赤ちゃんとお母さんと大人
こんにちはー。えーと、長文になりますが、お許しください。一応今の考えです。どうおもわれますか?
赤ちゃんの気持ちを追いかけてみました。
赤ちゃんにとって、当初、お母さんは全く赤の他人、見知らぬ人です。その見知らぬ人を、赤ちゃんはお母さんと呼ぶほど好きになるからこそ、それはとても意味がある、とおもいます。そのギャップのすごさ、つまり全くの赤の他人と、同時にもっとも大事なお母さん、というこの2つが両立するところがすごいです。
親子が、最初から親子なら、それは、意味がない、というといいすぎでしょうか?
赤ちゃんにとって、お母さんはいつまでも赤の他人です。そして同時にもっとも大事な人です。他人であることを下敷きにして、最も好きな人になる、ということがすごいなーとおもいます。自立してるので安易な自他同一がありません。その赤ちゃんの、そしてお母さん内部の赤ちゃん人格の、自己外部を全面的に愛する能力に対してです。
これは、たとえば、孤児で育った人や、養子で育って、血縁関係もない、人種も違う人を、自分の母親だと紛れもなく言い切る人がいることからもわかるとおもいます。
つまり、それは、血縁関係ではありません。DNAを超越している、とおもいますし、血のつながりがある、というDNAに由来する感情とも違います。母性本能、という言葉もへんだと思います。血のつながり、という概念は依存心です。母子の愛情は血のつながりではありませんし。
母性本能というのは、想像ですが、お母さんの内面の、赤ちゃんの人格が引き出されるのだろう、とおもいます。お母さん内部の赤ちゃんの人格が、自分の蓄えた大人の知識と知恵を取り扱うときに、それを母性本能、と呼ぶのではないでしょうか?
それは、単純に愛だとおもいます。
なにがいいたいかというと、赤ちゃんは「自立してる」ということです。愛ある人は自立している、という意味です。
もちろんメンタルの意味です。大人から観察して未熟なのは当たり前ですが。僕自身赤ちゃんに感情移入して、その気持ちをなぞってみると、多分こうだなーとおもいます。このあたりは心理学とちょっとぼくは意見が違います。
赤ちゃんのエゴイズム、というのはもちろんわかりますが、それは、やはり、赤ちゃんの立場に立つのでなく、赤ちゃんを外部から心理学者が観察したからこその意見だとおもいます。間違いじゃないですが。赤の他人を母親とおもうほどの愛の強さ、愛が強いがゆえに、自分をがんがん自己主張することに対する平気さ。大人でなかなかこのレベルの人はいません。0.1%以下かしら。赤ちゃんと対等か、それを上回る大人は、知る限り、悟りを開いた人、神とともにある人など、きわめてわずかしか見つけられません。
言い換えると、大人が赤ちゃんを自立して扱わないから、赤ちゃんの自立は成長とともに崩れる、とおもいます。
それは、老人ホームで、年長者に対して、知らず知らず悪気無しに赤ちゃん言葉や子供言葉で、老人をあやすヘルパーさんみたいです。決して悪気はないのですが。それは、本気でお年寄りに感情移入せず、お年よりはこんなもの、という決め付けて現実をみないことから起こる、とおもいますが、赤ちゃんも同じだと思います。そして未熟者扱いされた赤ちゃんはわがままになります。これは赤ちゃんに限らず、大人でも老人でも人間なら同じです。これだけハイレベル・の赤ちゃんが、年齢とともにレベルが下がる理由は、周りの大人が未熟者扱いするからだ、というのもありますが、人格を認めてもらえない腹立たしさは経験があります。
赤ちゃん個人のメンタルとして考えると、赤ちゃんには自覚がない、ということが、覚者や神への真の信仰ある人との違いだとおもいます。この自覚のあるなしによって、自覚のない赤ちゃんは、レベルを下げることが普通ですが、悟りを開いた人は、レベルを下げません。精神レベルは同じでも、自覚ある悟りの人は、それがいいと知っているので、そこから出ません。
つまり、生後、大きくなる途中で獲得した矛盾や恐怖などによって分裂した自分を、自己同一、自他同一などのアイデンティファイによって元に戻し、取り込んでいた自分を、自己の対象化として、自分本体から切り離す、それによって自覚的に再びもとの自分に戻す、というのが大人のすることかなとおもいます。
赤ちゃんは、自分のことを赤ちゃんとは決して思っていないし、未熟とも考えていません。一方、大人は、あれは大人だ赤ちゃんだ、と考えてます。全然人格みてません。ぼくもですが。一人の人という自覚のもとに、赤ちゃんにも老人にも接する人は少ないとおもいます。その意味でも、大人は赤ちゃん以下の人が多い、と感じます。キリストが、赤子のようでないと、天国の門はくぐれない、とはこういう理由かなと想像します。た、足りない~