• 締切済み

えん罪者はなぜ、努力して戦う必要があるんですか?

何にも悪いことしてないのに、「共生あいさつ剤」だったかな? そんなので、ケーサツにつかまって、せまい部屋で何時間も何人も入れ代わり立ち代わり、怒鳴られて、それで「私がやりました。」で、牢屋に入れられて、そのあと外へ出たけど、もう生きていたくなくなりました。 私は弱いし。もっと、強い人間なら「ずっと、やってない」で通るんだろうけどね・・・。 で、どうして、えん罪を認めてもらうのに努力して戦わなければならないんですか? 老人でもわかりやすく、私の心を動かすような、感動するような回答をいただければ、お礼をします。 でも、見当違い、怒らせるような回答、高飛車な回答は、絶対にしないでください。 むしろ、そういう可能性のある人は絶対に(いかなる場合でも、言いたいことがあっても)答えないで無視してください。 私と同じような気持ちで、親身になって、心から受け止めてくれる人だけ、回答してください。

みんなの回答

  • tk4mzt2
  • ベストアンサー率7% (25/320)
回答No.6

私がその立場なら 戦わず 運命を受け容れ 静かに余生を送ろうと努めるでしょう。

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15358)
回答No.5

 思い込みという壁が有る限り闘わないと難しいし、ほとんどの場合孤立無援状態で証拠も少ない。  それと犯罪者は嘘をついてるという思い込みが警察を動かしている。  悪い宗教につかまったような物で、どんなに説明しても思い込んだことが正しいと。正しいと思い込むほど抜け出せないのです。だから、精神的な消耗戦をすることになります。  思い込みほど、やっかいです。これは誰しも持っている物です。たとえば自分自身が思い込んでいる物って他人から指摘されないと気がつきませんし、分かりましたと直ぐに変えることが出来ないことも多いですからね。  それと精神的な事では、取り調べ室とかそういった特殊な空間も要因でしょうね。  男性だと多くの方が気になる問題でしょうね。

noname#194996
noname#194996
回答No.4

>どうして、えん罪を認めてもらうのに努力して戦わなければならないんですか? 既成の、一応うまくいっている、これまで大過なくやってこれたシステムが、仰るところの「強制わいせつ」とか「痴漢」とかいう犯罪の形態、実態にうまく適応しない、していない、しようとしない、しようと思わない、しようと考えないという主に警察、司法の方の問題があるのでしょう。 以下に述べる一般常識、思い込みなどが首記の問題を誘発します。そして 司法、警察関係は概して保守的な考えが支配する世界です。 男は女を快楽の対象としている 男は女より強い 女は必要以上に羞恥心を持ついきものである(したがって親告するのはよほどのことだ:正しいだろう) 強い者はよわいものを保護するべき 犯罪者(≒被疑者)の言辞、弁明は信じるに足りない。 主として警察組織は上記の思い込みを一旦なくして、証拠物件重視主義という原点へ立ち戻る必要があると私は思います。そうでなければ >えん罪を認めてもらうのに努力して戦わなければならない 時代は終わらないと思います。

  • E-1077
  • ベストアンサー率25% (3258/12620)
回答No.3

 きょうせいわいせつざい  強制猥褻罪  強制わいせつ罪  つまりは痴漢行為やレイプなどですね。それで加害者とみられる人がやっていないと主張する。  しかし警察と検察は証拠を並べてやっただろうと罪に問う。    現代では牢屋と言わずに拘置所もしくは鑑別所とか留置場とかいいますが・・・・、そこには罪が確定するまでは誰でも拘留されます。逃げることがない場合とか保釈金を払った場合、裁判所が認めた場合は自宅に戻ることも可能ですが。  ともかくは物的証拠や目撃証言を覆すような反訴材料を準備し、検察と戦うのはかなりの「努力」が必要です。  権力はとても威圧的ですので、これに対抗するのは「やっていない」との自分との戦いでもあるでしょう。  そうやって殺人犯として無罪を主張し続けた被告が晴れて40年目に社会復帰した例もありますね。  戦前から、こうだと決めつけられて責め立てられると、本人の意志だけではどうにもならなくなり、最後には認めたほうが楽に終わるかも・・・と折れる人も多いです。それを責めることは出来ないでしょう。責めるのは調べている警察や検察の方です。  冤罪はそのような体制が変わらない限り起こりえますが、反対に馬鹿な弁護士が付けば強姦殺人で二人殺しても少年法に守られて無期懲役となり15年もしくは8年で社会に復帰していまう状況をつくる。  コンクリート詰め殺人でも無期懲役になった犯人の内、二人が再犯をおこしています。  このように、罪を憎んで人を憎まずの精神をもっても、払拭出来ない社会の闇は存在します。それは人の心の闇です。  それに打ち向かうために、信じて捜査をするのでしょう。  よって、それに真摯に打ち向かうには疑いを掛けられた人もそれなりの覚悟が必要だということです。    ああ、ここまで頑張って書きましたが、心には響かないでしょうね。  と、真面目に回答してみた自分を褒めてやりたい・・・・・。  いい暇つぶしにはなりました。ありがとうございました。

回答No.1

人間は何故学ぶのか、自分のやりたい事をやるためです。その中で何故社会科などが 存在するのか。自己の正当性を法を用いて証明するためです。 したがって、自分の意を通して生きる事が目的だから、皆学び闘うのです。 それをしたくないという事は、汚名を押しつけられても甘受するという事に等しい。 訴訟の多い欧米では、ドライに言われるでしょう。死にたければ勝手に死ね。 つまりはそういう事です。 寧ろ、質問者は同意を求めて慰めて欲しいだけの投稿をしていますので、 それが目的ならば、心療内科の門をくぐって専門家の診断を受ける方がいい。

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