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弁護士は良心を捨てて仕事をしていますか
日本語を勉強中の中国人です。弁護士は良心を捨てて仕事をしていますか。頼まれた人に無実の弁護をしてあげ、お金をもらうことになります。頼まれた人は本当は罪があると良心上でわかっているのに、弁護してあげます。自分の良心に問いただされないのでしょうか。 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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最初に、日本語がおかしいです。 「弁護士は良心を捨てて仕事をしていますか?」は変。 「弁護士は良心を持たずに仕事をしているのですか?」 日本語としてはまだしもこういう文章の方が正しいけど、 弁護士と言っても様々なタイプや考え方・仕事の仕方、 得意分野などに分かれています。一概に弁護士、と 一言で表してしまうのは深く考えるのが苦手なのに 難しいテーマを判ったように話したがる幼稚さを相手に 感じさせるので、読む人に馬鹿にされかねないリスクが あります。 それから「良心を捨てて」という言い回しは意図的に 捨ててはならない良心を捨てて、という「悪意」を示唆 するものです。 それは攻撃的であり断定的であるので、 これまた読む人に感情論を押しつける自己中心的な 印象を与えます。 これも損ですね。 だから、良心を持たずに、とか 良心に目をつぶって、 などの比較的やわらかい言い回しで、「悪意がある」 とまで言い切ることを避けて、理性的な話し合いの 姿勢を表現するのです。 「頼まれた人に無実の弁護をしてあげ、お金をもらうことに なります」の文章も日本語として変です。 「依頼人の無実を訴える弁護を報酬を得て行っている」 という言い方が、普通の言い回しになります。 その次の文章も違和感が強いのですが、言いかえれば 「依頼人に落ち度や悪意が無いとは確信が持てなくても 弁護します。」 とか、 「依頼人が犯行を行った可能性が低くないと思えても 依頼人が犯行を否定し、その証拠が無い場合は無実を 訴える弁護を引き受けます。」 というような言い方になります。 「自分の良心に問いただされないのでしょうか。」は、 「良心の呵責(かしゃく)を感じないのでしょうか」となります。 日本語の言い方以上に、あなたに伝えたいことがあります。 それは、正義とか良心、という言葉ほど実は稚拙な感情で あるものはありませんよ、ということです。 あえて稚拙、という挑発とも取られかねない言い換えを したのには、理由があります。 人の世は複雑極まりないものですよね。 誰かの正義は他の誰かにとっては暴力になります。 中国人にとって尖閣諸島を中国のものだとすることは 絶対的正義だと主張する人は億人単位でいるかも 知れません。 でも、当然日本には異なる主張がある。 問題にしたいのはここからです。 双方一歩も譲らずに自分の主張ばかりをぶつけ合うと 当然平行線をたどるので別な威力のある手法で相手方を やっつけよう、となりがちです。 ほとんど70~90%は 喧嘩になるでしょう。 どちら側から見ても、相手は話し合いの余地なく自分に 都合の良い一方的な主張を暴力的に押し付けてくる、と 見ざるを得ません。 そのように振舞っていますから、ね。 こういう場合の「良心」とは「正義」とは、何だろう? と考えた時に、有無を言わさずこちらの考えを受け入れて 相手の考えを自ら全否定せよ、というものが根底にある。 良心、を他人に対して要求する場合、問答無用でこちらが 正しい、という意味になりがちな危険な側面を持つのです。 あなたが弁護士の勉強をなさっているかは存じませんが、 弁護士というのは「正義」ではありません。 そこをお間違えのなきようにお願いしたいと思います。 弁護士は「良心」の番人ではなくて、「法的解釈」を武器に 依頼者の法的利益を守るために高額報酬で代理戦争を 行う、言わば「傭兵」或いは「用心棒」のような性格を持つ 「権利獲得代理業」なのです。 法は正義ではありません。正義は良心でもありません。 一つ一つ丹念に見ていけば、それが行政に最終的な 責任を負わせることなく、出来るだけ同様の事件案件の 処理が簡素化できるように義務と責任がアンバランスに ならぬように配慮しながら書かれた、ご都合主義的な もので出来ていることに気づかれると思います。 法律自体の全体的な方針には、社会の幸福のために、と 謳(うた)われてはいますが、現実に施行(しこう)される 明文化された条文各項は、細々とした除外規定や 例外規定を盛り込み、中には現実的に順守不能な 存在しているように見えるだけの無意味なものもいくつも あります。 骨抜き、とか空文化、と呼ばれるものです。 難しいことを深く考えるのは頭が疲れるものです。 頭は出来るだけ複雑なことを単純化してさっさと理解したい。 だから、正義とか、良心などの考えずに子供でも判る シンプルな善悪、好き嫌いという感情だけでイエス・ノーを 決定しようとしがちだし、そういう民衆の心を操作するのに 正義や良心、という儒教的な文言は、支配層にとっては 大層使いやすいものなのです。 正義も良心も、誰かにとってはそうであっても、別な人に とっては正反対の意味になります。 しかし、ある正義や良心を声高に叫ぶ「深く考えることが 面倒な民衆」に囲まれれば、その正義や良心に異議を 唱えるものは、一切の対話など不要だ、唾棄すべき敵だ 滅ぼしてしまえ、それこそが正義だ、と凶悪な暴力に 晒されることになってしまう。 