• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「自分を愛さなければ人に愛されない」)

自分を愛さなければ人に愛されない? 矛盾している気がする

このQ&Aのポイント
  • 「自分を愛さなければ人に愛されない」という言葉に矛盾を感じる人もいます。
  • 自分を選ぶ立場では自己肯定感が重要ですが、自分に自信がないと他人の愛を受け入れることができないかもしれません。
  • ただし、自分を愛せない人も愛される価値があるし、人に愛されることが幸せとは限りません。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#196270
noname#196270
回答No.9

人は愛されて初めて自分を愛せます。 実際私も自分のことが大嫌いだったのですが 主人に愛されてから自分を愛せる様になれましたからね。 親はもちろん無条件で私を愛してくれました。 でも親に愛されるのと他人に愛されることは全くの別ですからね。 では、何故この言葉を言う人がいるのか? それは世の中には他人と比べて自分を卑下する人がいるからです。 つまりこの言葉は「そこまで自分を卑下しなくて良いですよ。」 と言っているのだと思います。

kawagutinozomi
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 とてもうらやましく、また希望のあるご経験をお話しくださりありがとうございました。 自分を愛せなくても、愛してくれる人もいるんですね。 もちろん、ごくごく少数だとは思いますが…… 「自分を卑下したって人に愛されないんだから(卑下するのを)やめなさい」、って意味なのですね。 それならまだ少しは理解できます。 もっとも、「やめなさいって言われてすぐやめられるかー!」とはなりそうですが……ひねくれてますね(^^;

その他の回答 (15)

  • bekky1
  • ベストアンサー率31% (2252/7257)
回答No.5

最初にお断りしておきますが、私と妹は6歳離れている。 だから、常に、妹は、’かわいがられている’と思ってました。 両親は、離婚するような騒ぎを、日常茶飯事として繰り返し、 うちを出るとき、母は’妹だけ’をつれて出る。 いろいろ事情はありますが、6-7歳の子供が、自分は置いていかれるのがいつも・・・というのが、 ’かわいくない’からだと、理解するにたやすくはないですか? それから、半世紀以上たっての今です。 5歳違いの子供を二人授かり、二人とも成人しました。 上が娘、下が息子。 娘は、一流企業の総合職で、スポーツでも全国クラスの選手です。 息子は、半分引きこもりの、中卒、高卒認定です。 母の行動、思いが賛成・賛同はいまだに、できはしないが、’私を愛する?’とか言う ことから、呪縛が解けた。 言葉を尽くしても、これは、理解できないことです。 そして、親としては、どうしても、必死、一生懸命ということなら、最初の子のほうだ、・・・ということは100%確かです。 そして、下がかわいい・・・は、どうだろう? 我が家も、○○さんは息子がかわいくて、かわいくて、甘いよね、べたアマ・・・といわれたときには驚いた。 私にその自覚がまったくなかったから。 同様に、私自身も妹に対してそう思っていたし。 実際、その思いを実母にぶつけたことがあったから。 そのときの、実母の返答を記憶しています。 ’甘いのではなく、もう、めんどくさいのよ。  あなたを育てたころとは違って、体力も気力もないし、 あらそうなのって、思うだけで、やっちゃだめとか、こうしなさいとか、一生懸命になれない’とね。 なんとなく、肩透かしされたきがしました。 だって、同じことをして、私は、ひどくしかられた記憶があるので、妹は、せいぜいが、 笑って、しかたないわねぇ・・・です。 そして、半世紀がたって、今、母のずっとの日常が理解できる。 【私が今その辺の子どもを見て可愛いと感じるように、まして懐いてきたらかわいいと感じるように、その程度の「かわいい」はあったと思いますが、それは単に「小さいから」で、だからより「小さい」弟の方が常にかわいがられていたのだと思います。 自分でも分かるほど、私はかわいげというものがないです。】 上はね、どうしても、かわいげというなら、なくなります。 だって、お姉ちゃんでしょう?といわれて育つ。 お姉ちゃんらしいから、かわいがられるという、ことで育つのだから、当然のこと。 そして、あなたの諦念のなかに、他の方もご指摘になってますが、 感謝の気持ちがない。 確かに、恵まれているとの自覚もあるのに。 いまだに、原作を探しているのですが、「私はなんて運がいい!」という、おばあさんの話が童話?であります。 石に躓いて転んでも、物が落ちてきて、怪我しても、泥棒にあっても、 この程度のことですんで、’私はなんて運がいい! 神様に、人に、愛されているから、ナントカなってる、ありがたい’と。 何も、ない人生はないです。 でも、できることをやって、何とかして、前に進むだけ。 面倒を見てやらなくちゃいけないことは、仕事でも、友人でも、近所でも、家族でも、恋人でも同じ。 東京での雪かき一つでも、そのうちの’心のうち’がわかる。 ’誰かのため’に働くことができない人は、愛されることはないですよ。

