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家族の死がこんなにも悲しいなんて初めて知らされた気がします。
- 父が余命宣言をされてから、出来るだけそばにいるようにしています。後悔ばかりが残ります。
- 家族みんながそろっているって本当に幸せな事ですね。あの頃は全然気づかなかった事が、今になって初めて感じるって…
- いつになったら現実を現実として受け止める事が出来るんだろうか?いつになったら、楽になれるんだろうか?いつになったら父を思いでとして普通に話せる日が来るんだろうか?
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音の無い悲鳴が自分の体の中から絞り出るような悲しみの中におられることと思います。 私は、父が朝、今日は調子が悪いんだ、と言うのを、鏡越しに聞いて、お天気が悪いからかしらね、なんて会話をしたのが最後、その日の夜には母から父が危篤だと会社に連絡が入り、病院に駆けつけたときには、体中にいろんなチューブがつながれ、昏睡状態でした。 医師から余命宣告を受け、その日からつきっきりでそばにいました。 朝、具合が悪いと言っていた言葉が、何度も何度も頭の中でぐるぐると聞こえ、どうしてあの時もっと真剣に聞いてあげなかったんだろうと、繰り返し強く後悔してました。 毎日、手を握って色々と話しかけても、父はずっと目をとじて眠ったまま。 ねぇ、起きてよ。 ちゃんと聞いてる? 何を言っても何も答えてくれません。 乾燥した病室なので、あたたかいタオルで足をふいて、気持ちいいでしょう?って言いながら クリームをぬり、さすってあげました。 乾いてボロボロになってる唇も、水を含んだハンドタオルでしめらせたり。 でも、だんだん目が白濁してくるんです。 何度もお父さん頑張って、と言っても、ダメでした。 医師から臨終だと言われても、まだ手も足も温かい。 まだ死んでないよ、と移された病室でずっと父の体をさすったけど、どんどん体温が下がってきて、とうとう冷たくなっちゃいました。 看護師さんが来て、体をふき、両手を胸の所で組み、布でしばって行きました。 そこから霊安室へ移されたのですが、霊安室の手前のベンチ椅子に一人の男性が座ってたのですが、後でこの人は葬儀屋さんだとわかりました。 葬儀の手配は誰か大人がやってくれました。 もう、そのあたりから、葬儀までの記憶はまったくありません。 告別式で出棺時、私は父の棺にクギを打つことが出来ませんでした。 ここでクギを打ってしまったら、自分の手で父を火葬にしてしまうような感覚だった気がします。 葬儀が終わってもボーっとして、街で父と同じ車を見ると、あ!って思うけど、すぐに、そうか、もういないんだ、って気がついては涙が出てました。 もう父はいない。 その現実をなかなか受け入れられなくて、「死」というものを軽んじるせりふ、言い方には敏感に反応してしまって、テレビのニュースも見られませんでした。 私と妹は父を失い、本当に寂しかったし、母は夫を失い、心細く感じていたことでしょう。 大きな喪失感はありましたが、幸い、両親の兄弟姉妹が多かったので、私達はとても助けられました。 おかげさまで、父を失った悲しみは1年ほどかけて徐々にほぐれていきました。 でも母は、その悲しみの大きさからでしょう、父の後を追うように病気になり、亡くなってしまいました。 母のときもこれ以上悲しい事は無いという気持ちでした。 毎日まいにちぼんやり暮らし、搾り出すようにしか泣けない日々です。 本当に悲しいと、声を出して泣けないんだとわかりました。 そんな私を見て、親戚が前にも増して、何かと気をかけてくれ、声をかけてくれたので、心配かけちゃいけない、そう思えたんだと思います。 母の持ってた品の何を見ても、涙が出てましたが、それも1年ほどで現実として受け入れられました。 もちろん、悲しみも寂しさも消えませんが、死を受け入れることは出来ました。 普通に話せるようになったのは5年ほどたってからですね。 あまり悲しんでると成仏出来ないと言われたのが、気持ちにくぎりをつけられたきっかけです。 出来るだけそばにいるようにしても、どれだけ看病しても、満足出来ることはないし、後悔することでしょう。 それはそれで良いんだと思います。 悲しいのは家族ですからあたりまえなんですよね。 悲しい時は思いっきり悲しんで良いんだと思っていてください。 いずれ、おだやかに自分を取り戻すときがきます。 そして人に優しくなれていることを実感すると思います。 決して悲しみを我慢しないでください。
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- murimuripapa
