- ベストアンサー
間違ったなら間違えたと言うのが 人の道ではないのか
間違ったなら間違ったとみとめ 間違えましたと伝えるのが 人の道ではないのか
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんばんは。 ~~~~~~ ◇ 無理筋なのは百も承知の上で、頑張ってしまいます。 ☆ ここまで行きますか。この個所まで読んで来て そのむつかしさについては 納得のいくものがありましたが ここでは 少し立ち止まりました。 《無理筋》ですよ。つまり むつかしいのなら――間違えましたと述べるのがむつかしいのなら―― だまっておいて ただしそのマチガイを修正して 次回にあらたな見解を持つなりあらたな議論をするなりすればよいのではないかとは思うのです。 ~~~~~~ 若いとき、20代の頃の話です。 今は、さすがに無理筋を通すようなことはしません(笑い)。 でも、基本的に負けず嫌いだから、時々、この《へそ曲がり》が顔を出したりします(ポリポリ)。 ☆ マチガイを指摘するときに 相手に対して機嫌に配慮し 言葉をえらんでおこなうというその気遣い この気遣いは 相手が 度量がちいさいと 初めに決めつけていませんか? ◇基本的に、相手を怒らしたりすると、自分に何か非があるのではないか、ともそのことをクヨクヨと考えこんでしまう性分。 それに、わたしはちょっと言葉がキツい、厳しいもので・・・。 丁寧な言葉遣いとは対照的に、たった一言で、相手の心臓をグサッと深く傷つけるところがありまして・・・。相手のプライドや自尊心を傷つけてしまうところがあるんですよ。 それで、こういうことをするようになってしまいました。
その他の回答 (11)
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
no12です。 私の考えは《場合による》という見解とは少し違うように思いますが、ご質問の受けとめを間違えたようです。 「人の道」という言葉から受ける私の勝手な印象(人として~すべきである)から、 人は「間違ったなら間違ったとみとめ 間違えましたと伝える」べきである。そうではないのか? と質問を受け取りました。 そのため、《場合による》のではなく、最終的にはその人の問題であると考えました。 しつれいしました。
お礼
つづけてのご回答をありがとうございます。 いえ。この質問の背景事情については 関係なくご回答を寄せていただいて構わないわけです。 ただわたしが それを説明しておくのを忘れたという問題だけです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「人の道」という言葉から受ける私の勝手な印象(人として~すべきである)から、 人は「間違ったなら間違ったとみとめ 間違えましたと伝える」べきである。そうではないのか? と質問を受け取りました。 そのため、《場合による》のではなく、最終的にはその人の問題であると考えました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でも こうしてあらためて説明をもらいますと やはり《場合による》ということではないかとも思えます。 というのは 次のご説明を《人による》というふうに受け留められるのかなと思うからです。 ★ 最終的にはその人の問題であると考えました。 ☆ たぶん みじんこさんのご言い分は こちらの側がどうするかではなく そのマチガイをおかした相手の側つまりその人本人の問題であるということではないかとは思います。 思いますが そうだとしたら その人が 人の道をどう考えているかにかかわらず 間違ったときに間違いましたとは言わない考え方をする人である。ということで 人による。のではないかとです。 ありがとうございました。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
その方がよろしいと思いますし、そうなればよいなとも思いますが、 間違いを認めるか認めないかを「人の道」だと躾けるべきは子供のときであって、成人した大人がどうするかはその人自身の生き方の問題だろうと思います。 ときに、間違いを認めずにうまくすり抜けられるのは非常に迷惑で不愉快ではありますが。
お礼
みじんこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 成人した大人がどうするかはその人自身の生き方の問題だろうと思います。 ☆ ゆえに マチガイを認めそれを伝えることは ★ その方がよろしいと思いますし、そうなればよいなとも思いますが ☆ ・・・という見方にとどまる。 ――こういうご回答と捉えてよろしいでしょうか。 抽象的に言えば《相手の状態や情況のあり方などをふくめて場合による》という或る程度の一致した見解が おおむねみなさんに共通の見解ないしその要素内容としてうかがうことができた。こう思っていますが ただし その《場合による》と言っても みなさんそれぞれに微妙な視点がおありのようです。 みじんこさんの場合には 《相手》の問題として 大人と子どもとを分けてあつかうのだということのようです。大人に対しては 躾=仕付け(要するに クセや習慣として身につけさせる)をすることはないのだと。 思うのですが このことが守られないと どういうわるいことがあるかと言った場合 必ずしも ★ ときに、間違いを認めずにうまくすり抜けられるのは非常に迷惑で不愉快ではありますが。 ☆ という理由ではないのです。同じ表現でそのまま言おうと思うのですが その中身は びみょうに違っていると考えます。 つまり 《すり抜けられる》ことに限ってみれば 腹が立つことはあるのですが それも理由にしてはいないのです。 問題は けっきょくその侵したマチガイを同じ人がまたまた同じように繰り返す。このことにあると思います。 そのときには 人間とは かくも無神経であるのかとか 何のためにコミュニケーションをおこなうのかとか そういったむなしさを感じる。これが 事由です。 不愉快に感じるという点では 同じことなのですが。 ですから マチガイをみとめるといった礼儀を守らなくてもいいので だまって心の中でそのマチガイを直しておいて欲しいとは思います。 とくに問題は 次のような場合です。 まづ A さんは B さんの考え方や振る舞いについて これこれはマチガイであると指摘した。というところから この質問の問題は出発しています。 そこで C さんが いやいや B さんの言っていることはこれこれこういう理由によりマチガイではないと A さんに指摘した。 そのことで A さんも 自分のマチガイに気がついた。 ――このような場合について 表題の問いを発しています。 この点は 回答No.9でのやり取りの中で わたしがあとで気づいたことです。つまり 趣旨説明として述べておくべきことだったのです。 といった経過で これまで来ています。 いま少し みなさんからのお考えを俟ってみましょうか。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
その通り。 兎にも角にも、外道bragelonne が真っ先に実践せよ。
お礼
直前の回答のお礼欄。
その通りですが、 間違えた人に間違えましたと 言わせないのも人の道です。 何も言わずに察してあげるのが 日本人の大人というものなんです。
お礼
だいぶつ_ぷりりんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうなんですか。 もし引き続き持っている疑問についてお尋ねしてもよろしければですが ★ 察してあげ ☆ たときというのは 間違えたことを相手は分かっているのでしょうか? 分かっていなくてもかまわないという意味でしょうか? つまり 察してやったときには マチガイは気づかれずに そのまま触れずじまいになるということでしょうか? もしそうだとすると 趣旨がちがってくるように思いはします。 あっ というのも まだ趣旨説明として みなさんに述べていなかったといま気づいたのですが 問題は 間違えたというその内容が もともとマチガイを指摘していた発言の中で起きているのです。そういう場合に じつは その初めに指摘していたマチガイが 間違っていたと分かった場合を問題にしています。つまり 自分の言った発言の中に 相手のマチガイを指摘する内容が入っていた。ところが その指摘じたいがマチガイであった。さて どうするか。なのです。 でも これは 趣旨説明に書いていなかったからには 出直す必要が出て来たかも知れません。上のことは いちおういま触れておくこととします。 少し考えてみます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
