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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:立憲政友会と立憲民政党の性格変遷について)

立憲政友会と立憲民政党の性格変遷について

このQ&Aのポイント
  • 立憲政友会と立憲民政党の性格変遷について調査しました。立憲政友会は内政で保守的な姿勢を持ち、中国に対しては強硬外交を行っていました。一方、立憲民政党は内政で自由主義的な方針を取り、中国には不干渉の姿勢を持っていました。また、立憲政友会は積極財政を行い、立憲民政党は緊縮財政を行っていました。しかし、立憲政友会の出自は自由主義的な自由党であり、立憲民政党の出自は穏健な立憲改進党です。なぜ出自と実際の性格が異なるのか、何かが変わったのかについて知りたいです。
  • 立憲政友会と立憲民政党の性格変遷について調査しました。立憲政友会は内政で保守的な姿勢を持ち、中国に対しては強硬外交を行っていました。一方、立憲民政党は内政で自由主義的な方針を取り、中国には不干渉の姿勢を持っていました。また、立憲政友会は積極財政を行い、立憲民政党は緊縮財政を行っていました。しかし、立憲政友会の出自は自由主義的な自由党であり、立憲民政党の出自は穏健な立憲改進党です。なぜ出自と実際の性格が異なるのか、何かが変わったのかについてお知りになりたいです。
  • 立憲政友会と立憲民政党の性格変遷について調査しました。立憲政友会は内政で保守的な姿勢を持ち、中国に対しては強硬外交を行っていました。一方、立憲民政党は内政で自由主義的な方針を取り、中国には不干渉の姿勢を持っていました。また、立憲政友会は積極財政を行い、立憲民政党は緊縮財政を行っていました。しかし、立憲政友会の出自は自由主義的な自由党であり、立憲民政党の出自は穏健な立憲改進党です。なぜ出自と実際の性格が異なるのか、何かが変わったのかについてお教えください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ithi
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回答No.1

creamysoft さん、こんばんわ。 立憲政友会は自由党とは別物です。確かに自由党の流れをくむ、星亨などの自由派憲政党を含みますが、この政友会ができる時点で板垣退助が事実上の引退に追い込まれます。他は伊藤の部下の官僚や他の民党関係者などで成立し、党首は伊藤博文です。そして党首の専制的な政党組織でした。だから急進的な政党にはなりませんでした。 立憲民政党に至っては成立は新しく、昭和に入ってからです。確かにこの党にも立憲改進党の流れをくむ加藤高明の立憲同志会が含まれています。これと尾崎行雄の政治グループとで合併した若槻礼次郎の憲政会と政友会に不満をもって離党して成立した床次竹次郎のグループの政友本党との合併でした。党首は浜口雄幸でした。 このことから、立憲政友会も立憲民政党もそれぞれ自由党や立憲改進党の流れをくむ勢力がいましたが、時代を経るにつれて新しい政治グループとの合併や分離を繰り返すうちに力が小さくなり、やがて、本来の性格から変質していったのです。 理由は党利党略がらみだと思います。 詳細なことは下記のURLを参照ください。 立憲政友会 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A 立憲民政党 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%85%9A 自由党 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A 立憲改進党 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%B9%E9%80%B2%E5%85%9A

creamysoft
質問者

お礼

ithiさん、丁寧なご回答ありがとうございます。 >この政友会ができる時点で板垣退助が事実上の引退に追い込まれます。 そうだったんですか。この経緯を自分なりに探ってみます。 >時代を経るにつれて新しい政治グループとの合併や分離を繰り返すうちに力が小さくなり、 >やがて、本来の性格から変質していったのです。 >理由は党利党略がらみだと思います。 現代にも通ずる部分がありますね。。。 明治~昭和初期の政党は名前が紛らわしくってわかりにくいです。 また、よろしくお願い申し上げます。