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供養の仕方
昨年夫が亡くなりました。 夫は、生前無宗教を公言していて、死んだら無になるといっていました。 嫁ぎ先が浄土真宗でしたので、お葬式は浄土真宗でしました。 私自身は、クリスチャンの洗礼を受けています。 諸事情があり、私は嫁ぎ先の家を出ました。 私は、どのように夫の供養を行ったらいいのでしょう。 夫の魂は、今どんな状態なのでしょうか。 私自身の信仰も、今とても混乱した状態です。アドバイスをいたさきたいです。
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初めまして♪定年間近の年寄りです。 年寄りの経験が少しでもお役にたてばと思い、これを書いています。 市井の聖職者に叱られそうですが、年寄りの軽口だと思って聞き流してください。 「死んだら人はどうなるのか」というのは、「生とは何ぞや」という問いかけと共に、宗教界最大の命題ではないかと思います。 死んだらどうなるかという問いに対しては、種々の宗教宗派が、それぞれの回答をしていますが、どれが正解やら生きている者には分かりません。なぜなら、生きている人には、死んだ経験がないからです。そのくせ、一部の宗教家は、さも死んだ経験があるかのごとくふるまう。死ぬ覚悟が全くできていない自称宗教家の多いこと(嘆) 話が逸れましたね。ごめんなさい。 浄土真宗の開祖親鸞は、「自分が死んだら、遺体は鴨川に放り込んで魚の餌にでもしてください。」と言っていますし、お釈迦様は弟子に向かって、「私の供養をする暇があるなら、自分の修行をせんかい!」と言い残されていますから、少なくとも仏教では、死んだ者の供養なんかいらんという理屈になります。 それでは、なぜ、供養という制度が存在し続けるのでしょうか。 一つは、寺社仏閣を維持し、坊主の生活を安定させるためです。これはどれだけ美辞麗句を並べても、完全には否定できませんし、ある意味では必要なことです。問題は、宗教が求道や救済の精神を保っているかですね。 一つは、故人を安心させるためだと言う宗教家は多いのですが、既述のとおり、残念ながら誰も証明していませんから、どうしたら故人が安心してくれるのか、果たして故人は心配しているのか、そこは謎のままです。 そして、大概の真っ当な宗教家によれば、供養というのは故人を偲ぶことによって、残った遺族の心を慰め、生き残っていく覚悟をするためのものだそうです。この意見には、私自身も賛成です。ただし、そうなら、供養のやり方は遺族によっていろいろあってもいいと思っています。 牧師や神父やラビや導師や坊主にありがたい言葉を頂戴することよりも、故人が好きだったラーメンを食べるなり、一緒に行ったコンサートに行くなり、故人がカラオケ好きだったのなら身内でカラオケ大会をして故人を偲べばいいと思います。 宗派なんてこの世のものです。あちらの世界があるかないかは証明されていませんが、死んでまで宗教の違いに目くじらをたてていがみ合っているとは思えません。ですから、質問主様のやりたいやり方で故人を偲べば、それが供養だと思います。 ちなみに私の両親は浄土真宗でしたので、そのまま坊主に来てもらっていますが、これは住んでいる村の構成員の一人として、周囲と波風を立てないための方便であり、気のいい坊さんを好きですから、その生計の一部を助けているに過ぎません(笑) 本当の供養は、それとは別に、父の月命日にはうどんかラーメンを、母の月命日には餃子を食べ、年忌には身内を集めてべろんべろんに酔うまで飲み明かすことにしています。 さて、誰にも気兼ねなくできるとしたら、質問主様はどうしたいですか。 あなたがしたいように供養することこそ、故人が生前に一番望んでおられたことではないでしょうか。 ご主人様のご冥福をお祈りします。
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- ozisan
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形式バッタ事は二の次です。 あなた自信の今後の身の振り方が決まったら決めれば良いことです。 ご主人が言ってるように、今は「無」です。 あなたが「形式」か「心」のどちらかを決めれば良いことです。
お礼
早速回答いただきありがとうございました。 私は「心」をとりたいと思いました。
お礼
早速回答いただき本当にありがとうございました。 私がどうしたいか、よく考えます。 夫が病気になり、亡くなってから、身内のごたごたもあり、自分の根っこがなくなった感じがしています。 回答を読みながら、久しぶりに涙しました。 ありがとうございました。