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曽我兄弟と宇治川の戦い

僕は京都の宇治川の近くに住んでいます。  近所には曽我という苗字が多く、聞いたところによると 曽我兄弟のゆかりの地だというのです。曽我兄弟が 宇治川の戦いに参加して、その一部の人の誰かが このあたりに住み着いたのが最初とか・・  しかしgoogleで調べてみたところ、曽我兄弟は 宇治川の戦いに参加してないように思います。  曽我兄弟は宇治川の戦いに参加してたのでしょか。 また曽我兄弟の血族が京都に住んでいたような根拠は あるのでしょうか。  教えていただけたら幸いです。

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  • tomotaro
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回答No.1

可能性としては少ないと思います。 家紋などわかるでしょうか? 曾我兄弟の曾我氏は相模を中心とし家紋は五七の桐になります。 可能性があれば宇治川の戦いでは 義仲は敗走したが、近江国の粟津で、相模国の住人石田次郎為久によって殺された。義仲ときに31歳であった。 とあります。この石田氏が相模ということで曾我氏の同郷ですからなんらの関係の可能性があると思いますがほとんど考えられないでしょう。 曾我兄弟の曾我氏は相模の工藤氏がもとで曾我兄弟が敵討ちした工藤祐経とは血縁になります。 では、可能性としては奈良・京都周辺では歴史上有名な蘇我氏族の子孫の可能性は大です。時代が進むにすれ蘇我・宗宣・宗我・宗何・曾我・蘇何と読み方はソガと一緒ですが表記が変り多くの子孫たちが山城・大和に歴史上名前を残しています。 さて、時代が進むにすれ各家での歴史も薄れわからなくなっていったところで、私たちの祖先は?という話で巷で有名な曾我兄弟の話(江戸時代・歌舞伎で大流行)が残っていったと思います。 判官贔屓の流れというか、各地に残る「義経伝説」まち「落人伝説」のたぐいでは無いかと思います。

angband
質問者

補足

ご回答いただきまして、ありがとうございます。 家紋ですが、そもそも話の始まりはNHKのなんらかの番組を 見ていた友人が、曽我兄弟の家紋がその友人の家(姓は 曽我)の家紋と同じであることから始まりました。  僕も歴史は好きなので、手分けして調べております。 その結果、近所の曽我という姓の関係ない家に、曽我 十郎の刀と言われるものがあるというのです。見せて もらうことはできませんでしたが、ちゃんと頼めば 見せてもらうこともできると思います。  なので、飛鳥時代の蘇我兄弟ではなく、あくまでも 歌舞伎にもなっている曽我五郎、十郎の子孫だという ことかと思います。  そうなると「曽我十郎の刀」もかなりのまゆつばものと なるわけですが、それでも我々は全然かまいません。 もし本当であればおもしろい、程度の認識なので・・ (もちろん友人のおじいちゃんは固く信じているようです ので真実が分かっても黙っていてあげようと思います。)

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