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公理の正しさについて

数学カテゴリで質問しようかと思ったのですが、数学的な基礎づけを伺いたいわけではないので、哲学カテゴリにしました。 最近、ある宗教家の方とお話ししていると 「科学は、公理の上に定理を積み重ねることはできても、公理がなぜ正しいのかは証明することはできない。 公理がなぜ正しいのか。それは神様から与えられたものだからである」 とおっしゃっていました。 クーンのパラダイム論に近いことかと思っていると、「時代背景」とかではなく、もっと根源的に、「科学とは神によって担保されている」という意味のようでした。 (1)こういう考え方って、現在の哲学や神学では結構ありふれているのでしょうか? また、歴史上に同じような考え方をしていた思想家はいるでしょうか? 「公理」や「定理」という考え方をしていた哲学者というとスピノザが思い浮かびますが、彼は公理の正しさについては何も言及していなかったと思います。 (2)科学には反証可能性があり、宗教にはそれがない点で、両者は全くの別物だと思います。 しかし、上記の主張を受け入れると、「科学は神に従属している → 科学もまた宗教ではないか」とという結論になる気がします。 もし上記の主張が正しければ、本当にそういう結論になるのでしょうか?

みんなの回答

  • kurinal
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回答No.11

こんばんは。 TVで見た敬虔な方は、 「人間の作るルールは、「人間にとって都合の良いモノ」に過ぎない」 と仰って居ました。

回答No.10

 こんばんは (1)こういう考え方って、現在の哲学や神学では結構ありふれているのでしょうか? また、歴史上に同じような考え方をしていた思想家はいるでしょうか? ↓ ↓ ↓  いるかもしれませんが、多数ではないと思います。 (2)科学には反証可能性があり、宗教にはそれがない点で、両者は全くの別物だと思います。 しかし、上記の主張を受け入れると、「科学は神に従属している → 科学もまた宗教ではないか」とという結論になる気がします。 もし上記の主張が正しければ、本当にそういう結論になるのでしょうか? ↓ ↓ ↓  まず、ポパーの反証可能性を受け入れるならば、別物となるでしょう。  う~んと、既に回答されていることですけど、「公理」、科学ですと「原理」。ですが、別段厳密に区別する必要もないと思いますので、そのまま「公理」という語を用いて述べていきますね。 ・数学上での公理について  以下の文言のように、古典数学と現代数学の最も異なる点としまして、現代数学では「公理」は仮説であるということが挙げられます。 「公理は構造を規定する設計図のごときものとなった。[ヒルベルト以降は]したがってそれは1つの仮説の一種となったともいえよう。」 遠山啓著「代数的構造」日本評論社  実際、「選択公理」がいかがわしいとの考えで、バナッハ・タルスキは「 バナッハ・タルスキの定理」を証明しました。つまり、この公理は胡散臭いものだと主張したかったからなんです。まあ、直感的にこの定理は受け入れ難いですよね。 ・科学での公理について  今までに多くの原理や自然法則なるものが発見されてきました。極論ですが、この原理や法則も仮説なんです。  せっかくポパーのパラダイム論を述べておられるので、一例を挙げさせてもらいますね。  昔「天動説」というのがありました。そして、この天動説論者からの反論として、「地球が運動しているならば、なぜ、人間は振り飛ばされずに済んでいるのか?」という問いに対して、地動説を唱える人たちは難儀しました。もちろん今なら、「慣性の法則」や「万有引力の法則」があるからと答えるでしょう。ですが、これらの法則は経験則から見い出されたものであり、厳密には証明されたものではないんです。今まで矛盾がなかった、だから今後も法則は成立し続けるであろう、といったものに過ぎない訳なんです。  で、  「うん、確かに、今日は宇宙空間に振り飛ばされなかった。では本当に明日も振り飛ばされないのか?」と問われますと、「絶対に振り飛ばされない」とは断定できないんです。というのも、これらを支えている科学法則も経験則に過ぎないんですから。  では、「明日は振り飛ばされないと誰が担保してくれるの?」と問われますと、「わかりません」、「神様に聞いてください」としか答えようがありません。  詳細はわかりませんが、その方もそういうつもりでお答えしたのかもしれません。  ・科学と宗教の共通点  少し悪い面から言及させていただきますね。例えば、2年程前「ニュートリノは光速を超える可能性がある」との疑問提起がなされました。ですが、これが一人歩きしちゃったのか、この説が”既成事実”として受け入れてしまった人たちが結構多くいました。  つまり、権威あるやんごとなきお方に言われてしまいますと、ついついその言説を思い込んでしまうということは、たまにですけどあります。何の疑問も持たずに思い込んでしまうわけなんですよね。こうなってしまいますと、科学というよりも◯△真理教とかいったものと、さほどかわらないでしょう。  そう考えますと、一種の共通点もあるのかもしれません。  また、以上から述べてきたように、 両者ともに突き詰めますと、「謎(無根拠)」に到達してしまうという点も共通かもしれません。

