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アスペな私に教えて~命は何より大切なのか~その2

前回の質問である「アスペな私に教えて下さい!~命は何より大切なのか~」の流れを受けての質問となります。(http://okwave.jp/qa/q8696467.html?from=history) 私はアスペルガー症候群を医師より診断されており、三級の手帳をもっています。医学的には間違いなくアスペです。日常生活で困ることは多くありませんが、本音と建前の使い分けの基準で、少し疑問に思うところがあり、質問いたします。 前回の質問では、命の価値は普遍なのか、相対的なのかという質問に対して、多くの方が、「普遍(何より大切)でもあり、相対的でもある」と答えておられました。 私の出した例題も、かなり過酷な状況を想定してものでしたので、余計にそう感じられたかと思います。皆様の回答は、分かるのですが、もやもやが残りました。いわゆるファジーな感覚がモヤモヤの原因だろうという指摘を頂き、今回は、そのモヤモヤにスポットを当てた質問となります。 「命の価値に優劣は無く、皆平等に尊いものである」事は、ある種当たり前のことだと思います。これを字義通りに理解すると、私も、回答者の皆さんも同じ「価値」を持つ命の保持者であると、仮定できると思います。これが、世間一般で「命は尊いもの。誰の命も奪ってはならない」といっても、ほとんどの人は異論を挟まないと思います。これは、建前(社会的な側面)だと私は思っています 一方で、私たちは建前を当然のこととして受け入れた上で「身近な人」と「見ず知らずの人」で、ごく自然に分類分けします。例えば、シリアやウクライナで、あるいはイスラエルで大勢の人が不幸で無くなっても、私たちは憤りこそすれ、身近な人がいなくなるような悲しみは受けませんよね。でも、身近な人が亡くなれば、深く悲しみにくれます。 これは当たり前のことなのは理解できます。様は区別の問題で、私たちは見ず知らずの人の「死」を情報としてしか捉えていない。自分の心理に重大な影響を与える因子としては、認識していない(できない?)と、私は理由付けています。「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」これを、本音と言い換えます。 この本音を、例えば大勢の人の前で発言すると、たぶん顰蹙を買うと思います。議会の野次ではありませんが、「良識を疑う」とか「人として大切な資質が欠けているのでは?」というような、批判を受けるかもしれません。社会的には、受け入れづらいことだと思います。 ここまでが、前回の質問から、私が考え、理解できたと思う事柄です。 ここからが質問なのですが、上記の文章を踏まえたうえで 1 命の価値に関しての建前と本音の違いを皆さんは、自分自身にどう説明しておられますか? 2 命の価値に関する建前と本音の間の曖昧さが、気にかかることはありますか? 3 社会の中のこうした建前と本音の「違い」と出くわしたとき、皆さんはそれをどのように捕らえているのでしょうか?(私の場合は、とりあえず社会的に必要とされている答えと、自分の本音の二つを用意し、必要な場面で切り替えつつ、二つの間の線引きできる場所を考えます) 4 このようなことを、真剣に考えても理解できない私は(アスペですが)普通の方から見ると、やはり異様に見えるものなのでしょうか? について、教えていただきたいのです。 明確な答えなど、無い問題なのは分かっているのですが、普通の方がどう考えて、どう思うのか。自分の参考に出来る子tが無いかを考えたいのです。 難しい質問とは思いますが、回答いただければうれしく思います。 よろしくお願いいたします。

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noname#246942
noname#246942
回答No.9