その通りなのですが、なかなか、これが出来ない!! わたしは、ケアレスミスやうっかりミスが多いので、数学カテや物理カテで回答を寄せるときなど、途中で「+」「ー」の符号が変わったり、簡単な計算間違いをよくやらかします。 で、送信後、回答として表示された自分のものを見て、「あっ、ここ間違っている」と即座に気づき、訂正を入れます。「ごめんなさい」をします。 他人から間違いを指摘されるのがイヤだから・・・ というのは、冗談です。 ケアレスミスやうっかりミスならば、他人から指摘されても、まったく苦になりません。 「あっ、本当だ。ここ間違っている(ポリポリ)」とゴメンなさいをします。 しかし、自分の間違いが、問題の本質の部分に関わっていたりすると、自尊心防衛機構が働きだし、ついつい頑張ってしまいます。指摘された瞬間に、「あっ」と自分の間違いに気づきながら、小難しい理屈をコネて、何とか誤魔化そうとしてしまう・・・。自分で自分の過ちを発見したときのように、素直に自分の非を認めたり出来ない。無理筋なのは百も承知の上で、頑張ってしまいます。 とはいえ、 人前で恥をかかされたとその人を恨んだりはしませんけれども、やっぱり、これはおもしろくない。その挙句、「この問題の表現が曖昧なのだ(だから、俺は悪くない!!)」と捨て台詞を吐いたりすることもあります。 過ちを指摘してくれたのですから、本来ならば感謝すべきところなのですが、これがなかなかできない。 ちょっとヘソを曲げてしまう。 ご機嫌が斜めになってしまう・・・。 ということで、 他人の揚げ足をとるとき、間違いを指摘する時にも、 できるだけ、その人のご機嫌を損ねないように、 わたしなりに、 言葉の選択には十分に気を配るようにしています。 表現に注意を払うようにしています。
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 無理筋なのは百も承知の上で、頑張ってしまいます。 ☆ ここまで行きますか。この個所まで読んで来て そのむつかしさについては 納得のいくものがありましたが ここでは 少し立ち止まりました。 《無理筋》ですよ。つまり むつかしいのなら――間違えましたと述べるのがむつかしいのなら―― だまっておいて ただしそのマチガイを修正して 次回にあらたな見解を持つなりあらたな議論をするなりすればよいのではないかとは思うのです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということで、 他人の揚げ足をとるとき、間違いを指摘する時にも、 できるだけ、その人のご機嫌を損ねないように、 わたしなりに、 言葉の選択には十分に気を配るようにしています。 表現に注意を払うようにしています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。 わたしのように けんか腰でやって来た場合には 出来るだけズバリ言うことを旨としています。 揚げ足取りは そうしますよと言っておこなえば それほど問題にならないと考えます。 マチガイを指摘するというのは たぶんわたしは感じが違うとは思っています。それぞれワタシの思想を・またその具体的な主題についての見解を互いに述べ合うのだというかたちを堅持します。 というのも 考えてみれば 批判を受けるというのは ただで別の考えやよりよい思想をおしえてくれるわけですから ありがたいとも思います。 さらにもう少し 違った考え方をご披露します。 マチガイを指摘するときに 相手に対して機嫌に配慮し 言葉をえらんでおこなうというその気遣い この気遣いは 相手が 度量がちいさいと 初めに決めつけていませんか? ぎゃくにわたしは 相手が わたしと同じほどには マチガイを指摘されても持ちこたえ得るそのすがすがしさをそなえていると 初めに決めつけています。これは ブッダターの問題であると思っています。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
まさに「ケース・バイ・ケース」の問題と存じますよ。 例えば、職場での指示ミスをしてしまい取り返しの付かないほどの損害を相手に与えてしまった場合ならば、先ず謝罪するのは「迷惑を与えてしまった相手」であり、同時にそうした問題を誘発させてしまった部下達にもごめんなさいするのは当然でしょう。 今、永田町や霞ヶ関のあたりでは、白を黒と言いくるめても平然を装っている方々もいるように見受けられますが、そうした姿を見ると暗澹と同時に「言葉と意識の関係」を安直に扱っているとの絶望にも近い怒りにも駆られます。 一方「何が真であり偽であるか」を問う学問の世界ならば、こうした二分法的な問いの立て方にも問題がありはしまいかとの危惧も感じます。 とかく日本人が好んで使う「どちらが正しいのか」などといった、一見「成り立っているかのように見える問い」が僕は一番あやしいと思うのですが、如何でしょうか。 「人の道」といっても儒教的な道徳観もあればキリスト教的価値観や近代的価値観もあるように、価値基準をどこに求めるかによってもひとそれぞれでしょう、「所変われば品変わる」「塞翁が馬」との至言に満ちた言葉もありますから。
