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余りにも見事な、男の散り際
- 巷間余りにも有名ながら、関ヶ原に於ける大谷刑部少輔吉継その人、幼名を紀之介又は平馬。
- 彼の怜悧な頭脳は、明確に東軍の勝利を予想しておりました、加えて家康との関係も決して悪くなく、天下は器量人の持ち回りに帰すべし、つまり徳川の天下を許容する程度の順応性も持ち合わせていたようです。
- 最終的にはその全てを捨て、石田三成との友情に殉じた訳で、当然そこには西軍が勝利すればという打算は微塵も感じられず、恐らく友情という概念が希薄なこの時代に於いて、誠に稀有な例であったのでしょう。
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伊達家臣の鬼庭左月斎。 人取橋の戦いにおける伊達軍壊滅の危機にあって殿を務め政宗の退却を無事成功させた左月斎は御年73歳。当時平均寿命は50歳ですから、今日の基準でいえば100歳超のご長寿。 御達者武将とはいえ寄る年波には勝てず、兜の重みに耐えられないので黄色い頭巾を被って戦闘に突入。 鬼庭隊は敵200を討ち取る大活躍の末にほぼ全滅。左月斎も討ち死にします。 その戦闘に至る背景として朋輩の遠藤基信との交流や先代輝宗への臣従なども左月斎の人柄を好感あふれるものにしており、男の散り際ベストに推したい。 次点としては大村益次郎。歴史上の人物としては最も好きな人です。 こちらは主君ではなく自分の論理的帰結に殉じる格好です。 技術者としてのあるべき姿ですね。 ジャンル問わずということなら、もう一人。 ローエングラム朝統帥本部総長のオスカー・フォン・ロイエンタールを。 左月斎と通じるのは主君の為の死という部分ですね。 しかも主君のためにあえて反逆の挙に及ぶ覚悟は涙を誘います。
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- Ae610
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当方も大谷吉継ファンである・・!! 当方はまた、大谷吉継を良く補佐したとされる以下の二武将も散り際が潔かったと思う・・! # 平塚為広 # 戸田勝成 大東亜戦の中では・・ # 栗林忠道 陸軍中将 # 岡田資 陸軍中将 ・・・辺り!!
お礼
回答ありがとうございます。 >当方はまた、大谷吉継を良く補佐したとされる以下の二武将も散り際が潔かったと思う・・! ># 平塚為広 ># 戸田勝成 平塚為広の出自に関しては諸説あるようですが、関ヶ原での奮戦振りはそれはもう見事でした。 一方の戸田勝成、諸将の間に於いて随分と評価が高かった人物と聞き及びますが、ともあれ御両人共に、松尾山を駆け下った金吾の大軍に反転して立ち向かった果ての壮絶な討死、それはもう天晴れな最期としか言いようがないでしょう。 >大東亜戦の中では・・ ># 栗林忠道 陸軍中将 ># 岡田資 陸軍中将 さて御指摘の栗林中将、近年映画その他でクローズ・アップされましてつとに有名、元来親米派であった彼が、硫黄島の防衛指揮官としてアメリカに立ち向かったのは誠に歴史の皮肉、奇しくも彼が戦死したのは、今の私と同じ年齢でありました。 一方の岡田中将に関しては、寡聞にして存じませんでしたが、早速ググったところ、まさに歴史と法は勝者の側に於いて作られるとはこの事でしょう。 他方原爆投下並びに数々の大空襲、非戦闘員を大量に殺戮した米軍の非道は全く以って裁く術がない事に関し、或る種の義憤を感じて止みません。
- haiji1996
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ピストル自殺したゴッホでしょうか。 現在は巨匠として、ゴッホの作品は数十億円単位で売買されていますが、生前に実質売れた絵はたったの一枚だけ。それもピーナッツのような金額で(フランスのガイドさん談)。貧乏のどん底にいたゴッホを支え続けたのは、ゴッホの弟のテオ。2人の厚い兄弟愛は有名で、交換した書簡は本にまでなっています。が、画商のテオもそれ程余裕がなく、子供が生まれてからは特に、絵の具代を無心してくる兄の存在が負担に感じる事もあり、つい、『兄さん、うちも生活が苦しいんだ』、と漏らしてしまいます。その後、ゴッホはパリ郊外のオーヴェール・シュール・オワーズの麦畑でピストル自殺します。