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疎外と物象化と理象化――人間の存在と意志の喪失
- 疎外とは、エネルギー部門の外化・譲渡・手放しのことを指す。自分の手元から離れてしまっていて、自由になれない状態を意味する。
- 物象化とは、資本や経営者、雇用者、消費者などが資本の自己運動のために存在と意志をささげることを指す。人間は資本の前にひれ伏す存在になってしまう。
- 理象化は、疎外と物象化の世界に不満を持ち、精神や理性を取り戻し、自己の存在を女王とすることを意味する。コミュニケーションを重視せず、自分自身の感情や意識に重きを置く考え方としても知られている。
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体系としての真理だけが現実的であること、あるいは、実体が本質的に 主体であること、それをいいあらわすものとして、絶対者が聖霊(精神)だ、 といういいかたがある。聖霊(精神)こそ、近代および近代の宗教に特有の、 もっとも崇高な概念である。精神的なものだけが現実的なものなのだ。 15ページ まえがき ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ――このように、おのれを精神として知る精神の形が学問である。学問とは精神の現実のすがたであり、 精神が自分本来の場できずきあげた精神の王国である。 17ページ まえがき ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 弁証法が自然における否定の運動としてあらわれるとき、その運動は、意識にとって 自分が作りだしたのではなく、そこに自分が身をさらす運動としてまずあらわれる。 B.自己意識の自由――ストア主義、懐疑主義、不幸な意識 143ページ 精神現象学 ヘーゲル 長谷川宏 訳 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず、聖霊とは何かですかねえ。 三位一体の話とか、聖霊の話とかカトリックとルター派で違うのでしょうか。 あと否定とか分裂 神学とか人間学とかどうも 父なる神とイエスの話をしているような気がしてくる。 では、聖霊はなんなのか。 聖霊は否定したり分裂したりするんですかねえ…。どうなんですかね。
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- jjubilee
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>★ "Only-mindedness" >☆ は 唯識としては なかなか検索しても出て来ませんよ。 → 失礼、"Only-Mind"でした。ずいぶん前に読んだ"Zen Way Jesus Way"(著者:Tucker N. Callaway; 出版社 CHARLES E. TUTTLE COMPANY)の中で著者が、認識論の説明として、"solipsism"と同じであるとして、"Only-Mind"として唯識そのものの説明をしてあった用語です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 分かりづらい質問に回答を寄せてもらって ありがとうございました。
- jjubilee
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#1です。すぐに返答できるところだけ申し上げます。 >○ 独我論は solipsism と言っているらしく 認識としてかどうか知りませんが *** おっしゃるとおり、"solipsism"です。"sol"="alone"「独」、"ipse"="self"「我」という正爪医がなされています。」 http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=solipsism&searchmode=none >われ自身のみが世界だと決めている思想ではないですか? *** そのように理解しているつもりです。 ことばのつながりがあいまいになってしまったようで少し説明させて頂きます。 「独我論」は"solipsism"です。"Only-mindedness"というのは「唯識」の役語です。 ↓ 「独我論」"solipsim"は、英語にすれば"Only-mindedness"という仏教の「唯識」にも相当する概念です。 *** 私が、英語表記をわざわざ出したのは、(本来は独語にすべきでしょうが)、「物象化」は西洋語の訳語であり、「理象化」や「人象化」という表現は「物象化」という漢語の中で「理」や「人」を入れ替えておられるので、定義とまでいかなくても、もう少し説明して頂きたかったなという気持ちからです。出来れば英訳されたらどのような表現になるのかなと思ったのがその理由でした。
お礼
jじゅびりーさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。 《理象化》を英語で何というか? 従来の用語と同じでよければ ○ idealization でしょうね。でもたとえば ○ idealizationalism くらいでしょうか。とにかく勝手な造語ですから どうなりますやら。 じゅびりーさん ★ "Only-mindedness" ☆ は 唯識としては なかなか検索しても出て来ませんよ。 あと 資本主義社会の現状分析とあたらしい展望について書きこんでいただいたくだりについては 特にコメントがなくて そのままになっています。引用して みなさんにも どうお考えになりますか? と問うかたちにすればよかったと思います。ですから いまからでも そうします。 ★★(回答No.2) ~~~~ 現在の社会状況を、bragelonneさんのことばで発露されているようですが、現代資本主義は「定量化(数値化)される商品」がマルクスの時代の「物品」だけではなく、「貨幣・労働・土地」が「金融・賃金・不動産」と言う形態で堂々とその形態を疑われることもなく世界を法則として支配しているということです。さらに、富は貨幣価値に換算され、その貨幣価値は変動相場制により日に日に変動するという最悪の形になっていることです。 さらに以前ではその価値変動を自己に有利に使う心理操作であったものがコンピューター内でプログラム化され、複数の金融業者(ばくち打ち)が同一の情報で同一の行動をとり、株価の大量の売り買いという現象が生じています。もはやそれほど金持ちでもない個人投資家の出るまくはありません。複雑に構築されたネットワークシステムつまり複雑系に金融経済が陥っている問うことです。ネットワークの各ノードに異変が起これば、思いも掛けない気象変動のように、各地で思いも掛けない経済の異常変動が生じるのです。 このギャンブル資本主義はもはや社会主義体制、資本主義体制の区別なく、グローバリズムとして世界をのしのし歩き回っているのです。マルクスがこの状況を見れば、その装置をすぐに見抜くでしょう。マルクスでなくても現代の経済学者は皆知っていて黙っているのです。知らないのは無知蒙昧なる国民だけです。 「使用価値」(衣食住に必要なもの)さえあれば人間は楽しく生きていくことが出来るのに、すべてを上限変動する貨幣の価値で交換され、その貨幣がなければ、衣食住もままならず、餓死する恐怖を感じつつ奴隷状態になっているのが現代のほとんどの人間です。 カール・ポランニーは、すでに20世紀半ばには「貨幣・労働・土地は商品にすべきではない」とその書籍の中で警鐘を鳴らしています。 もし現代に哲学が必要なら、この金融経済を根底からひっくり返すものでなくてはなりません。経済哲学というものがかつてあったかどうか、マルクスがそうであったかどうか知りませんが、新たな貨幣論のについての理論とその実践論が必要でしょう。専門家は気づいてはいるが、まだ誰も作ろうとはしていません。経済学は貨幣を前提とした学問だからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~
- jjubilee
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ドイツ語を知りませんので、英語の「物象化"reification"」の定義(OED)は: The mental conversion of a person or abstract concept into a thing. Also, depersonalization, esp. such as Marx thought was due to capitalist industrialization in which the worker is considered as the quantifiable labour factor in production or as a commodity. →「人間つまり抽象的概念を『物(触ることができるもの)』へと、心理的に変換すること。特にマルクスの考えたような非人格化(疎外)がなぜ生じるかというと、資本家の産業化という行為のためである。その産業化の過程の中で、労働者は、生産の中の定量化できる(数値化できる)労働要素つまり商品と見なされるのである。」 「Wiki」では http://en.wikipedia.org/wiki/Reification_(Marxism) >・・・自分の自由にならないという意味での疎外でもある。 →おっしゃるとおりです。 >「理象化(?)」 → bragelonneさんのおっしゃる「理象化(?)」の「理」は「精神と理性」ということになりそうですね。そうすると「理象化」の定義を、上の「物象化」の英語の定義の"a thing"に放り込むものは「精神と理性」となり、英語では、"spirit and reason"となります。 ↓ The mental conversion of a person or abstract concept into "spirit and reason". 「人間つまり抽象的概念を『精神と理性』へと心理的に変換すること。」となり、英語にしても、"spirit"はすでにある意味、妖精という訳語にもある如く物象化されていることばであり、"ration"は抽象的なことばです。 ↓ >「ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買っているかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをしない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。」 ↓ 「独我論」は、英語にすれば"Only-mindedness"という仏教の「唯識」にも相当する概念です。発信も受信も我が心の中に生ずる「こと的出来事」に過ぎないと考える立場です。