お礼
たぬはちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ まさに「ケース・バイ・ケース」の問題と存じますよ。 ☆ うーむ。つまり《場合による》としても 大きくはふたつの事例に分かれると思うのですよ。 (あ) 基本は 《間違ったなら間違ったとみとめ 間違えましたと伝えるのが 人の道である》ということにある場合で この大前提を踏まえてその上で 情況や相手の性質や状態を勘案して 臨機応変に対処して行くというのが ひとつ。 (い) もうひとつは そうではなく 大前提などはなく つねにケース・バイ・ケースなのだという考え方です。 そのほかにさらに別様の見方も提出されています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「人の道」といっても儒教的な道徳観もあればキリスト教的価値観や近代的価値観もあるように、価値基準をどこに求めるかによってもひとそれぞれでしょう、「所変われば品変わる」「塞翁が馬」との至言に満ちた言葉もありますから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 価値観や世界観ないし信仰の問題をもからめて 個人の考え方は 千差万別である。という意味でのケース・バイ・ケース。 ただし たぶんこの別様の場合というのは けっきょく具体的な選択肢となれば 上の(あ)か(い)かの二つに一つなのではないか。こう考えます。(粗いですが いまそうします)。 そうしますと 提出されている事例については どう捉えたらよいか? その前に No.4およびNo.5などで その《場合による》という見解の実際のあり方を 次のように捉えていました。これを確認します。 (う) ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問題点をしぼるなら おそらく《現実世界におけるカッコウをつけてカザリにカザリまくった・またはシガラミの中でシガラミの絡みまくった情況》 vs. 《真理の探究とその姿勢》とのからみ合い――つまりこれを どう絡ませればいちばんよいか――なのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような情況における(あ)か(い)かの考え方がありうる。ということではないでしょうか? (え) つまりこのような対立軸を想定するなら たとえば次のような《学問と現実》との二分法もあまり大きな問題にはならないのではないか? ★ とかく日本人が好んで使う「どちらが正しいのか」などといった、一見「成り立っているかのように見える問い」が僕は一番あやしいと思うのですが、如何でしょうか。 ☆ (う)のように情況を把握しているなら この《どちらが正しいか》といった観点からの意見の相違はあまり大きな問題にはならない。こう考えるのです。《真理ないしその探究またその姿勢》が 《ただしい》と言っているのではないからです。 現実世界は 肩書きをつけている人は そのカザリをカザリまくっているでしょうし しかもそのカザリというのは むしろ過去の歴史からの社会的なシガラミとそのシガラミの上に君臨する既成勢力に添い寝するかたちの利活用行動の結果得られたものである場合がしばしばです。 (お) つまり早い話が いまの問題は 《現実のカザリ≒シガラミ》 vs. 《真理の探究とその姿勢》といった構図になるかと考えられます。後者が ゼロに近い《思想》を持つ場合もあり得ます。ですが この対立の構図としてみます。 それでは 具体的な事例はと言いますと けっきょくひとつは 基本的な大前提を挙げておられる。 ★ 例えば、職場での指示ミスをしてしまい取り返しの付かないほどの損害を相手に与えてしまった場合ならば、先ず謝罪するのは「迷惑を与えてしまった相手」であり、同時にそうした問題を誘発させてしまった部下達にもごめんなさいするのは当然でしょう。 ☆ これは 基本だと思います。(あ)の考え方における大前提そのままでよいはずだとさえ捉えられる事例です。 では その次の事例は? これは けっきょくすでに上に(え)で考えて来たような問題なのではないか? ★ 今、永田町や霞ヶ関のあたりでは、白を黒と言いくるめても平然を装っている方々もいるように見受けられますが、そうした姿を見ると暗澹と同時に「言葉と意識の関係」を安直に扱っているとの絶望にも近い怒りにも駆られます。 ☆ つまりは この事態に対するに ★ 一方「何が真であり偽であるか」を問う学問の世界ならば、こうした二分法的な問いの立て方にも問題がありはしまいかとの危惧も感じます。 ☆ というふうに 問いの立て方が二分法に成っているとすると 実際問題が遠のいて行くものと考えます。つまりは そうではなくその現場においてすでに対立軸を捉える。こうすれば すなわち(う)ないし(お)のような対立の構図であれば その対立の関係が つねに現実世界においてどう絡み合うかが問われるのですから 空回りはしないで済む。こう思うのですが どうでしょう。 実存の問題(その実践)であるように感じます。
