• ベストアンサー

武士の登場

社会科の資料集に「国司に任命された中級貴族は、規定以上の税をとりたて、私服を肥やしました。この政治のみだれから、武士団が登場しました。」とありますが、この「政治のみだれ」が「武士団が登場」するまでの経緯をもっと詳しく教えてくれないでしょうか。この2つの結びつきがイマイチよく分かりません。宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Nebu3
  • ベストアンサー率29% (114/386)
回答No.2

 中高程度の知識しかありません。あしからず。  まず、「政治の乱れ」とはどんな状況か?  中央(京都)の朝廷が急速に地方への関心をなくします。理由の一は関心をもたずとも税はきちんと 入る事。いつの時代もそうだけど時代の終わりには文化の爛熟というか中央貴族は宮中の社交や遊び に熱中、権謀術策で頭脳が満杯です。そして実際上も地方勢力の台頭で中央が地方を監視する力が 衰えている事。  中央の監視が衰えて、上級貴族が国司になるのを避けると中級貴族が上級貴族に付け届けをして 自分が上級貴族に変わって国司に任命してもらえるようになる。あるいは上級貴族は名だけ国司で 実務は中級貴族に任せて地方に赴任させる。  中級貴族の多くは地方では実質No.1の権力を振るう。中央の監視が乏しいので好き放題の政治。 (愛知県の豪族その他らは連名で朝廷に国司の非道を訴えて朝廷が国司を入れ替えた実例があります)  権力者が好き放題=1に規定以上の税を徴収。2に支配される庶民の心身を痛めつける。  地方において権力者の国司が横暴に振る舞うと支配される人々はたまったものではない。 (1) より力をもつ中央貴族に自分が開墾した農地を寄進し所有名義は中央貴族、実質管理は有力農民。 (2) 中央の皇族が人数が増えすぎて養えなくなり、「源」「平」の姓を与えて地方に土着させた。彼等は  地方で元皇族の権威と財力で開墾しつつ地方の有力農民を徐々に配下におさめていく。 (3) 有力農民は名主(みょうしゅ)として自ら開墾した農地を守るために武装しはじめる。  以上の経緯で関東をメインに各地に大小様々の武士団が形成され源氏・平氏のもとに統率されます。 ※ (3)そのものは間違いのないことですが(史料に地方豪族の武装した屋敷の絵があります)、近年の  研究ではそれ以上に武装する動機が都で朝廷や貴族を警護する仕事を得るためだったことがわかって  きたそうですが詳しくは知りません。

tontokotonton
質問者

お礼

詳しく回答してくださり、ありがとうございました!大変分かりやすかったです。

その他の回答 (6)

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.7

ちょっと教科書みたいに書き過ぎました。 簡単に説明すると中国の律令制を真似て作った貴族による支配体制が制度疲労を起こしていたのです。貴族の荘園と言うだけで高い税金を貴族に取られて馬鹿らしくなったのです。それを不満に思う地方の豪族が京から遠い東国で反乱を起こすのです。政治のみだれと表現しているものですが、政治がみだれたのではなく律令制の矛盾が噴出したのです。 それを鎮圧するのに朝廷に侍る武士の頭領を使うと、反乱のたびに武士が力を増すようになったのです。武士団とは平氏や源氏のような頭領によって纏められた武士達のことを武士団と言っているのです。

tontokotonton
質問者

お礼

簡潔に分かりやすく説明してくださり、ありがとうございました。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.6

律令国家であった古代社会から中世社会に変革する原動力が武士の登場であった。政治の乱れとの表現は抽象的で分り難いですね。中級貴族が悪く搾取したので武士が登場したのではありません。先に結論を言うと律令制から封建制の移行に伴う社会発展の過程なのです。ヨーロッパでローマ帝国が崩壊し、中世諸侯による封建制に移行するのと同じ現象なのです。 詳しく説明すると、貴族の世の中である荘園制度の律令体制が平安時代の中頃から崩壊し始めるのです。この律令体制の矛盾は辺境の東国から始まるのです。農民は生産力の向上により成長し、荘園の発展に寄与するのだが、荘園はその警護のために私兵が雇われ、寺院には僧兵が雇われたのもこの時代からです。 折りしも、律令体制への反乱として平将門の乱が起こり、関東を平定して新皇と名乗ったのです。これを鎮圧したのが従兄弟の平貞盛で、後の清盛に続く家系です。乱は鎮圧されたのですが、私兵が武士として活躍し根付いたのです。以来、東国は安定せず武士同士で反目を繰り返すのです。 それでも荘園発展は続き、そのピークは藤原氏の全盛期である藤原道長の時代であった。貴族たちはその冨を競い荘園に過酷な税による搾取を行なったのです。これを後世で私腹を肥やしたと言われているのです。 藤原の栄華を誇った藤原道長の死の翌年に関東で平忠常が反乱を起こし鎮圧されるが、奥州でも反乱が起こり源頼義やその子の源義家を派遣し鎮圧するのですが、関東にも源氏の勢力が残るのことになります。貴族社会は勢力争いて院政が登場し、保元・平治の乱で武士はさらに力を増し、平清盛、源頼朝へと時代が進むのです。 中公文庫「日本の歴史・全26巻」 第6巻武士の登場 竹内理三著 を参考にして回答しています。