回答No.9

ある公理を正しいものとして裏付ける公理はあるのか……と、問いだすと結局、無限背進してしまいます。あるところで「それはそういうことにしておきましょう」という協約が働いている、というのがつまり数学的真理ではないでしょうか。 「ウィトゲンシュタインのパラドックス」においてクリプキは「68+57はなぜ125になるのか」ということを延々疑問しています。 「プラス」における現時点での正しい意味を、それが正しいものと前提しないことには、何事かを語ることさえできない。だから、プラスにはこうこうこういうルールを設けましょう、というこれは、協約されたルールだ。というのがだいだいの結論だと私は解釈しておりますが、とかく内容は込み入っておりますので一読をおすすめします。楽しい本です。 神による裏付け、というのは少々行き過ぎた考えに思えますが、比喩的意味か、あるいは方便と受け取ればあながち的外れでもないかもしれません。なんにしても、問いや疑いを退けるのに、神は都合のいいスケープゴートだと思います。

回答No.8

 こんにちは。  結婚は両性の合意にもとづき成立するとうたうのは わが憲法です。  なぜでしょう?  けっきょくのところ ひとの生まれつき持ち合わせている自由意志にもとづくということではないでしょうか。    自己表現としての思惟や行為は その人の自由意志の意志行為としておこなわれる。という基礎的な命題が持たれているものと考えられます。  すなわち この自由意志の原則は 証明のむつかしい命題であり しかもそのまま〔広義の〕公理としてみとめられている。ものと思われます。    すなわちさらに話は それはどうなっているのかと問うならば おそらく《自由》という概念にまで行き着くはずです。  では 《自由》は――端折った議論としては―― 人間の知性の行為ないしその成果としての科学によって保証されているのか? それとも ここでの話として 神によって担保されているのか? という議論になります。  ですが すでに答えの一端は 出ていました。証明のしがたい基礎的な判断を公理として用いていると。  とすれば いまの問いを言いかえれば 《そもそも世界の根拠は どこにどのようして あるか? それをわれわれ人間が知りうるか?》となるのではないでしょうか。  分かっていることは:  われわれは 経験合理性をどこまでも当てはめ追究する科学にのみ拠っているのではなく それに全面的に拠ることもない。  あるいは 仮りにもし神によっていると答えたとすれば その根拠が《いかに作用しているのか》は 神ならぬわれらにはついぞ分からないのであり そのまま中断せざるを得ない。  この二点が挙げられます。    出口は あります。考えつきます。  《意志選択ないし意志行為の自由》なる公理は さらにすすめて《無根拠にもとづく》と想定する。こうすれば よいようです。  無根拠にもどつくときわれわれは その中で科学行為にも それとして・しかるべく もとづくことが出来る。そのとき決して感性を排除してはいないでしょう。    ちなみにこの無根拠とは 神のことです。無根拠ですから 無担保・無保証です。  主観の内にのみかかわっているようです。おのおののです。十把一絡げの主観はあり得ませんから。  《無根拠とわれとの関係》なる非思考の庭をもったワタシは その無根拠にもとづき アナタと社会的な交通において 《自由に》まじわります。婚姻の自由も両性の平等も 権利も義務も 契約も黙契もみなみな ここから出ているようです。  これがわれわれ人間が生きる社会であり世界です。  この世界観は《ただしい》か? ただしいかどうかより それが ほかのどんな概念思考(つまり物言いや苦情や宗教のオシエなどなど)にも――時間的にではなく考え方の上で――先行しているということが 大事なはずです。  それでは その無根拠なる神が 間違っていたらどうするか? さらに奥にまします無根拠の神にたずねましょう。  宗教は ただのオシエであり 群れているだけであり 肩こりのひどいガミガミ屋さんです。  言ってみれば 信仰(すなわち ヒトにとって普遍的な・わが心なる非思考の庭――そしてそれは 生きた動態――)なる蝉の抜け殻でしかありません。         