- gouzig
- ベストアンサー率25% (536/2078)
あなたの書かれていることは正しいです。 そして、回答1の方も正しいですね。 あなたは人間の基本を書いてます。 そして回答1の方は人間が生きていく茨の道で自分を守る手法のことを書いているのです。 あなたが「間違えを認めたら損なのか」は本質は損ではないのですが、時にはその弱みを突いてくる悪い人間がいるからですね。 信頼できる仲間の中だったらあなたの考えだけでOK。 誠意のない危ない人間達の中だったら回答1の方の考えでいくのがベスト。 ではないでしょうか。
お礼
ごうずぃぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 なるほど むつかしいですね。 つまり 直前のご回答No.4でのやり取りとしては 問題の行き着く先として次のように書きました。 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問題点をしぼるなら おそらく《現実世界におけるカッコウをつけてカザリにカザリまくった・またはシガラミの中でシガラミの絡みまくった情況》 vs. 《真理の探究とその姿勢》とのからみ合い――どう絡ませればいちばんよいか――なのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この視点からしますと ごうずぃぐさんのお考えは 現実の具体的な絡ませ方は その場その相手その情況によるということですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 信頼できる仲間の中だったらあなたの考えだけでOK。 誠意のない危ない人間達の中だったら回答1の方の考えでいくのがベスト。 ではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち これの意味するところは: ★ あなたが「間違えを認めたら損なのか」〔と問うその答えとして〕は本質は損ではないのですが、時にはその弱みを突いてくる悪い人間がいるからですね。 ☆ よって 《間違えても 間違えましたとは言わない場合がある》のだと。 待ったなしの情況と言いましょうか 背に腹は代えられない事態と言いますか あるいはつまり緊急避難のごとくその場から必然的に決まる選択肢として《間違えても だまっている》ことはあり得る。こういうことですよね。 ということは よく考えてみますと その選択をした人も けっきょく心の中では 間違えましたと言っているということですよね? どうでしょう。 みなさんのご回答を得て いろんな角度からも考えることが出来て よい質疑応答のスレッドになって来ている。こう思います。 もう少し 進展やら修正やら あるいは さらなる発展を想定し期待してみましょうか。
ブラジュロン様のような学究が潜む世界では真理追究を純粋にやらねばなりません。実際それは可能であり、でなければ間違います。決してさらなる高みへ登ることはできないでしょう。 現実の世界、なまぐさい場所での真理の追究はまた異なったものだとわたしは思います。基本的に真理追求派の理論を参考に進むにせよ、それだけでは前へ進めなくなる事態が往々にしてあり、結局当人が死なねばならなくなる(道半ばにして往生するキリストやソクラテス、阿部一族などのように)わけです。それが多数の行く道となればなおさら紛糾してあるいは全員が暴走して谷底へまっさかさまといった事態がおこるわけでしょう。 様々な要素が重なりこんがらがtって、真理そのものがわからなくなっていることが多いです。 >間違ったなら間違ったとみとめ 間違えましたと伝えるのが 人の道ではないのか これは間違いではありませんが、現状の複雑さ、多くのプライドガチバトルなどで往々にして多数の妥協の結果無視されることもありうるということでしょう。しかしそれはつねにより真理に近い立場から監視されて、次は正すといった是正がなされるべきだろうと思います。でなければ結局人類全体の滅亡へ向かうことになるでしょう。まあ、それが純粋真理追求の結果であったということなら、受け入れねばならないこともあるかもですga.