tontokotonton
質問者

お礼

わざわざ文献から紹介してくださり、ありがとうございました。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 こんにちは、復習を兼ねて、少しばかりお話ししますね。 >「国司」に任命された中級貴族  ここに出てくる「国司」は任命されたのは、誰(あるいは組織)によって任命されたのでしょうか。そうですね、「律令制度によって作られた政府(太政官と呼ぶ、現在の政府に相当する組織)」です。  そして「律令制度」での中央と地方の関係がどの様なものであったか。その地方を治める監督者には「国司・郡司・里長」がいましたね?。ここまでは既に一学期で習っているはずです。  この「国・郡・里」ですが、それは行政単位に相当します。今でいう「都道府県」と「市町村」そして「個別の地域内での○○丁目などの地区割」に喩えることができ、それぞれを管轄する仕事を担当するのが「国司・郡司・里長」になります。ここまでは行政組織の話をしてきましたが、もう一つ重要なポイントがあります。それが「経済的側面」からみた「律令制度の問題」です。  律令制度下での租税がどのようなものであったかを思い出してみて下さい。律令制度が導入される以前には「国」もしくは「国家」という枠組がありませんでした。有力豪族の寄り合いによって全てが決められていた社会であり、それと律令の考え方は全く逆になります。  律令制度は法律に基づいた行政なり租税の徴収を行うと習いましたよね?。「班田収受」が戸籍を作りそれに基づいて口分田を支給され、そこから一定の税額を納める(租)と調庸そして雑徭が古代の税制の中心的な税でした。  ここで「租」の意味を考えてみましょう。祖は土地を耕作してそこから税を納めるとの考え方ですから、その土地が耕作に適しているかどうかとの問題もあれば、実際に耕作に携わることのできる人間が調査に基づくものと同じであるかどうかにも関わってきます。もしその土地が山間の小さな場所や湿地帯だったならば、規定に基づく税を納めることは難しくなります。けれども税は納めねばならないとのジレンマにも陥ります。  また一方で、支給される口分田をどうやって確保するかとの土地不足の問題もあります。  そこで政府がひねり出した考えは、当初の「耕作地は全て国家が管理し、それを国民に付与する」との国家的土地所有制の考え方から、開発した土地は貴方のものですよとの方向転換を余儀なくされます。  それが723年の「三世一身法」であり、20年後には「墾田永世私財法」です。前者は「新たに土地を開墾した場合は、その開墾者を含む三世代もしくは当事者の世代に限って」自分の土地であることを認めるとの法律であり、後者は、新たに開墾したその土地の所有権を永久的に認めるとの、律令の原則とは正反対の考え方でした。  この2つの変更により、日本の土地所有とそれに基づく徴税システムは大きく方向転換を迎えることになりました。  それが「荘園」と呼ばれる私有地とそれに関わる様々な権利そして階層を生み出していくことにもつながります。  最初の荘園は「墾田地系荘園」と呼ばれ、開墾した人間と所有権を持つ人間が1対1の関係で対応していました。それがやがて「寄進地系荘園」と呼ばれる中世的なものに変化していきます。  この「寄進地系荘園」が「墾田地系荘園」と異なる最大の点は、土地に関わる人間が最低でも2人以上はいるとのことであり、実地でその土地を管理する人間と権利上の所有者が違うとの意味にもなります。本当の所有者の多くは都にいる貴族やら大寺院であり、現地で管理する人間は「本当の所有者(権利上の所有者)」から管理を委託されている形です。賃貸マンションの管理人といえば解りやすいかもしれませんね。現地にいるから実情も知り、その上で現地の人も土地も掌握していく形です。  そしてその現地での管理人の多くが元は郡司の家柄の人間であったり、その地域の有力者であったことも既に勉強しているはずで、彼等の中から「武士」が登場していくことにもなります。  次の質問ですが、これは10世紀の地方と中央の関係を物語る史料として「尾張国郡司百姓等解文」が知られています。この史料は尾張の国に赴任した国司である藤原元命という人物が任国で行った非法行為を31の実例に基づいて、郡司や庶民が中央政府に訴え出た史料として知られています。  (1)規定額以上の税金を取り立てた  (2)租税田(口分田に当たる土地)とそうではない土地を区分けせず、そうではない土地にも口分田並の税金を課した  (3)租の税額を勝手に変更すると共に4・5月の農繁期に役人を派遣し、租以外の税(交易雑物としての直稲)を取り立てた  (4)規定にある出挙(すいこ)の利息以外に別な利息を設定すると共にそれを私財として懐に入れた(横領) 等々が綴られています。31の実例全てを挙げてもかまいませんが、中学校レベルですと使うことの出来る歴史用語にも制限がありますので、説明が少し難しくなりますが、どうしましょうか?  【付録】 「武士」といっても時代劇や大河ドラマに出てくる、鎧兜で武装した人や集団を想像するととても危険な理解といえます。  日常的には農民と同様に田畑を耕すなどの農業に従事してもいて、そうした彼等は武力と共に経済的支配能力を蓄えていたことも付け加えさせていただきます。殊に時代劇に登場する「さむらいの姿」が必ずしも武士のイメージそのものであるとはいえません。  源頼朝や足利尊氏がなぜそうした地位に上り詰めることができたかを歴史の中にある様々な要素から理解していってください。最初から将軍だったわけではありませんから。