発信も受信もすべて我が心で生ずるということです。 現在の社会状況を、bragelonneさんのことばで発露されているようですが、現代資本主義は「定量化(数値化)される商品」がマルクスの時代の「物品」だけではなく、「貨幣・労働・土地」が「金融・賃金・不動産」と言う形態で堂々とその形態を疑われることもなく世界を法則として支配しているということです。さらに、富は貨幣価値に換算され、その貨幣価値は変動相場制により日に日に変動するという最悪の形になっていることです。 さらに以前ではその価値変動を自己に有利に使う心理操作であったものがコンピューター内でプログラム化され、複数の金融業者(ばくち打ち)が同一の情報で同一の行動をとり、株価の大量の売り買いという現象が生じています。もはやそれほど金持ちでもない個人投資家の出るまくはありません。複雑に構築されたネットワークシステムつまり複雑系に金融経済が陥っている問うことです。ネットワークの各ノードに異変が起これば、思いも掛けない気象変動のように、各地で思いも掛けない経済の異常変動が生じるのです。 このギャンブル資本主義はもはや社会主義体制、資本主義体制の区別なく、グローバリズムとして世界をのしのし歩き回っているのです。マルクスがこの状況を見れば、その装置をすぐに見抜くでしょう。マルクスでなくても現代の経済学者は皆知っていて黙っているのです。知らないのは無知蒙昧なる国民だけです。 「使用価値」(衣食住に必要なもの)さえあれば人間は楽しく生きていくことが出来るのに、すべてを上限変動する貨幣の価値で交換され、その貨幣がなければ、衣食住もままならず、餓死する恐怖を感じつつ奴隷状態になっているのが現代のほとんどの人間です。 カール・ポランニーは、すでに20世紀半ばには「貨幣・労働・土地は商品にすべきではない」とその書籍の中で警鐘を鳴らしています。 もし現代に哲学が必要なら、この金融経済を根底からひっくり返すものでなくてはなりません。経済哲学というものがかつてあったかどうか、マルクスがそうであったかどうか知りませんが、新たな貨幣論のについての理論とその実践論が必要でしょう。専門家は気づいてはいるが、まだ誰も作ろうとはしていません。経済学は貨幣を前提とした学問だからです。
お礼
じゅびりーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 英語の「物象化"reification"」の定義(OED)は: ☆ 以下省略しましたが 考えてみれば ○ 《物象化》の定義として 《非人格化(疎外)》を言っているようですね。 ○ 《労働者》が《商品》と見なされることを 物象化と言いたいのでしょうか。 ○ たぶん労働者であろうが誰れであろうが 商品の心になってしまう。自分は商品であることをうれしく思う。なら それは 物象化だと思うのですけれど。 ★ bragelonneさんのおっしゃる「理象化(?)」の「理」は「精神と理性」ということになりそうですね。 ☆ ええ。おっしゃるとおりです。 ★ そうすると「理象化」の定義を、上の「物象化」の英語の定義の"a thing"に放り込むものは「精神と理性」となり、英語では、"spirit and reason"となります。 ☆ なるほど。ええ。 ★ 「独我論」は、英語にすれば"Only-mindedness"という仏教の「唯識」にも相当する概念です。発信も受信も我が心の中に生ずる「こと的出来事」に過ぎないと考える立場です。発信も受信もすべて我が心で生ずるということです。 ☆ ここは いくらか 飲み込むまでに時間(用語の整理など)が必要です。 ○ 唯識は 縁起とその認識がそしてそれだけが 世界だと言っていますか? ○ そのとき 発信と受信とは 特に関係して来ないと思われます。 ○ 独我論は solipsism と言っているらしく 認識としてかどうか知りませんが われ自身のみが世界だと決めている思想ではないですか? あとは 現状分析とあたらしい方向性について述べておられます。 中で ひとつ次のご指摘は わたしには 《理象化》の事例ではないかと考えます。 ★ カール・ポランニーは、すでに20世紀半ばには「貨幣・労働・土地は商品にすべきではない」とその書籍の中で警鐘を鳴らしています。 ☆ 現実にほとんどあらゆるものごとが《商品》とされ交換価値を付与されて売買されているところへ これこれは商品とすべきではないといった見解を持ち出すことは 人間が精神および理性へ変換されようとするだけではないか? これが 独我論であり 何もたたかわないで その精神のタコツボに閉じこもることではないか? そのようなひとつの発信をおこなっておけば あとは 誰れが何と言おうともうその受信はしなくても済む。と思っている思想ではないだろうか?
全然関係ない話ですが 誰かフォイエルバッハに詳しい人はいませんかね。 神学の秘密は人間学である。 という言葉からずっと興味はあるんですが、 検索してもマルクスの話ばかりなんですよ。 キリスト教の本質という本も難しくて 途中で読むのをやめたし、ヘーゲルも難しい。 だからすっかり忘れていたんですが。 フォイアーバッハ http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kindai/kindai03a.html 枯山水と草ぼうぼうとどちらが美しい? 人間が作ったものと、自然そのままと どちらが美しい? 自然を管理するために観光地にしてしまうのは やめたほうがいい?