回答No.7

これはかつて有名だった問いですね。 結論としては、ゲーデルの「不完全性定理」を学んで下さい。 大事な事は、質問にある「正しい」という言明が意味するところが、 「論理的に破綻していない」と「現実を正確に説明している」という 2つの意味を持たされている、という事です。 そして通常は、上記の2つは両立すると考えられており、それに 依拠して「正しい」という言葉が成立しているのです。 ところが不完全性定理によって、「論理的に破綻していない= 公理系の完全性」と「現実を正確に説明している=無矛盾性」は 両立しない事が明らかとなったのです。 公理系は、その内では証明できない公理の介入(=不完全性) によってのみ無矛盾であり得る、という事です。 たとえば幾何学において、ユークリッド幾何学の証明において、 平行線定理は必須ですが、平行線定理自身は、その公理系の 中では証明できず、「直線の外の1点を通って交わらない直線は 1本だけ引ける」という平行線定理を、「~たくさん引ける」とか 「~1本も引けない」に換えても、矛盾のない公理系が構成でき、 非ユークリッド幾何学という豊かな学問分野が生まれたばかりか、 現実は非ユークリッド幾何学的である事が明らかとなったのです。 「公理系の完全性=心=哲学」と「無矛盾性(Aと非Aを同時に 導かない)=存在の有限性=物理」は相補的=表裏一体であり、 両立せず、認識の不完全性(階層現象表面的定性化=仮説的 にいい加減に(経験的に)捉える事)においてのみ、環境の認識 (心と存在)は可能になっているのです。