- ベストアンサー率22% (61/274)
私の場合には父は心臓発作で急に亡くなり、母は癌で亡くなりました。 私も同じように後悔の念ばかり沸き起こり、中々現実を受け止めることは出来なかったことを思い出します。 あなたがお父様の子供であったことを誇りに思えるのなら、悲しまず、後悔もせず誇りを持って生きていくことが、今できるお父様への最高の孝行だと思います。 かわいい自分の子供が、悲しんだり、苦しんだりしてはお父様が悲しまれるだけだと思います。 私の場合、1年程で楽になり、3年過ぎたあたりから現実を受け止められるようになりました。 人によって違いはあるでしょうが、今の辛さがいつまでも続くことはありません。 意識して明るく毎日を送るよう努力してください。
お礼
ご経験をありがとうございました。残り少ない日々を父と一緒にがんばります。
- TOTOKEKKO
- ベストアンサー率27% (44/160)
お悔やみ申し上げます。 万が一不愉快なら読み飛ばしてください。 私も、十年前、余命二年の宣告を受けた父を亡くしました。 当時妊娠中だった私にまで家族の手が回らず、皆が気持ちをかき乱されながらすごしたことを覚えています。下の弟は、まだ中学生でした。 病室で取り乱す家族の手前、私まで父に負担をかけられず、父に涙を見せまいと決めてからは、ずっとのどに何かがつまったようになったまま、笑顔を作り続けていたことを覚えています。 実は、あの時、私の体調を気遣ってくれたのは、父だけでした。起き上がることを禁止された父のため、床擦れ防止に私が体の向きをかえなければならなかったのですが、、父は言いました。「妊婦がそんなことせんでええ。」しなければ、死期が早まるかもしれないのに。。 父に孫の顔をみせることができず、当時は悔しい思いをしましたが、、今ではその言葉が私の子育ての支えです。おじいちゃんに連れられている子をみると、私は妊婦の私にかけてくれた言葉を思い出します。父に毎年連れて行ってもらった盆踊りに行くと、今でもどこかに父が私を見ているような気がする時があります。 私の父は野草摘みが趣味でしたので、子どもを連れて野草を選んでいると、父に寄り添われているような気がします。 不快な感覚ではなく、心がほっとする感じです。 父は教員でしたが、教え子の方が来て、、泣いていたのを覚えています。 わあああと、大泣きしていた方もいました。「もう一度先生のところに帰ってきたかった」と、おっしゃっていました。 そんな中、のどに何かがつかえたようになったまま、お葬式を出したのを覚えています。 くれぐれも、お体を大切に。お食事をとるように気を付けてください。 流されて、やらなければならないことをやってさえいれば、あっという間に月日がたっていくことと思います。 本当にお悔やみ申し上げます。
お礼
ご経験をありがとうございます。最後まで自分に出来ることを精一杯尽くすつもりです。たぶんどんなに尽くしても後悔は残る気がしますが、いつか笑って父との想い出を話せる日が来るの待っています。ありがとうございました。
- UNCN
- ベストアンサー率60% (3/5)
fimloh1120さん UNCNといいます。よろしくです。 まず、お父様のご逝去、謹んでご冥福をお祈りします。 こんなに自分のことで悲しみ悩んでくれる家族がいらっしゃるなんて幸せなお父様ですね。 私は311の翌日から、両親のうち片方とその"一族"全てと連絡が取れなくなりました。 血縁で直接なくなった経験があるのは10歳くらいのときと先月あわせて4名ここ数年でなくなってます。 最初は電話で聞いて え? です。 よく会話に出します。○○がうまかったら人なら、それが登場したときに○○うまかったよねーなどと 半分笑い話にしていきました。 全員話には普通に登場します。物理的に触れないけど、いるかのごとく。 写真に話しかけて今日は勝負の日。力を貸してくれ!とか。 お父様が離れてからまだ数日ならこれ以上無理!と言うくらい涙を流すのもあり、 2ヶ月くらいなら今から掃除してやるぞと写真に言って仏壇大掃除するのもあり、 だいぶたったなら1名でお寺お墓に言ってオラッとお墓と墓誌を磨いてあげると、苦労する分、すっきりしましたよ。 最後には墓誌、日付とか間違って彫られてたら彫りなおしってできるの?なんて笑い話の1つもでました。
お礼
ご経験をありがとうございます。私もいつかそうなれたらいいなぁ
お礼
ご経験をありがとうございます。今が一番辛いときです。最後まで、父のそばに居ようと思います。母の事も心配になりました…でも今に自分の出来ることを精一杯やろうと思います。ありがとうございました。