kawagutinozomi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 幼少期に受けた仕打ち、またご自身が親になっての連鎖、なんとお声掛けしていいのか分かりません。 うちの場合弟とは年子で、時期的には一緒に育てたことになりますが、確かに労力としては弟の方が格段にかかったそうです。 年子なのに中身が5歳くらい違う、と言われました。 けれど私にしてみれば、「どうして私の方が親の望む「いい子」なのに、弟ばかりかわいがられるのか。それは、私の「いい子」としての能力で補っても追いつかないほど、私にかわいげがないからだ」という理解になりました。 「弟ばっかりかわいそうだから、抱っこしてあげようか?とか言っても、『重いからいいよ』とか自分で言ったんだよ。そうゆう子を抱っこできないじゃん」と言われましたが、 そりゃぁ、口先だけの平等を少しでも現実にするために、責務の意識で抱っこしてあげようかなんて、そんなの遠慮するわ。 母自身は下の子で、素直に人に甘えられる人なので、そうゆう機微は分からないようです。 自分で言うのもなんですが、それなりに電車で席を譲るとか、先日の積雪で立ち往生した車を押してあげるとか、見返りを求めず「誰かのため」はしてるつもりなんですけどね。 部活でマネージャーをしてた時も、大好きな部員さんたちのために働くのが本当に嬉しかった。 尊敬できる先輩に囲まれて仕事をしていた時も同様でした。 だけどだめなのは、そんなんじゃ足りないほど私の考える愛が重いからなんでしょうかね。

  • etranger-t
  • ベストアンサー率44% (766/1736)
回答No.4

ちょっと気になる部分がありますが、それは、 >特に虐待も受けておらず、暴言も吐かれず、十分な食事と教育を受けて育ちましたが、それでも、親は親としての責務を果たしただけで、私のことを特別、私だからかわいいと思っているとは思えませんでした。 自分のお腹を痛めた子に可愛いと思わない親は基本的にいません。質問者様だから理屈なく可愛い訳で、それを親としての責務だと思っている時点で心得違いしていると思います。感謝の気持ちが足りないのです。 例えば、飲食店で美味しいものを頂くと感謝の気持ちが湧きませんか? 料理を作るのは仕事であってお金を支払うのだから当たり前のことですか? 朝起きて、仕事に行って帰ってくる日々。その何気ない日々が送れるのは、暑い日も寒い日もそれをしのぐものがあって、三食の食事が出来る。ただこれだけのことに一体何人の人に支えられていることでしょう。 災害があれば誰かが復旧し、平和な日本に暮らせるのも、誰かが最前線で守っているからです。 何気ないことにでも有難いという感謝の気持ちを持つことこそが幸せを感じるということだと思うのです。この気持ちが無ければ誰かに助けられたり親切にされたり愛されても、それに気付くことが出来ないか、気付こうとしないのかのどちらかです。 実際に質問者様ご自身も自分のことを「可愛げがない」と仰っていますが、言い換えれば「素直ではない」とも言えますよね。原因がご自分で分かっておられるのですから、もう少し素直になって何事にも感謝の気持ちを持つ。素直に感謝の気持ちを持てば、それだけで気分が良く幸せな気持ちになれますよね。 つまり、質問者様が愛されていないし、自分も愛せないと感じるのは幸せを感じていないからであり、幸せを感じれば愛されていることも自分を愛することも出来るのではないのかと思います。 ですから、まずは感謝の気持ちを持つことから始めれば、徐々に質問者様の疑問も解決されるのではないでしょうか。

kawagutinozomi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 素直ではないですね~!! 素直だったらかわいいだろうに、ものの側面や裏側なんて考えずに受け止めて心底喜べる人だったらどんなに良かっただろうに、と何度も思いました。 何につけ、物事のリスクや思惑を考えてしまいます。ニュースを鵜呑みにしない、という考え方と似た感じで。 でもこれは、どうしても感じてしまうもので、「殴られても痛いと感じるな!」というのと同じ無茶だと、私は感じています。 生まれ持ってなのか、父の言動に共感し影響されたのか…… 親への感謝は、自分が子を持てばするようになるのでしょうか…… 理屈っぽいですが、飲食店では「おいしいものが食べたかった→食べられた」ことへの感謝がありますし、他のこともそうです。 災害時最前線に……は、前職がそういった関係だったので特に感謝、というか賞賛?します。 が、親に関しては、やはり責務だと感じてしまうのです。 それは親自身が「親としての責務を果たす」というスタンスであるということ(特に父)と、 まず「生まれてきたかった」という前提がないので、飲食店のような感謝の構図が成り立たないのです。 幸福で満たされている人生を送っている方は、生まれてきたことに感謝するのかもしれませんが…… 私にも多少の幸福はもちろんありますが、それはどうしても耐えて耐えて耐えて努力してなんとかもぎ取った成果という風にしか思えないのです…… それも辛かったこと>成果なので、「耐えて生きてきて良かった」とまでは思えず……