他の回答者さんに対する補足を拝見。 つまり、この質問の本質は「命の価値」そのものではなくて、君が抱えている「モヤモヤの正体」と言う事だね? だったら、「質問の本質」として、そもそもの「着眼点が違う」としか言えないな。 この質問の内容では、君の中のファジーな感覚を、恐らく明確にする事は出来ない。 今よりももっと、白黒ハッキリさせたいのなら、命の価値に対する「本音と建て前」では無く、命の価値に対する「理想と現実」と考えて見てはどうだろう? 実際、君の分析力は大したものだと思うし、文章構成から見ても、頭の回転の速さは相当のものだと思う。 でも、だからなのかな。 随所に自分の視点や感想を織り交ぜてはいるものの、あまりに物事を客観視し過ぎて、完璧を求め過ぎているように感じる。 一つの物事に対して白黒ハッキリさせたいと思うあまり、余計に物事の本質からかけ離れて行く事など、往々にあるものだよ。 本当に明確な答えを導き出したいのであれば、少し離れて、もっと全体を見渡す事の出来る大きな視野を持つ事も、一つの方法だと言えよう。 さて、話がずれてしまったが、最初に話した、命の価値に対しての「本音と建て前」ではなく、「理想と現実」と言う事について。 例えば、「光」がある所には、必ず「影」が存在するように、「理想と現実」もまた、片方だけを肯定したり、片方だけを否定していては、全体の答えは見えてこない。 君は、前回の質問で、もし津波に襲われて逃げている際に、見知らぬ人から助けを求められたとしても「自分は助けない」と言っていたね? それは、「自分の命が一番大事だから」だとも言っていた。 今の時点で、それが君の「本音」であり、「現実」でもあるだろう。 しかし、果たしてずっとこれからも、本当にそれを「正解」と言い続ける事が出来るのか?と聞かれれば、君はどう答えるだろうね? ここで君に質問したい事があるのだが、例えば、自分の「命」と、自分の「人生」。 君は、どちらが大切で、どちらに価値があると思う? 実際に、自らの命を犠牲にしても、他人の命を救おうとした者は、この世に多く存在する。 自分には、その者達の全てが、普段から決して君のように「自分の命が一番大事だ」と思っていなかった訳では無かったように思う。 逆に、普段から「死にたい」「死にたい」と言っている奴に限って、そういう時にこそ動けないだろうと、自分個人では思っている。 では、頭で考えるより先に、体が動いてしまうのは、どういう事なのか? 「自分の命」よりも、「他人の命」の方が大事だからだと思ったからなのか? あくまでも想像ではあるが、自らを犠牲にしてまで、他人の命を救う者達が、その瞬間に「最も優先した」ものは、「他人の命」ではなく、「自らの意志」では無かったのだろうか? 決して、自分の命を粗末にしたつもりなど無かったであろう。 そういう意味で考えれば、君の現時点での「本音」と「現実」は、どっちが「建て前」でどっちが「理想」と言えるだろうか? 「本音と建て前」自体は、白黒ハッキリ区別できるものだし、「現実と理想」自体も、白黒ハッキリ区別できるものだ。 しかし、「本音と建て前」「理想と現実」を並べた場合、その時点で線引きが非常に曖昧になるのだと自分は思う。 曖昧な部分は、全体を広く見ればハッキリ区別できる。 しかし、全体の答えを見るのは、「自分の答え」を見つける為のきっかけに過ぎないと言う事を、忘れてはいけない。 長くなり、質問の主旨とはずれてしまったが、参考程度まで。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とても参考になります。正直、自分では気付かない視点だったもので。 回答ありがとうございます。

noname#208590
質問者

補足

回答ありがとうございます。 まず、回答を寄せてくださった皆様にですが、 私事が重なり思うように時間がとれず、お礼が出来ていないこと、まずこの場で謝罪いたします。今日明日で、時間がとれると思います。本当に申し訳ありません。 ご質問いただいたこと、私の言葉でいうと命の捨て所だと思います。自分以外の何かのために、自分が納得したうえで、命を使う。例えとして適切出はないかも知れませんが、特攻隊の遺書のような覚悟を持つことは、私の理想とするところです。 ただ自分の卑しさも承知していますので、現在の段階で、理想のように行動出きるか、自信がなく、自分の命が一番大事と申しております。これは実際、実行して実績ができるまで、変わらないと思います。だってそんな立派なことできると言うのは、すこぶる恥ずかしい行為ですから。 今回の質問は私としてはかなり芯に迫ったつもり でしたが、少し視野狭窄でしょうか?それとも真理を求め、ただひとつの答えを求め過ぎているでしょうか? もし宜しければ、問題からの距離の取り方、客観と主観のバランスなど、その辺りに関しても教えていただけると嬉しいです。 私の知りたいことの本質を突いた回答でした。取り敢えず補足として、失礼いたします。 お礼は必ずいたします。ありがとうございます。