お礼
ご回答をありがとうございました。
補足
こんにちは。 ▲ 神学の秘密は人間学である。 ☆ これは 無神論というひとつの信仰形態に立って 見解をのべたものです。《無い神》を立てているからには 経験科学として人間のいとなむ学は 人間学しかないという意味です。 ぎゃくに言うと 有神論に立つなら 神学は 神学である。そこから――つまりそれは 神をほんとうはそうではあり得ないところの概念として捉え その概念をもとにして構成した神をめぐる観念体系から〔ふつうは ヒラメキをとおして〕―― 人間と社会についての理論を得て来る。つまり結果として 《人間学》であることは 無神論のばあいとまったく同じことです。 つまりくどいようにまとめれば 神学と無神学とがあり (無神学は 無神論にとって 文字通り無であり) 神学経由の人間学と直接の人間学とがある。 * フォイエルバッハについては マルクスがまとめたテーゼで理解できるのではないでしょうか。なにぶん三十年以上前にそう読んでもう要らないと思ったという浅はかな判断でしたが それはそれとしてここにしるします。 たとえば次のテーゼは 有益であるように思います。 ▲ (ヰキぺ:フォイエルバッハに関するテーゼ) ~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC § 第6テーゼ フォイエルバッハは、宗教の問題とは結局人間の問題である、というふうに解消する。 しかし、人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。 人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。 この現実的なあり方の批判に乗り出さないフォイエルバッハは、次のようになってしまう。 1. 歴史的経過を切り捨て、宗教的心情をそれのみで固定し、 一つの抽象的な、孤立した人間の個体を前提にしてしまうこと。 2. ゆえに、彼にあっては、人間的本質はただ「類」という 一般概念として、内なる、無言の、多数個人を自然に結び合わせ たにすぎない普遍性としてのみとらえられてしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 社会に生きる人間 とりわけ経済生活にたずさわる個人を見よと。 最初に見たように 有神論にあっても けっきょく人間学に戻って来ます。そこから 社会の問題や経済の分野についての議論が ふつうに持たれます。 ▲ 神学の秘密は人間学である。 ☆ この命題(テーゼ)のままに終わってしまうなら 《〔人間のつくった観念の〕神は死んだ》と言い放って得意となっているやからと変わらない。ということではないでしょうか。《超人》などという別箇の《秘密》を造らなかっただけ偉い。 * ★ 枯山水と草ぼうぼうとどちらが美しい? ☆ これはですね。わたしの勝手な解釈をご披露しますが 芸術・美術は まづすでに《人為的な作業(アート?)》を前提として 議論が始まります。 つまり枯山水という人工のものは すでに前提です。 ということは 言いかえるなら 《人工の作り物》について芸術論というのは それがいかに自然の美を映して(移して)いるか? これを競うというかたちで見て行きます。 ということは 人為的なしごとに成る作品が いかに自然の美をも描き切ることが出来るか? 《自然でない作り物》が いかに自然のうつくしさをつたえることが出来るか? ウソが いかにホンモノの良さをしのぐか?――などという不謹慎な課題であるかにも思われます。 それは 芸術家の腕の見せ所なのでしょうか。 天衣無縫などと言ったりします。有縫が いかに無縫の美を伝え得るか?