ゴッホは、臨終の床で、駆けつけたテオに言います。「泣かないでくれ。みんなのためによかれと思ってこうしたのだ」ゴッホは、弟を思うがために、自ら命をたったのです。テオは、悲嘆に暮れ、後を追うように、半年後には病死しました。 私は、オーヴェール・シュール・オワーズの麦畑にも行きましたし、オーヴェールにある、ゴッホのお墓にもお墓参りしました。横に、テオのお墓も仲良く並んでいます。テオの奥さんが、オランダからテオの遺体をゴッホの隣に移動させたのです。お兄さんの隣がいいでしょうからって。37歳の若さで亡くなったとは言え、ゴッホは異例なまでに多作な画家だったのが、不幸中の幸いでしょうか。現在ゴッホの数々の名作を鑑賞するにつけ、背後にある、芸術のために命をかけて犠牲を払ったこの2人の兄弟の存在に想いを馳せます。
お礼
回答ありがとうございます。 >ピストル自殺したゴッホでしょうか。 haiji さんは、随分とゴッホがお好きなようですね。 私は芸術の門外漢ですから、よくは知りません、20年ほど前のアムステルダムだったでしょうかねぇ、彼の名画を鑑賞した事こそありますが・・。 さて戦に生きるのみが男に非ず、ゴッホのようなケースも多々あるのでしょう、さりとて芸術と生活との板挟みとは、切ない話ですねぇ。
- ithi
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isokenさん、おはようございます。 平家物語の斎藤実盛の物語はいかがでしょうか? 詳細は下記のURLを参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F%E7%9B%9B
お礼
ithi さん、おはようございます。 >平家物語の斎藤実盛の物語はいかがでしょうか? これは思いも寄らぬ名前が出て来た、斎藤実盛という名は完全に忘却の彼方でした。 木曾義仲との戦いに白髪を染めて出陣し、見事討死を遂げたくだりは、それはもう有名でしたが・・。 貴重な名前を思い起こさせて頂き、感謝致します。
- kingyo_tyuuihou
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楠正成、正行親子。 真田幸村 など南河内に育ったものとしては、 子供の頃から聞いた、 その痛快な生き様と潔い散り様に 深く感動を覚えたものです。
お礼
回答ありがとうございます。 >南河内に育ったものとしては、 南河内にお住まいですか、それこそ楠父子の御膝元ですから、御両人に対する感慨はひとしおでしょう。 たった今ググったところ、元近鉄バッファローズの本拠地・藤井寺も含まれるとの事、もう30年以上前になりますが、東京から大阪の大学へと進学した旧友が住む藤井寺を訪れた事があります、近鉄沿線だったでしょうか? さて真田幸村、局地戦での戦闘指揮官として彼ほどの戦巧者は歴史に類を見ない気がします。 小信玄と称され、甲斐・信濃の小豪族として名を馳せた、父・昌幸の血がそうさせたのでしょうか。 何れにしましても、楠父子・真田幸村共に歴史に名を残す見事な散り際、御指摘の通りかと思います。
- lions-123
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>余りにも見事な、男の散り際 ↓ 勝敗は時の運・兵力の質量差・指揮統制の妙にもよるが、その勝者にも敗者にも見事な奮闘・散り際を示した人物がいた。 私の場合は楠正成・正行父子 その忠臣・忠義の道と建武の中興に至る苦悩と知略の生き様・戦い方に感動を覚えます。 千早赤阪での戦い、櫻井の駅の別れ、湊川に散った勇気・儚さ、さらに父(大楠公・正成)の遺訓に殉じた正行(小楠公)の奮戦振りと四条畷に最期を遂げた憐れさに、彼らを思うたび読むたびに涙が出てくる。 <櫻井の訣別(わかれ)> (明治32年=1899年) 作詞:斎藤 延正、校訂:落合 直文 作曲:奥山 朝恭 1 青葉茂れる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か 2 正成(まさしげ)涙を打ち払い 我子正行(まさつら)呼び寄せて 父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん 汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ 故郷へ 3 父上いかにのたもうも 見捨てまつりて我一人 いかで帰らん 帰られん この正行は年こそは いまだ若けれ もろともに 御供仕(つか)えん 死出の旅 4 汝(いまし)をここより帰さんは わが私の為ならず 己れ討死なさんには 世は尊氏(たかうじ)のままならん 早く生い立ち 大君(おおきみ)に 仕えまつれよ 国のため 5 この一刀は往(いに)し年 君の賜いし物なるぞ この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん 行けよ 正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん 6 ともに見送り 見返りて 別れを惜む折からに またも降り来る五月雨(さみだれ)の 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす) 誰れか哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を 「建武の中興」の3年後(1336年)、楠木正成(大楠公)は九州から攻め寄せる足利尊氏軍を迎え撃つため、京都御所を出て兵庫県湊川(現在の神戸市近辺)へ出兵する。敗戦を覚悟しての出陣であった。その時、摂津国・櫻井の駅(現在の大阪府三島郡島本町)で連れていた11歳の嫡男・正行(まさつら)へ別れを告げる。 正成が正行に渡した形見の小刀は、「菊水」の名刀であり、後醍醐天皇から下賜されたものであった。息子と別れた後、正成は5月25日、湊川の合戦で足利の大軍を混乱させるが、多勢に無勢、最早これまでと悟った正成は、「七生報國」を誓い合った弟と刺し違えて果てた(享年42才)。 部下と共に河内国へ戻った正行(小楠公)は、父の教えに従い隠忍自重して生長、櫻井の別れから11年後に兵を挙げ、四条畷の戦いで壮烈な戦死を遂げた。 その他に ◇敗軍の名将 楠木正成、島左近、大谷吉継、真田幸村、河合継之助といった敗れた側の名将、名軍師に判官贔屓・惻隠の情・忠義に殉じ散じた美しさと哀れさを感じる。 日本人の琴線に響く、死に際の潔さ、忠に殉じる、判官びいきが戦記物の講談や紙芝居や小説で、成功物語以上に悲運の名将とか悲劇の名参謀としての非業の死や敢闘精神が、同じ日本人としてのDNAやアイデンティティが共鳴し、感動を呼び涙を誘うのかも・・・。 ◇楠正成:南朝の護持と防御に生涯を捧げる ◇山中鹿之助:尼子再興ならず ◇源義経:吉野~安宅関~平泉の悲しき逃避行と最期 ◇大石蔵之助:忠臣蔵・お家再興と主君の無念への対応 実際は勝った側もそれだけの人材がいたから勝者になった面は多分にあるはずですから、 同じくらいの名将はいると思うのですが、どうしても悲劇との重なりで敗軍の将に惹かれる。 ◇勝ち戦の参謀や名将 山本勘助・竹中半兵衛・黒田如水・毛利元就(厳島の戦い)が脳裏に浮かび思い描く人物です。 東郷元帥・秋山参謀<日本海海戦> http://www.youtube.com/watch?v=xFoRQnnbIB8 乃木大将<旅順開城・水師営の会見>・・・・司馬遼太郎先生は批判的だが? http://www.youtube.com/watch?v=WVVS56hWx30
お礼
多くの事例を挙げて頂き、誠にありがとうございます。 >私の場合は楠正成・正行父子 仰る通りこの種の話題に触れる時、楠父子は避けては通れぬ存在ですねぇ。 千早赤阪の戦いに胸を躍らせ、桜井の別れ・湊川の玉砕に涙した幼い頃、特に親子2代に渡り南朝に身を捧げた楠父子の心情を思う時、男子の本懐ここに極めり、そういった感じでしょうか。 御指摘の通り敗者が持つ身を賭した潔さ、その辺りが我々日本人の琴線に触れるのでしょうが、「彼らは後世に名を残した」僅かにこの点に於いて、自らを慰めるところです。 さて >乃木大将<旅順開城・水師営の会見>・・・・司馬遼太郎先生は批判的だが? 全体的にはそういった印象を与えるのかも知れませんが、乃木大将の精神部分に傾倒した描写も、随所に垣間見れる気はします。 一方に於いて、日露戦争以降余りにも神格化された乃木将軍を見るにつけ、その陰で愚直に死んでいった多くの将兵に思いを馳せれば、司馬さんという歴史の検証者としてはやむを得ない客観的描写であったのかな?、そうも考えるのですが・・。
- あずき なな(@azuki-7)
