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愛の認識について

愛とは自己犠牲の上に成り立つものでしょうか?相手の幸せが自分の幸せということはそこに自分の意志や考えがないと思います。 その思考で行くとそのまま自分を封殺することにより失われて発展していくのが難しいのかなと思いました。皆さんの認識や考えお願いします。

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回答No.2

愛とは、1つの現象を指すのではありません。 自己チューな意識を補正する、社会や遺伝や経験に起因する 多様な要素の、便宜的な定義です。 正確に記述するなら、たとえば以下のようです; 愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。 主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。 しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。 そこに於て究極的に、真の愛は、完全なる科学(原理認識=社会生命としての他我化)である。

silverdog777
質問者

お礼

psytexさん哲学ジャンルに続いて回答有難うございます、めっちゃむずいですがしっかり読んで糧にさせていただこうと思います。ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.1

エロスとアガペーをググってみては? 見返り無き自己犠牲に対して、受け取るだけの自己愛者。 どちらも心に穴がある。

silverdog777
質問者

お礼

ちょっと調べてみます、ありがとうございます。