noname#235638
noname#235638
回答No.3

んー、そうですね・・・ 私の考える 「愛し・愛される」 についてお話し させてください。 愛するとは、無償の愛という形もありますが、 基本的に、その人を愛することで自分も幸せになれる、 と考えます。 自分を愛するとは、自分を真摯に認めて足りない部分を 努力で補おうとするもの。 自分に得をしてもらいたい・・・と考える。 オリンピック選手がなぜか輝いて見えるように 心がその選手に惹かれます。 自分に無い努力を積み重ねてきたので、それが魅力となる。 仕事もそうですよね、頑張ってる人が困ってると助けたくなる。 サボってる人は、かまわない。 開き直り、という考えも間違いではないでしょうが、 まず自分が自分のサポーターにならなければ、自分は変わらない。 言葉は万能でないので、薄っぺらくなりますよ。 でも言葉以上の経験があれば、人の心が動くこともある。 また、そんな人の努力を認めるには、やっぱり自分も同じように ジャンルは違っても努力の経験があれば分かり合えると。 結局は、人間の底辺を感じていない。

kawagutinozomi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 申し訳ありません、ちょっと読解力不足なのか、お話わかりませんでした。 努力をすべき、ということなのでしょうか。それとも、底辺を見ろ、ということなのでしょうか。 相反する行為のような気もするのですが。 私の場合、おっしゃる通り輝くほどの努力はできず(できた時もありました。その時は確かに周囲の方に助けてもらえました。ただそのときは、それこそ「先に愛してもらえた」状態でした)、 かといって底辺を見るほどサボることなく、凡庸な程度の努力で生きてきました。 それなりの努力はしてきたので、それに見合うだけの利はほしい、得をしたいとは思いますが、 じゃあ愛されるべきか?というと、そう言えるほどの人材ではないと思います。 自分に得をさせたい、という感情の働く箇所(仕事の待遇など、能力的な部分)についての「自分」のことは、愛しているのかもしれません。

noname#222349
noname#222349
回答No.2

難しいテーマですね。 でも、矛盾してないと思いますよ。 自分を愛する(自分の価値を認めて可愛がる)→他人を愛する(他人の価値を認めることができる)→他人から愛される(価値を認められて嬉しい) 可愛げがないことに拘り続けては損です。 可愛い可愛いと親から可愛がられて育った人は自然と身に付いていくものがあなたにはないのですよね? 私も同じような気持ちを持ったことかもあるのでお気持ち察します。 ご自分のこと好きですか? 良いところ何個言えますか? 今からだって間に合います。 自分が好きになれば、自分が好きなあなたを良いなと思ってくれる人が出てきますよ。

kawagutinozomi
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分の良いところ、は言えますが、それは同時に悪いところでもある、とか必ず注釈をつけて考えずにはいられません。 例えば、ものをはっきり言うところとか。違う角度から物を見られることとか。 それはイコール、気が強くて敵を作りやすいということでもあるし、ひねくれているということでもあります。 無条件にいいところ!と言えるのは、虫歯も八重歯もないところですかねぇ。 これだけはそんな遺伝子をくれたばあさんと、幼少期にこと気を使ってくれた両親に感謝していますが、人としての価値というと弱いですね(^^; 矛盾していると思うのは、まず起点が「自分を愛する」であるところです。 「人から愛されて初めて自分を愛せるのでは?」「その説は鶏と卵では?」と思うのです。

noname#209756
noname#209756
回答No.1

男性が女性関係で乱れるってドーパミンの作用だと思うんです。 「快」ですね。 知識社会になって、「友愛」はそれなりにあって。 友人って複数形で変化もするものです。 それに比べて家族は社会の基礎単位です。 社会学でテンニースという人がゲマインシャフトとゲゼルシャフトという世の中には共同体組織と利益社会を分類してます。 共同体というのは地縁や血縁があるわけで有用だからとかいうものではありません。 功利主義で「快楽」が多くてそれがベンサムの「最大多数の最大幸福」につながっていくというのは利益感覚に思えます。 見かけがどうと有用かとか、家族とかはそうであってほしくないです。いずれにしても世の中は利益でつながっているという感覚以外にも大切なことがあることを知ってください。

kawagutinozomi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ちょっと難しいお話ですね。 我が家は割と個人主義で、権利と義務を果たしていればあとは自由、という感じなので、 有用(義務を果たせるかどうか)は結構重要です。 冷たい、家族の形ではなく会社の形だ、と思われることもありますが、べったりであることが一長一短であるように、我が家の在り方にも理はあると思っています。 利益以外でつながっている、というのは、あまり強くは実感できませんが、 そうゆうことも確かにあるなぁと、母方の実家なんかを見てると思います。 電車で席を譲ると損はするけど気持ち的には良くなる、という感じなんでしょうかね。 そういった「気持ちが良い」も利と考えて普段はするしないを決めていますが、それではやはり利益主義に入ってしまうでしょうか?

関連するQ&A