お礼
こまあす88さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 妥協点 と言っては語弊があるとすれば 相互理解の地点を模索していただいたものと受け取っています。 述べておられる文章のとおりですので もう復唱もしませんが 全体として なお質問を起こしたときの気持ちから来る未練としては 次のようです。 むしろ こまあす88さんは はっきりとしっかりと この質問の趣旨そのものに立っておられる。 こう捉えれば済むことのように思うのですが それでは 印象だけを語ったことになりますので もう少し踏み込んでみますが: まづ印象だけではない証拠には: ★ しかしそれはつねにより真理に近い立場から監視されて、次は正すといった是正がなされるべきだろうと思います。 ☆ この視点もしくは姿勢だと考えます。結論は 質問の趣旨と同じであるように捉えられます。 問題を取り出すとすれば: ★ 現状の複雑さ、多くのプライドガチバトルなどで往々にして多数の妥協の結果無視されることもありうるということでしょう。 ☆ あるいは ★ 現実の世界、なまぐさい場所での真理の追究はまた異なったものだとわたしは思います。基本的に真理追求派の理論を参考に進むにせよ、それだけでは前へ進めなくなる事態が往々にしてあり、・・・(以下省略しますが) ☆ という事態ないし情況をどう把握するかにあるのではないか。 どういうことかと言えば 《真理の探究》は すでに基本的な姿勢である。その場合 それぞれの《現実の世界ないし現状》におけるいわゆる現場の込み入った事情に対処するときには それでは この《真理の探究》としての姿勢がいかに・どのような影響をこうむるのか? ここに問題があり おそらく問題点としても収斂して行くのではないでしょうか? もうごぢゃごぢゃ言うのはやめて さらに問題点をしぼるなら おそらく《現実世界におけるカッコウをつけてカザリにカザリまくった・またはシガラミの中でシガラミの絡みまくった情況》 vs. 《真理の探究とその姿勢》とのからみ合い――どう絡ませればいちばんよいか――なのではないでしょうか? なぜなら 真理〔を問い求める姿勢〕の真骨頂は そのような現場においてこそ発揮されるものでしかない。こう考えられるからです。 《純粋真理追求》ということにあまり価値を付与することは出来ないと考える者です。 言いかえると この時点で・この現場で 妥協点を見いだすことが 哲学のつとめであると考えられます。そのように回答されたと受け取ります。 (この妥協点については もうあらかじめ これこれこうだと決めることも かなわないと考えられます。ぶっつけ本番だと見ます)。 (あるいは 別様に問題があるにはあります。妥協点を互いに見い出そうとすることすらしないし その心も能力も持たないヤカラもいるにはいるようです。ここにも 哲学以前のもんだいがあります)。 わたしの考えは 余分になりますが 《真理の探究》と《カザリとシガラミとから成る現実世界》とを分けるとき 分けて考えるからこそ 《谷底に落ちるべき思想や行動が なおもそのまま社会力学上 人びとの上に君臨する》。こういう見方です。けんか好きなわたしの見方です。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
それをやると、米国や中国では、間違ったことを 認めたな、と多額の賠償金を取られたり 責任を追及されたりします。 だから、彼らはミスを認めません。 認めるのは愚かとバカにされます。 日本でも、政治家はミスを認めません。 中曽根康弘元総理などは、明白な証拠をつきつけても 認めなかった、といいます。 安易に認めたら、政治生命を失うことになる からです。 人の道も、環境によって変わる、ということです。
お礼
★ 人の道も、環境によって変わる、ということです。 ☆ ここですね 問題は。 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ご回答の前段は この哲学カテとは別だという見方をしてもよいと言わざるを得ないと思うのです。社会力学のはたらくと言えばはたらく駆け引きがものを言う世界だと見られるときにはです。 ですから この質疑応答の場などに問題を絞りたいと考えます。 つまりは 言いかえると 《人の道》としての問題になります。 はたして ★ 人の道も、環境によって変わる ☆ と言えるか? この問いに絞られるのではないでしょうか? 変わりますか? つまり論証も要らないことではないのですか? 学問や倫理は その実践としてあやまちうるという前提があります。