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お礼
かざみどり365さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 わたしの理解するところをお伝えします。 まづやはり ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理を見てみてください。簡易版を示しますが 神学と人間学とがそれぞれ人間という存在のどこに位置するかです: ○ (簡略版定理:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ):神学 ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):人間学 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) :人間学 ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから 無神論では このように位置づけられる神学が ゼロだと見なされているわけです。 有神論としても じっさいの――その理論の有効性についての――勝負は およそ人間学のほうにあります。神学は 雲をつかむようなものなのですから。 あるいは 《心の明け》としるしましたが この《非思考の庭(つまり 信仰)》は 《心が いかなる宗教の奉じる神に対しても 閉じられていない》ということをもって 実質的な内容でありその現実性であると捉えています。 つまりこのことは 無神論にあっては 神学ないし宗教そのものがゼロと見なされているからには 同じく《心の明け》となっているはずです。ことさら言わないということでしょう。 ○ 真理 ☆ という言葉は ワタシが非思考の庭においてその名を受け容れている神のことです。無神論にあっては 《無い神》のことです。 言いかえると 有神論にとっては 分かり得ない非経験のナゾという意味での――神としての――真理と そして人間学の次元と分野での真実とに分かれます。そしてひとの心の真実や経験事象としての真実についても 言葉のナラワシとしては 《科学的真理》などと言ったりすることがあります。ややこしいです。 つまり 真理は 科学的真理のことしかないというのは 無神論のばあいです。もっともそのことは うつろいゆく内容としての・つまり相対的な真実としての内容である《真理》のことを言っているに過ぎないこととなります。 有神論の真理は 変わらざる真実のことです。絶対なのですから。 これらの用語や概念の交通整理は 必須です。 ○ 聖霊 ☆ は 神のことです。有神論における真理です。つまり 人間の精神ではありません。神学の次元での話です。 ただし ▲ 精神的なものだけが現実的なものなのだ。 ☆ とヘーゲルが言ったときには この精神は世界精神でもあって 《聖霊(精神)》といった用い方をしているように 端的に《真理ないし神》のことです。 ○ 神としての変わらざる真実 つまり真理 これはつねに 人間学の土台である。 と言った意味だと思われます。 ○ 相対的な意義しか持たない経験存在である人間の思惟や行為は それが有効であると言うとすれば その人間の行為じたいには根拠はなく ただ真理にのみある。 こう言っていると思います。真理とて 雲をつかむような話なのですから では 人間のおこなうものごとのどこに信頼がおけるのか? と問うなら それは 真理において有効なのだと答えたなら その意味するところは けっきょく《人間は 無根拠によって生き動き存在する》と言ったことにひとしいわけです。 それゆえ 実存といった思想が生まれます。《本質》などというものが この現実存在に先行してはいないのだ。だから ひとは自由なのだと。 この本質は ヘーゲルの文章の中で《実体》とも言われています。 言いかえると 神学は人間学に言わば先行しているという命題が有神論では持たれているわけですが それは その神学内容を《本質》と見なしたり《実体》視したりするものではない。という注意が必要です。 これが しばしば出て来る《人間のつくった観念の神》なる問題です。《文字(想像物)はひとを殺し 霊(聖霊)はひとを生かす》。 この《観念の神》については 偶像(神の仮りの姿)であると知っていれば大丈夫ですが それ自体が神とされたら問題です。問題が 実際には多く大きく現われたようです。原理主義的な思考や振る舞いがそれです。 よって 神は死んだというふうに言って 《弁証法》が作動したとも考えられます。 ▲ 弁証法が 自然における否定の運動としてあらわれる ☆ うんぬん。 もっとも 神学という土台にあっては すでに弁証法が弁証法されている わけです。つねに最終的な弁証法の作動が済んでいるわけです。 つまり 観念の神は 観念化したそのときすでに死んでいるという認識を――神学は――すでにそなえています。 《自然における〔否定〕》とは人間学のこの経験世界では 時間的な過程として《テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ》というふうに推移して行く。つまり 《ほんとうはすでに〈その場での観念の神の死〉なる認識》が 時間差をともなって得られて行くという寸法です。 ぎゃくに時間差をともなわないというのは 絶対としての真理の国での話です。人間は この真理の国にいるということは出来ませんが そういう想定をしてそういう世界が それも経験世界の現実の一環であるものとして 知覚されたり認識されたりするという経験を持ち得ます。 つまり 神学です。――フリッツくん(ニーチェ)とやらは いったいどんな神学をまなんだんだい? アウグスティヌスのアの字も知らないではないか。 ○ 三位一体 ☆ については 次の図解を参照してください。 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 ☆ この文意を取って表わしたその内容です。 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~ ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《神の似像としてのヒト》について フォイエルバッハは《神学を無としたうえで人間的本質》と言い それをマルクスは 次のように言いました。No.1補足欄を参照。 ▼ (マルクス:フォイエルバッハのテーゼ) ~~~~~ 第6テーゼ フォイエルバッハは、宗教の問題とは結局人間の問題である、というふうに解消する。〔* それはそれでよいのだ〕 しかし、人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。〔* 人間学は 形而上学のみではない〕。 人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《人間関係ないし社会関係の錯綜して構造を成す社会形態の全体と相似形ないしフラクタル形を持つニンゲン》のことが 《現実性における社会的諸関係の総体》だというわけです。図における三位一体の部分は 除いてですが。 三位一体の理論は おおむね合意が出来ているようです。相違点はほとんどないようです。 光源が父なる神 そこから生まれる発耀が子なる神 それらから発出する明るさ・あたたかさが聖霊なる神です。光は経験事象としては 時間差を持ったものですが 真理つまり神にあっては そこに時間的な間隔がないということになります。 問われれば さらに説明します。