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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:お城建築などの専門技術者集団)

お城建築などの専門技術者集団とは?

このQ&Aのポイント
  • フリーメイソンという友愛結社がお城建築などの専門技術者集団です。
  • この会は古代の石工の職業団体から発達してきており、東京タワーのそばに日本のロッジがあります。
  • 信仰を持つ人は加入できるそうで、有名人も会員だと言われています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

こんにちは。 回答から先に述べますと、“はい、ありました” >>1. 日本でも、お城の建築や橋の架橋などの技術者の横断的組織はあったのでしょうか? 「太子講」または、「太子衆」という集団です。 この人たちは、呼び名からも分かるように、聖徳太子を奉ずる人たちです。 聖徳太子を祀る神社は、あまり知られてはいませんが、各地にひっそりと祀られています。 私が実際にお参りしたのは、確か、茨城県日立市だったように思います。 この太子衆は、城はもちろん神社、仏閣、橋梁などの建築技術に優れた腕を持った、いわば、特殊技能集団でした。 彼らは、例えば、城普請などの際は年貢の免除などの恩恵を受け、その代りとして、強固で立派な城を造ることを誓約し、現代で言う「手抜き工事」は一切許されませんでした。 また、太子衆は大工だけではなく、石工、桶屋、鍛冶職など色々な専門分野で活躍をしています。 ご存じのように、私は佐渡の出身です。 戦国時代に信長により一向宗が禁制となり、各地で一向一揆が多発しましたが、太子衆も多くが一向宗門徒で、岐阜や三河を追われ加賀や越中方面に逃れました。 しかし、追撃の手は止まず、流れ流れて佐渡へも多くの一向宗門徒が辿り着きました。 彼らの中に太子衆も含まれており、江戸時代の金山とは比べ物にはなりませんが、西三川砂金山や新穂銀山(にいぼ)などでその技量を発揮し、治水、灌漑、採掘技術を買われて、佐渡の盛時には24の領地に分かれて本間氏一族が統治していましたが、こうした城主に雇われて金銀の採掘などに従事しました。 西三川という地名は、西は西方浄土を願い、三河から来た人たちが多かったため、西三川と命名されたとも言われており、今も西三川という地名が残っています。 太子衆はURLにもありますが、旧暦の1月21日、あるいは、22日に聖徳太子のお祭りの行事が行われます。 http://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/nencyugyozi/kaisetu/taishiko.htm >>2. 今、そういう人たちの組織はどうなっているのでしょう? 現代でも太子を奉ずる人たちはいると思われます。 しかし、昔のように「太子講」のような大規模な組織は無くなったようです。 例えば、少なくなった刀鍛冶の人たちなどは、現在でも太子を奉じていると聞いています。 ただ、戦国時代などから比べると太子信仰は減少の一途をたどっているかと思われますし、太子信仰をしながらも村社などを奉ずる人々も多くなってきていると考えられます。 (補足) ★例えば、城や寺院の建築などでは、棟梁が選ばれ、その棟梁を中心として、大工や左官、石工等々が呼び集められ、棟梁を中心にして連携して仕事をしました。 従って、そういう意味では横の連携があったと言うべきかと考えます。 ★現代は何でも機械化がされて、いわゆる手で物を作るという名人の職人技が少なくなったために、太子信仰も薄れつつあるのかもしれません。

krya1998
質問者

お礼

早速素晴らしいご解答をありがとうございます。 一向宗や門徒宗についても今までの知識と違う側面を知り、感激しております。 日本人の心性や信仰についてはとても関心を持っています。

krya1998
質問者

補足

昨日は家内の妹のご主人がなくなり、信州飯田市を一日がかりで往復しせっかくのご解答にアクセできませんでした。素晴らしいサイトのご紹介も賜りました。 私も社会事業の単科大学に46年いましたが、上宮と名前のついた大規模な施設もあり、卒業生も何人か行きました。 これも聖徳太子信仰に関係あるでしょうが、今度太子講や太子衆について何か知っているかを聞いてみたいと存じます。