ならば これを・つまり間違ったなら ただす。こうでなければ 話になりません。 なにしろ 次のような見解ないし信念に立つという場合もあるようなのですから。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~ 故なら偽りの方便が認められると、あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 偽ることは悪である。 これは絶対であり、如何なる例外も認めてはならない。 どのよーな屁理屈を用いても偽ることは悪である。 真理の探求においてはこれが基本である。哲学である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから もし仮りにたとえ間違ったと言わないとしても だまってそのマチガイを正していれば まだましであるわけです。考え直して妥当性のある道に就く。これなら いちおう みとめられるのでしょう。 ですが そのマチガイを反省しないわ相手に誹謗中傷を浴びせるわであり さらにはそのマチガイをふくんだ自分の主張を 十年も二十年も繰り返しているとしたら どうなりましょうか。 どうもなりませんが そのことを指摘しておくことは ふつうのつとめなのではないでしょうか。
- Willyt
- ベストアンサー率25% (2858/11131)
そのとおりですよ。でも問題は人というのは正しいと分っていることをそのとおりに実行できないことなのですよ。それを許すのが論語で言う恕です。貴方自身胸に手を当てて思い出してください。分っていても正しい行ないをできなかったことがおありでしょう。自分ができなかったことを人に強要するのは正しい行ないでしょうか。
お礼
うぃりとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 分っていても正しい行ないをできなかったことがおありでしょう。 ☆ ありません。 あったとしたら 勘違いをしていたり知識がなかったりして気づかなかった場合でしょうし あるいは相手が言わば待ったなしの状態で聞く耳を持たない場合であったり(つまり 時をおいてあとで言う) あるいは特殊な場合ですが 言ってみれば身の危険を感じて緊急避難として《ただしいことをおこなえなかった》場合でしょう。 ★ それを許すのが論語で言う恕です。 ☆ 《赦す・赦さない》の問題であるとは認識していません。また 赦せないし赦さないから この質問をしているのでもありません。 ★ でも問題は人というのは正しいと分っていることをそのとおりに実行できないことなのですよ。 ☆ というときそれは 微妙なのであって 《実行できないこと》と《できなかったことをほかの話で隠すことやまた 相手に事実を曲げた内容としての誹謗中傷を返してその場をのがれようとすること》とは 別です。 つまり 人の道としてのただしいことをできなかったことと マチガイを糊塗・隠ぺいするためにあらたなマチガイを侵すこととは 別です。 たとえば ▼ 何故なら偽りの方便が認められると、あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 ☆ といった事態について問うています。 趣旨説明欄には そのことを明らかにし得ていませんでしたが そういう問題だと捉えています。できれば どういう対処の仕方があるか。これについて回答を寄せていただければありがたいです。
- 1
- 2
お礼
ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 前段は納得しました。 後段は 突っ込もうと思えばそうすることが出来るかに見えます。 ◇ たった一言で、相手の心臓をグサッと深く傷つけるところがありまして・・・。相手のプライドや自尊心を傷つけてしまうところがあるんですよ。 ☆ 心臓だと思っていたのが たとえば そうですね 古傷のかさぶただった。ということはないですか? つまり ほんとうは だいじょうぶだった。という事態です。 つまり 直後で回答を寄せて来ているうきよとんぼ氏には この古傷が癒えてゆくときのかさぶたをズバズバわたしは切っていると思っています。 そして いまのところ《相手のプライドや自尊心を傷つけてしま》っています。しかもそれは ただのうわべの心理としてのウゴキに過ぎないと見ています。瘡蓋です。つまり 本人もそれが取れればよいと思っている場合さえがあると思われます。 自然本性の きらきら心なのではないのですか? これがないのならば わたしのやっていることは言わば辻斬りみたいものです。