tontokotonton
質問者

お礼

詳しく回答してくださり、ありがとございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

「政治がみだれたから」という言葉に注意してください。 社会科の資料に書かれている時代よりも前までは、都を離れた遠い地方でも、国司という人達はきちんと機能を果たしていました。 つまり、政治は乱れていませんでした。 社会科の資料の時代になりますと、国司が都の規定にはずれた勝手なことをやりだして本来の国司の仕事を蔑ろにするようになりました。 つまり、政治が乱れました。 この結果、そこに住んでいる人達の間で起きる揉め事やドロボーなどを仲裁したり取り締まりする人がいなくなってしまいました。 これでは困ります。 元々地方に住んでいた、腕力の強い武器の取り扱いになれた人に揉め事の仲裁や解決を依頼するようになりました。 まぁ~用心棒を雇うような感じです。 これを個々にやったのでは、揉め事が喧嘩になって挙句の果てに武力闘争になってしまいます。 これもまた困ります。 この腕力が強くて武器の取り扱いになれた連中を統率する人が求められて出てきました。 この統率された集団を社会科の教科書や資料では武士集団と呼びます。 比較的分かり易いのが平将門です。 初めのうちは、身の回りの揉め事を解決していましたが、住んでいる人の評判がよく、私の所もお願いします、という人が増えて、取り扱う地域がどんどん広がっていきました。結局、国司のかわりのような立場になってしまいました。こうなれば当然都から認められていた国司と揉めます。 揉めた挙句に追い出してしまいました。 追い出された国司は都へ行って謀反人だと訴えました。 結局朝廷から派遣された武装部隊と戦争になり、負けてしまいました。 この将門のような人達が全国のあちらこちらに現れたことを、社会科の資料では武士団が登場した、と説明しています。 蛇足 教科書などで使われています「武士」と「武士団」とは違う言葉として使われていますので注意して下さい。 「武士」の集まった集団が「武士団」ではありませんので注意して下さい。 社会科の資料で説明されている時代には「武士」という言葉はありませんでした。 兵(つわもの)と呼ばれていました。 そんなら、兵団であって武士団ではないではないか!と怒らないでください。 武士とはそもそもどのような人達を指すのか、いつからいるのか、ということが学会では未だにこれだという定説がありません。 古くから朝廷は武装集団を組織として持っていました。 万葉集に出てくる防人などと呼ばれている人達です。 奈良時代までは兵部省と呼ばれる現在でいえば軍隊があってきちんと機能していました。 平和な平安時代になると武力は嫌われてうやむやになってしまいました。 平安時代以降江戸時代までの間、朝廷は軍隊に相当するものを持っていませんでした。 時々に応じて、官僚を任命して、その人に武力闘争すなわち戦争を請け負わせていました。 この武力闘争を専門に請け負うようになった人を侍=さむらい=さぶろうも、のと呼んでいました。 武士とは呼ばれていませんでした。 平家とか源氏というのはこのような人達でした。 江戸時代の武士とは制度上の性格が違います。 なんともややこしい話です。

tontokotonton
質問者

お礼

非常に分かりやすく、説得力のある説明をありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.3

tontokotonton さん、おはようございます。 そうですね。国司も受領階級の人ですと、私腹を肥やすことが仕事のようなものですが、農民たちの中には自分たちの開墾した農地から規定以上の税を取られるのを嫌がる人たちも出ました。それで武装したのです。 武士団のリーダー格は墾田永年私財法に基づく墾田私有者は「開発領主と書いてかいほつりょうしゅ」と呼びますが、大抵は富裕な農民層や旧郡司階級が多いようです。 また、こういう農地は荘園と呼ばれ、自分たちの土地の名目だけの所有権を有力寺社や公家(特に摂関家)に寄進し、自分たちはそこの農地の管理人として実質的に管理し、「」不輸不入の権」を獲得し、国司たちから税金や役人が荘園内に入ってこないようにしました。 詳細は下記のURLを参照ください。 開発領主 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%99%BA%E9%A0%98%E4%B8%BB 武士 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB 武士団 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E5%9B%A3

tontokotonton
質問者

お礼

ithiさん おはようございます! 「「不輸不入の権」を獲得し、国司たちから税金や役人が荘園内に入ってこないようにしました」…なるほど!それで武装する必要があったのですね。 ありがとうございました。

  • dolittle0
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.1

政治がまともに機能していなく治安も悪い状況では、自分の土地・財産を守ることが重要になります。そのための自衛手段として登場したのが武士(武装農民)です。

tontokotonton
質問者

お礼

なるほど。回答してくださり、ありがとうございました。