その他の回答 (2)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.2

krya1998さん、こんにちわ。 江戸時代に作事奉行の配下で京都大工頭という役職がありますが、その中に中井大和守正清という人がいますが、この人の家計が大和の宮大工の家系でした。そのあと旗本として幕臣となり、幕末まで続きました。大工頭やその下の大棟梁は世襲制のようです。 正清の築いたものに駿府城、方広寺、名古屋城、江戸城、二条城、内裏、知恩院があります。 また、石垣の専門集団「穴太衆」という集団がいてこちらも現在まで建設会社を経営しているところもあります。 1.世襲制なので、築城の際の一切の責任を大工頭が務め、各分野の責任を大棟梁が務めるというような縦の組織はあると思いますが、家伝の秘宝のような物が各家にあり、横断的な組織ではないと思います。 2.大棟梁家は宮大工だったので、ほとんどが幕臣になり、明治まで続きましたが、大抵は没落したと思われます。 宮大工のほうは今も古いお寺や神社の修理を行っていると思います。 詳細は下記のURLを参照ください。 中井正清 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%AD%A3%E6%B8%85 宮大工 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E5%B7%A5 穴太衆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E8%A1%86 作事奉行 http://www.token.or.jp/magazine/g200308/g200308_5.htm http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E4%BA%8B%E5%A5%89%E8%A1%8C

krya1998
質問者

お礼

素晴らしいサイトをたくさんご紹介していただき、心より感謝申し上げます。 昔のように何人かにベストアンサーをお礼できるといいのですが、どうか意のあるところをお察ししていただき、お許しください。

noname#224207
noname#224207
回答No.1

ご質問1.大名の所領を超えた組織のようなものはありました。 鎌倉時代から室町時代にかけて栄えた「座」という組織がありました。 信長の楽市楽座で「座」は衰退していきますが、職業別集団というものは残り続けました。 特に橋梁工事のような高度な土木技術や大規模な家屋建設に必用な建築技術は取得に時間がかかりますので、自然発生的にも集団化していきました。 ご質問2.いわゆる徒弟制度です。 現在の踊りやお花などの家本制度とほぼ同じ形態でした。 弟子、孫弟子、ひ孫弟子とネズミ算式に増えていって一つの集団を形成していました。 これを、組織化して民政に活用したのが江戸幕府です。 江戸幕府を始め各大名はこの専門職集団を組織化しました。 その中の主な人を御用達職人として任命し、工事に当たらせていました。 幕府では肝煎(きもいり)、藩では御職人(おしょくにん)と呼ばれていました。 >特にお城の建築にかかわった方は、どこかの戦力に利用されてはいけませんし、そんな協力をしたら仕事が成り立たないでしょう。 御心配の通りですが、いかんせん専門技術集団ですので、そんじょそこらの成り上がりの戦国大名では完全な囲い込みができませんでした。 技術を持った職人はどこへ行っても食えます。気に食わない大名のところにいつまでもウロウロしていなければないらい理由はありません。 いつの時代でも手に職を持っている人間は強いです。 すまじきものは宮仕え、です。 御心配の趣旨の延長線上のような怪談話が残っています。 下記サイトに概略の筋書が出ています。 No.68 死してなお、殿のために働く石職人の霊 ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/kaiki/68isisyokunin.htm 蛇足 戦国時代までは、城というものは、あくまでも臨時の戦闘用の要塞で、山や高台に簡単な防塁(土手)を施し掘立小屋の大きいものを建てていただけです。 普段は、主君も家臣もバラバラに自分の屋敷で暮らしていました。 「いざ鎌倉」という言葉はここからきています。 敵が来襲してくれば、大急ぎでみんなが集まりました。 武装集団である侍を常時集結させて暮らさせるようになったのが、信長が始めた城下町制度です。 この形態の場合には、城は平時は官庁の建物として使われました。 こんな施設が山の上では不便ですので城は平地へおろしました。 平時は官庁とはいえ、戦闘状態になったらしっかり城としての役目を果たす必要がありますので、現在も見られるようなお城が作られました。 現在公園などとして残されているお城も、広場などの空き地は江戸時代までは、びっしりと藩庁の建物が建っていました。 天守閣や櫓などは普段は全く使っていませんでした。 江戸城の天守閣も明暦の大火で焼けて以来、明治になるまでの約200年間建てられることはありませんでした。

krya1998
質問者

お礼

詳細で素晴らしいご知見からのご解答に心より感謝申し上げます。一人しかベストアンサーにできないのですが、意のあるところをお察し賜りどうかご宥恕くださいますようお願い申し上げます。