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平安京の土地はそもそも誰のものですか。
慶滋保胤著『池亭記」によれば、当時(10世紀末)は貧富の差が増大し地価が高騰して、中流貴族では京内に自邸をもてない状況だったそうです。 「地価が高騰して」ということは、金さえ出せば土地・家屋を入手できるというわけですが、平安京の土地を私有することができたのですか。平安京が造成された当初は、天皇から土地を与えられたと思うのですが…。 誰でも金があれば、あるいは金に見合う物品があれば、土地を買うことができたのですか。 どんな手続きが要るのですか。 また、不動産屋のような人はいましたか。 よろしくお願いします。
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基本的には公地公民という建前ですが、藤原氏が私有地を認めるための律令の改正を行っており、土地売買は実際に良く行われていました。特に税収に関連のない田畑でない土地家屋の売買は容易にできますので、いろいろと記録が残っているようです。 参考に下記論文を参照ください。 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11153/1/KJ00004168540.pdf#search='%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3+%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E5%A3%B2%E8%B2%B7' この中では、不動産屋のような存在はなく、まず公権力に裏付けされなければ取引は行われないということが書かれています。 国司などが「これは誰それの土地」と認めた証文があり、それをもとに当事者間で売買するという方法のようです。 その際仲介に「保證刀祢(ホショウトネ)」と呼ばれる役人が保証人としており、それをその土地を管理する国司などの長官に申請し認められれば、新たに証文が作成されるという流れになっています。 この形は10世紀ころには制度として成立をしていたようです。 この仲介を行う保證刀祢に仲介料を払うかどうかは定かではありませんが、まあ、役人とはいえ袖の下はあったでしょうね。
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- ithi
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kouki-koureisyaさん、こんばんわ。 宅地班給は平安京が国有地として出発したところに根源を持っているのですが、これを貴族達に恩典として給付したのですが、10世紀を過ぎると、律令制が崩れ始め、土地の所有権の譲渡や売買が行われたようです。公卿が1町四方、殿上人が半町四方、という決まりが緩んできます。そして、一番都合の良い左京の四条あたりが高騰したようです。 なぜ、このようになったのでしょう。これは正規の収入のほかに荘園などからの年貢がある摂関家や公卿、4年にわたって余得を持って財産を蓄えた受領が財産にあかして土地を購入し、場合によっては規定以上の2町四方の土地を手にいれ、今まで以上の立派な御殿を建築するのです。この当時は仲介業者はなく、土地の所有者と相対で書類や代金を交換したり、譲渡したりしたようです。 、 平安京はその成立後も、その中で土地開発が行われていたようです。ただ、右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあったようです。貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方で、貧しい人々は平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始め鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じたようです。ただ最近の発掘調査結果によると右京でも貴族の邸宅跡らしき遺構が検出されているようです。 受領にもなれなかった慶滋保胤には高嶺の花だったようですね。 参考図書 平安貴族の世界 村井康彦著 徳間書店 1968年 URL 平安京 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC
お礼
ご回答ありがとうございます。 10世紀あたりから平安京の土地・家屋は、カネ次第で入手できる、つまり私有できるようになったのですね。 上流貴族の場合、荘園の経営や受領で赴任すれば購入資金を準備できたということですね。 分かりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ピタリの論文を教えて下さったのでよく解りました。 土地は、売買、譲渡、寄進などさまざまな様態で所有者が替わっていったのですね。 売買のしくみもよく解りました。 このようなしくみを論文の筆者が「平安時代土地公証制度」と呼んでいますので覚えておきます。