれるんだ」 と声高に主張するのであった。 ───輪廻説も絡むよ!! この世で善行を積まないと、いい身分に生まれかわれない!!─── また、 『ダンマパダ』 第二十六章 バラモン が参考になります。 ここにおいては、バラモン(brahmana)の意味のすり替えが行われております。 そして、 仏教を信じ、そして出家し、梵行をしない者は、バラモンになれない、 と続きます。 そもそも、仏教は超俗の教えであり、俗事に関わらない。 世俗生活や世俗の慣習に口を出さないのであった。 世俗社会に、カーストがあろうが、士農工商という身分制度があろうが、 そんなことは仏教の知ったことではありません。 仏教を買いかぶってはいけないのであった。 一応、仏教教団内部(出家者だね)では、 出身、世俗にいたときの身分は関係ないとされますが、これも建前であり、理念、原則にすぎない。 中卒と名門大学・大学院卒では能力が違うもの───地頭(じあたま)のよさではないことに注意───、 教団内部での扱いも自然と違ってくるのであった。
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- SPS700
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カースト制度のインドで生まれた仏教は、一種の宗教改革(諸民平等)だったからです。 まあこれが小乗へ進む根拠に使われるのは明白ですけど、、、 日本でも、真言宗旨の安心は「上根下根のへだてなく」とインドの教えは続いています。「身分」が大切だった人達にはそっぽを向かれた訳ですが、、、
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど。真言宗だとインドの教えは続いていたのですね。
お礼
回答ありがとうございます。 問題点がわかってきたような気がします。 出家によって、世俗といくらでも分離できる 利点というか欠点というか特徴があるわけか。