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その他の回答 (13)

回答No.3

1 命の価値に関しての建前と本音の違いを皆さんは、自分自身にどう説明しておられますか? 正直建前とか使うときがないので自分自身に説明する必要がない 2 命の価値に関する建前と本音の間の曖昧さが、気にかかることはありますか? 曖昧さがないので気にしない TVでの茶番はうっとしい 3 社会の中のこうした建前と本音の「違い」と出くわしたとき、皆さんはそれをどのように捕らえているのでしょうか?(私の場合は、とりあえず社会的に必要とされている答えと、自分の本音の二つを用意し、必要な場面で切り替えつつ、二つの間の線引きできる場所を考えます) なるべく関わらないようにする ようはかわいそうとか思ってもいないことは あまり言わないようにする。 ただし、自分自身でかわいそうと思ったことは否定しない。 4 このようなことを、真剣に考えても理解できない私は(アスペですが)普通の方から見ると、やはり異様に見えるものなのでしょうか? べつにそう思わない。 なんか私のほうが異常者なのかと・・・病院に行こうかな・・・って思ったぐらいです。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 本音と建前の使い分しないでもいいのは、ある意味凄くいい環境ですね。私などは、建前の構築に会話リソースが割かれて、会話が楽しくないことが多いので、羨ましいです。きっと自分に素直な方なのでしょうね。 異常者を鏡にすれば、映る自分の姿も異常者のように見えてしまいますよ。鏡が歪んでいれば、正しい像は現れません。どうか自分のことをそう思わないようにしてください。 回答ありがとうございました。

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回答No.2

1・疑問は無いのでなんとも 2・曖昧で当たり前 3・引っかかる部分は無いし気にしない 4・10代半ば迄で決着ついてて当たり前な事案です 命の価値を云々、と心情は切り離して考えないと無限ループだ

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 命の価値と心情は切り離すというのは、個々の事情を汲み取る場合と、全体を俯瞰して客観データとして見る場合を区別しろと言うことでしょうか?一つも大事・全体も大事では、確かに論が進みませんね。参考に致します。 ここまでざっくりとされていると、どうして何も気にならないのかが、逆に気になります。私も、回答者様のように考えることが出来れば、いいのになぁと思います。 回答ありがとうございました。

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回答No.1

本音と建前を使い分けるというと難しそうですが、自分の身を守る、と置き換えるとわかりやすいです。 自分の身を守るということは、まずは自分が今どのような状況に置かれているのかを理解することです。 同時に、自分の行動によって相手がどのような気持ちになるのかを知ることも必要です。 その発言によって、相手がどう感じてリアクションしてくるのか、相手に自分がどう思われるのか、そのように思われたら自分の身によくないことが起こるかどうか、通常の人はそのようなことを常に考えています。 そのような状況把握にもとづき、自分の身の安全、あるいは自分に対する評価の低下を防止するという基準を使い分けて発言たり行動することが、はたから見れば本音と建前、二枚舌に見えるというだけのことです。 こうした思慮に欠けると、空気がよめないと評されたり、素直で裏表がないと褒められたりします。 それが病的に欠落している場合がアスペルガー症候群などと言われるのではないでしょうか。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私の場合、回答者さまの言う「相手がどう感じるか」を考える能力が、ずれているんだろうなと思います。「もし自分が、同じ事をされたら」と考えることが、まず間違いだと指摘されたことがあります。正直、定常発達のかたの考え方が、超能力者に見えるときがあります。 自分なりに努力はしているのですが、及ばないのがアスペルガーたる所以でしょうか。 回答ありがとうございました。

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