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1900年「義和団の乱」1904年「日露戦争」
1900年「義和団の乱」では、日本は何故派兵したのでしょうか。 また、1904年、「日露戦争」は、自衛戦争でしょうか。 簡潔にお願い致します。
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義和団は反キリスト教集団です。当時の清は欧米列強に侵略されていて、不平等条約に苦しんでいました。「キリスト教」と言えば、慈善事業などが思い浮かびますが、ユダヤ教やイスラム教との宗教戦争を続ける一面も忘れてはいけません。白人至上主義なので、清でも数々の横暴を繰り返しました。それに対抗するために立ち上がったのが義和団だったのです。 義和団は「扶清滅洋(清を助け、西洋を倒す)」をスローガンとしていましたので、清は義和団の味方についたのです。しかし、義和団による破壊活動は、諸外国の公使にも被害が及ぶようになりました。欧米は当然ながらキリスト教側に味方することになります。 しかし、英米などは他国との戦争中だったので兵力を義和団に向けることができません。そこで日本に『派兵の依頼』が舞い込んだのです。 一方、ロシアも兵力に余裕がありましたので、南下して満州を占領しました。ロシアの勢力をくい止めるために、日英同盟がこのタイミングで結ばれました。英国は清における自国の権益を日本の助けによって守ろうとしたのです。日本にとっては、英国がロシアを西側から圧力をかけることで、極東への派兵を牽制することができます。 ロシアが南下し、朝鮮半島にまで勢力を伸ばすと、その先の日本が侵略の射程に入ってきます。日本は日清戦争で得た、朝鮮半島における優位さを失うわけにはいきません。ロシアの南下を食い止めるために、『自衛の戦争』を決意したのです。
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- princelilac
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>欧米に依頼され参戦した日本がロシアを押し戻し、…欧米諸国は、喜んだのでしょうか。 欧米には満州と朝鮮半島には食指が動いていませんでした。それが証拠に日韓併合には何一つ反論がなかったからです。当時は(現在も)朝鮮半島の民意はとても低く、拡大方針一辺倒の清でさえ朝鮮を併合することは金輪際考えませんでした。「半島は日本に任せておけ」という態度だったのです。厄介者を日本に押し付けていたのです。しかし清には各国が権益をもっていますので、それをロシアに脅かされるのは絶対に避けなければなりませんでした。 >また、英米などは他国との戦争中だったとのことですが、何と言う戦争でしょうか。 英…南アフリカでボーア戦争 米…フィリピンとの戦争 いずれも植民地獲得のための侵略戦争です。白人国家は世界中で殺戮を繰り返して、植民地を獲得していったのです。日本はあくまで自衛のためであり、第二次大戦も植民地の解放のために一国で戦ったのです。
お礼
欧米は満州と朝鮮半島には食指が動いていませんでした。→なるほど。それは驚きです。しかし、日露戦争後、米国人の鉄道王が満鉄を買収しにきましたね。これは気が変わったということでしょうか。 このときに、満州を売り払っておけばよかった、との意見があります。また、小村寿太郎外相は、大衆の扇動に押されての判断だったらしいですが、これはしょうがないのでしょうか。小村が悪いのでしょうか。
- area_99
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ナポレオン戦争が終結し、ウィーン会議により、新五カ国体制が確立すると、それらが列強(今で言うG5)になりました。 これが後の国連の始まりです。 明治維新以後、日本は列強への参加の道のりをずっと歩いてきました。 で、遂に日清戦争の勝利により、この列強入りを果たします。 アジアにとっては、G7(アメリカを含むようになった)になりました。 1800年以降の中国では、列強下の宣教師の影響で、国内各所でキリスト教が蔓延。 1850年の太平天国事戦争を経て、反キリストのテロ事件が横行した。 これが、民衆武装集団の梅花拳(構成員3000人)※後に義和拳⇒義和団と改称。 