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男の散り際 というなら 後藤又兵衛も似ていますね 大阪夏の陣 もはや勝ち目なしと悟った又兵衛は 辞世の句を幸村に渡すように家臣に託して 単身伊達政宗に突撃 友のために散る男 の最後は語ると長くなりますが感動の逸話でもあります あとは 鳥居元忠 家康はもはや開戦避けられずとなった時 鳥居老人の居る伏見城を尋ねた 「戦となればここが真っ先に狙われる…」 鳥居老人はしばし黙っていたが 小物になにか耳打ちすると牡丹餅を持ってこさせた 「殿は牡丹餅が好きでしたなぁ」 家康は無言のうちに鳥居老人の覚悟を悟った 家康は牡丹餅を手にして逃げるように部屋を去ったが 近習のは家康が涙しているのを見て驚いたと言う まだ戦は始まっていない 鳥居老人を城から移動させ 別の武将に守らせる事も出来ただろう しかし今まで家康の命令に1度も背かなかった鳥居老人は伏見城を去る事だけは頑として拒んだ 家康はこのときの牡丹餅のエピソードを死ぬまで忘れなかった 鳥居老人の命日には必ず牡丹餅を寺に奉納し供養した 関ヶ原の前哨戦となった伏見城攻防戦は鳥居老人の善戦で西軍の勢いを食い止め 東軍勝利の一端ともなった
お礼
回答ありがとうございます。 >男の散り際 というなら後藤又兵衛も似ていますね 後藤又兵衛の大ファンです、個人的には戦国乱世の武将の中で、最も傾倒する人物の一人。 黒田長政とて決して凡庸な当主ではなかったはず、さりとて又兵衛という稀代の悍馬の手綱を取るには少々荷が重かった、彼の念頭には常に如水という理想像があったのでしょうから。 つまり又兵衛の黒田家致仕とその後の大阪入城は歴史の必然であった、或いはそういう事なのかも知れませんねぇ。 反面部下には途轍もなく優しかったそうですが、大阪城入城後のほんの僅かな時間で、殆どの配下・与力を、あたかも数代に渡る譜代の様な心持にさせた事、その点はまさに侍大将としての彼の器量。 且つ彼らを率いて討って出た道明寺の激戦は、仰る通り真田勢が槍衾を掻い潜り家康の本陣へと肉薄し玉砕した死闘と並んで、末代まで語られる大阪夏の陣のハイライトでもあります。 或る意味「義」に殉じた点で似た二人ではありますが、反面個人的印象では好対照でありまして、戦場に於いて悲壮感が満載であった大谷吉継、一方或る種スポーツを思わせる爽快感が漂う後藤又兵衛、似て非なる点はこの辺りかも知れませんね。 >鳥居元忠 この老将もまさに男でした。 ともすれば西軍贔屓・豊臣贔屓の視点で歴史を振り返りがちですが、家康・元忠主従の今生の別れに思いを馳せる時、やはり或る種の感動を禁じ得ない。 古くは三河安城以来、幾多の家臣が家康と艱難辛苦を共にしてきた訳で、彼の為に死を厭わないこの種の家来を多数抱えていた事が、派手さこそないが或る面家康の凄みでしょう。 一方に於いて、尾張・近江の投機的気質と、愚直にすら感じられる三河気質、どちらがどうかその答えは恐らく出ないのでしょうが・・。
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お礼
回答ありがとうございます。 >伊達家臣の鬼庭左月斎。 私は伊達政宗のファンですので、人取橋の戦いに就いてはよく存じております。 苦難続きであった政宗の前半生に於いてすら、佐竹勢に攻め込まれ一時は政宗の首さえ危うかったこの戦いこそ、最大のピンチであったと申し上げても恐らく過言ではないでしょう。 何しろ伊達4代に仕え、しかも主君を逃す為に齢73にして壮絶な討死、まさに家臣の鑑の ような御仁、その最期も天晴れでありました。 >次点としては大村益次郎 あの時代自称軍事専門家はそれこそ星の数ほどおりますが、この方は恐らく幕末唯一と言っていい、軍事のスペシャリストでありその筋のテクノクラー。 彼に関しては、医師(まあ元々彼自身が医師ですが)が断じるように、粛々と戦争をこなしたとの印象が強いが、反面無能な人間の感情を一切顧慮せず、その事が後の厄災へと繋がります。 ただ少なくともあの時代に一人の益次郎が現れなければ、或いは戊辰戦争そのものが画竜点睛を欠く結果になった可能性も否定出来ず、明治政府はその成立すら危うかったでしょう。 加えて戦争に対し、何よりも物理的指標に重きを置いた彼の姿勢が受け継がれてさえおれば、或いはその後の帝国陸軍が、妙な精神論へと走る事は無かったかも知れない、誠に残念です。