先の中国での排日運動など、政府ぐるみで大暴れした 蛮行ですが、彼らは今だに抗日無罪を叫び、破壊・略奪・ 殺人さえも正当化してしまっています。 それでも、彼らが怒りに鬼のような形相で云うには、 自分達の正義と良心に従って行動していることだ、なんら 誰にも否定されるべき誤りなど無い、と明言して憚らない。 あなたが仰る言葉には、残念ですが言葉の壁以上に 物事について様々な異なる立場から考える成熟した 視点が感じられません。 簡単にひっくるめて、白黒に分けて単純化して 正邪を判断しようとしているように受け取れるのです。 そして、弁護士に良心を求める、そのこと自体は 特段問題はありませんが、仕事の仕方に良心というものを 主たる方針として据えるべきだという主張は、誤りだと 思います。 何故なら、簡単に云えない複雑な事情も考えずに、とにかく 誰かが「悪人」で、それを憎み、糺す(ただす)ことで社会は 幸福になる、という稚拙な単純思考に陥りがちだからです。 それを、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)と一言で表しますが、 いつの世も悪い強者をくじき、弱い善人を救うという物語が 民衆の不満を取り除く効果をもたらして来ました。 日本の時代劇もそうだし、中国の抗日ドラマも結局は 勧善懲悪で不満を抱える民衆の喝采を浴びようとする。 人間は自分は被害者で、それを埋め合わせてもらう 権利がある、という主張をしがちです。 自分は実は素晴らしい才能があって、誰かにそれを 見出して貰ったらとんとん拍子で成功してお金も名声も 得られる、楽しく豊かに暮らせるのが「本当の自分」だ、 などと思い込んでしまうのと同じように、楽していい目を 見ようと云う気持ちが心の底に起きがちです。 確かに、どうみても守るべき弱者というものも存在するし、 万人に法律が一律の人権を認めるべきではない、という 意見には私も反対はしません。 でも、それらは個々の案件について色んな見方を して収斂していくものでなければ理性とは云えない。 だから、まずは感情的に単純に正義や良心という 思考停止に陥らないようにする必要が誰にもある。 あなたご自身の正義や良心が、人によっては 一方的で盲目的な暴力になることもある、という ことを理解されるようにお願いしたいと思います。 理性による世界観を求めるならば、あなた固有の 感情論は抹消しなければなりません。 最初に自分は正しい、という答えありき、になるからです。 異なる考えや意見、立場を自分勝手な価値観を 捨てて、頭を白い状態、フラットにして公平で 理性的な見方をするのに、それは大きな障害に なるのです。 どういう案件についてこのような質問を掲げられたか 存じませんが、あなたが感情的に「悪」だ、と 決めつけている人、裁判事例があるのでしょう。 その人の立場と目線になってゼロから考え直して みることをお勧めします。 例えば、賄賂を貰った役人や政治家が糾弾されて いるとしましょう。 それをみんなと同じように辞めろだの死ねだの 騒ぐだけでは知性から遠い獣の雄叫びと変わりません。 自分がその人の立場だったらと考えることは、 その人の生い立ち、置かれた立場や、そこに至る 経緯の一つ一つについて、あなた自身を彼に 丁寧に置き換えて考えることです。 中には、裏の世界の繋がりもあって、国会議員と 云えども、殺される恐怖を恫喝で受けている人も いるかも知れません。 他人の目線や立場になって考えろ、ということは よく簡単に言われることですが 現実にはとても 難しいことなのです。 他人の立場になって考えた、でも私はそんなことは しない、と何も考えずに言いきってお終いになる。 そんな人も沢山いるからです。 他人の立場に立つということがちゃんと出来れば、 それだけで何かを正義や良心と決めつけて考える 稚拙な単純思考を抜け出すことが出来るものです。 自分が受け入れられない意見や考えでも、嫌悪感を 棚上げにして冷静に、客観的に、理論的に考え 決めつけることなく それも一つの主義主張と否定 せずに置き、歩み寄れる部分を探す。 そういうことを永い時間じっくりと、時には何年も 何十年もかかる様なこともあります。 そうして解決していかねばならない事も、人の世の 諍いには数多くあるのだと云う事を、落ち着いて 考える姿勢をどうか身に付けて欲しいと思います。 それが、人間になる、ということですよ
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弁護士については詳しくありませんが、それは逆に危ない考えではないでしょうか。 依頼する側は弁護士に弁護して欲しい、だからサービスを受けるわけで、弁護士個人の考えでそれが叶わなくなれば裁判の公平性はどうなるのでしょう。 >頼まれた人は本当は罪があると良心上でわかっているのに、弁護してあげます。 依頼者に本当に罪があるのか、それとも冤罪なのかは弁護士が決めることでは無いと思います。 公平な裁判で結果が出ることではないでしょうか。
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お礼
皆さん、No.12さんのお礼欄をお借りしてまとめてお礼させていただきます。ご親切に回答していただき誠にありがとうございます。皆さんのご回答はどれもとても参考になりました。いろいろな視点からのご回答は偏食状態の私の脳を活性化させました。心から厚くお礼申し上げます。