このテロ活動に、慈禧太后(西太后)が賛同して、G7に宣戦布告して始まったのが北清戦争(義和団の乱)です。 日本は伊藤博文が、総理大臣を退き、アドバイザーとして、中国へ協力していました。 慈禧太后政権へも、軍事・経済協力という形で、日・英・米・中の4カ国同盟を締結して、中国の近代化を手助けしようと提案していましたが、日本公使館員の殺害を受けて、派兵することになり、瞬く間にG7連合軍が紫禁城を陥落させて、北清戦争は終結しました。 ヨーロッパでは、1850年以降のクリミア戦争での仏・露で泥沼になっていた。 結局、独・露間で、ヴェルサイユ条約締結でバルカン半島での戦争が停戦すると、露の南下政策は極東の遼東半島の旅順港への侵攻へと繋がる。 当時、朝鮮は日清戦争後の朝鮮政権が、日韓併合を画策しており、大規模な鉄道事業を行っていました。 この露の東征は日本においても脅威であり、日英同盟化の日本として看過できない事態でした。 あろうことか、大韓帝国の高宗がクーデターを起して、露に支援を求めます。 これが日露戦争への口火となりました。 戦闘はバルカン半島から派遣された露バルチック艦隊を、日本の連合艦隊が対馬沖で壊滅させ、陸戦に於いては、旅順港を落とし、その後の大規模会戦でも日本の勝利に終わり、停戦しました。 ですので、どちらもテロやクーデターといった武装勢力からの邦人救出目的であると言えます。
お礼
「義和団の乱」→ 日本公使館員の殺害を受けて派兵 「日露戦争」→ 大韓帝国の高宗がクーデターを起して ですね。
- hekiyu
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こういうのは、幕末から明治維新・・日清日露戦争・・ 大東亜戦争に至る過程までも 含む流れの中で理解する必要があります。 露寇事件やらアヘン戦争やらで、日本は列強の侵略に 怯えることになります。 高杉晋作や伊藤博文なども、上海へ渡って、中国人が奴隷のように 使役されている姿を眼にして、このままでは日本も こうなる、と危機感を持つわけです。 特に懸念されるのが、南下政策を採っていたロシアです。 日清日露戦争は、ロシアの侵略を阻止せんとする戦いでした。 ”「義和団の乱」では、日本は何故派兵したのでしょうか。” ↑ 大義名分としては、公使館保護でしたが、実体は 大量の兵士を派遣したロシアに対抗するためです。 ロシアの大軍が、隣国である中国に存在することは 日本の安全保障上マズイわけです。 ”「日露戦争」は、自衛戦争でしょうか。” ↑ 戦争の目的は一つではありませんが、自衛という面が強い 戦争です。 朝鮮半島は、日本とは目と鼻の先にあります。 あそこがロシアのモノになったら、日本の安全は危殆に瀕する ことになります。 対馬などからは、半島が肉眼で見えるほど近いのです。 元寇も、半島経由で日本を侵略しています。 隣国に、敵の強力な軍事力が存在する、ということは大変 なことなのです。 キューバにミサイル基地が出来る、ということで、米国は 第三次大戦覚悟で海上封鎖に出ました。 平和惚けしている日本人には、こういう感覚が理解できない のです。 南下政策を続けるロシアに対抗するため、朝鮮半島を巡って 日露戦争になった訳です。 半島がロシアのモノになれば、次は日本です。
お礼
「1900年義和団の乱」→大義名分としては、公使館保護 なるほど。そういうの勝手に、保護する~と言えばOKなんですね。 じつは、お答えはだいたい分かっているのですが、おっしゃるとおり、このあたりから大東亜戦争までの中で、「海外で戦ってるんだから侵略でしょ~」との意見が多くあります。その海外派兵の流れの始まりが、この義和団の乱でいいでしょうか。 また、その後の、「1932年満洲国建国」~「1937-1945年日中戦争」では、どのような大義名分、理由からでしょうか。 簡潔にお願い致します。
お礼
日本に『派兵の依頼』だった/日英同盟がこのタイミングで結ばれた よく分かりました。 しかし、欧米に依頼され参戦した日本がロシアを押し戻し、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得したそうですが、これで欧米諸国は、喜んだのでしょうか。 また、英米などは他国との戦争中だったとのことですが、何と言う戦争でしょうか。 このあたりが大東亜戦争に繋がるのですが、しかし複雑ですね。w