noname#195146
noname#195146
回答No.6

 どうも、勘違いされておられる宗教家のようです。  数学では公理、自然科学では原理と言うことが多いですが、用語は公理で統一しておきましょうか。  公理は「証明なしに理論の基礎として受け入れるもの」ということです。それ以上でも、それ以下でもありません。  数学や自然科学は、人間の思考の中だけに存在します。少し極端な言い方をすれば、現実の事物とは無関係なんですね。  このことを、M世界とR世界と区別したりします。M世界のMはModel(モデル)とMath.(数学)のことです。R世界のRはReal(現実)のことです。  たとえば、りんごが三つあるとして、りんごのに1とか3とかの数が内在しているわけではありません(ついでに言えば、『りんご』という名称も内在していない)。そこへ、りんごを二つ持ってきたとして、2+3=5個のりんごですが、足算というものは現実(R世界)のどこにも内在していません。全て、そう考えている人間の頭の中(M世界)だけにあります。  M世界の意義は、人間が現実に対処するため、現実を自分なりに理解し、「こうすれば、こうなるはず」といった予測ができることになります(理論的予想)。やってみた結果(実験や観測など)を眺めて、またM世界に変換してみて(理論的検証など)、その正しさを確かめたり、相違があればM世界の間違いを正したりしていきます。  それが自然科学であったり、その基礎となる数学であったりするわけです。特に数学では、数学が数学だけで完結するような努力が続けられています。最低限必要な公理を作って、それで数学が完全で無矛盾なものにしようとしたことがありました。どうしても正しいと思わざるを得ないことだけを採用してみたり(直観主義)、人工的でよいから最低限必要な公理を選んでみようとしたり(ヒルベルトの公理主義)しました。それは、有名なゲーデルの不完全定理により、無理だと分かりました。  ただ、それは「今ある数学ではできない」と証明されただけとも言えます。全く新しい数学が出てこないという保証はありません。今ある公理が、もっと別の公理で証明できてしまう可能性も捨てきれません。ただ、それは想像することすら困難なほどの大事業ではあるでしょう(その辺りは、数学基礎論を少し覗き見するだけで実感できたりする)。  それは自然科学における原理でも同じです。数学に比べれば、もっと容易く打破できそうですが、やはり長年の積み重ねを突破したり覆すのは非常に困難です。それでも常に、「まだまだ賢さや調べ物が足りないだけ」という可能性は残ります。  人間は全知全能ではないですからね。もっと賢くて上手なやり方ができるかもしれない。  それらは全てM世界の出来事です。M世界は人間の頭の中から出発して、人間の頭の中だけに留まります。神は人間の頭の中だけで生み出され、人間の頭の中から一歩も出られない存在なんでしょうか。そんなことはないと思うのですが。 P.S.  ちなみに、M世界をR世界へ拡張できる、あるいはM世界が実在すると考えてしまうことを、ピグマリオン症候群と呼んだりします。ピグマリオンはギリシャ神話に出てくる人物で、自分の作った女性の彫像に本気で恋してしまうという話の主人公です。  その神話では女性の彫像を神が本当の人間にしてハッピーエンドですが、現実にはそんなことは起こりません。ピグマリオン症候群になってしまうと、まず間違いなく伸びが止まります。

回答No.5

(1)こういう考え方って、現在の哲学や神学では結構ありふれているのでしょうか?   ものごとは正しくもなければ間違ってもいない。正しくもあり、間違ってもいる。 また、歴史上に同じような考え方をしていた思想家はいるでしょうか?  いるんじゃないの。どう考えてもいい。 「公理」や「定理」という考え方をしていた哲学者というとスピノザが思い浮かびますが、彼は公理の正しさについては何も言及していなかったと思います。  そういうもんだから。 (2)科学には反証可能性があり、宗教にはそれがない点で、両者は全くの別物だと思います。 しかし、上記の主張を受け入れると、「科学は神に従属している → 科学もまた宗教ではないか」とという結論になる気がします。もし上記の主張が正しければ、本当にそういう結論になるのでしょうか?  どちらにもなる。科学も宗教となるし、宗教も科学になる。  

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.4

自然には、すでに法則性がありますよね。 たとえば地球上では重力があることが前提で、建物が建てられたりしますよね。 その前提の部分が公理になると思います。 公理という言葉は、数学以外でも使われたりしますが そこで使われる公理は「まずは前提としてこれがあるよね」でスタートします。 それは人が意図して作ったものではないから、自然から得たもの つまりは、神を信じている人にとっては神から与えられたものだと考えるのだと思います。 アインシュタインの言葉に 「宗教なくして科学は不具であり、科学なくして宗教は盲目です」というのがあります。 熱心な信者だったのかは分かりませんが、人も自然から生まれて人の心も自然から発生している。 それを無視した科学は不具だと言えるでしょうし、宗教もまた自然を解析した科学を無視すれば 現実を見ない妄想であり盲目といえるのではないでしょうか。 科学≦宗教ではなく、どちらも切り離して考えることはできない。 ただそれだけのことのように思えます。 哲学と思想は繋がっているし、哲学と数学・哲学と物理も繋がっています。 人間が適当なところで意図的に切り離して掘り下げるやり方をやっていますが すべては繋がっているから、特別なことではないと思いますよ。

  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.3

>「科学は、公理の上に定理を積み重ねることはできても、公理がなぜ正しいのかは証明することはできない。 公理がなぜ正しいのか。それは神様から与えられたものだからである」 これは根本的に間違っています。公理は正しいとすることが不可能な命題なのです。簡単にいえば、じゃんけんでグーがチョキより強い、という決まり事です。これは神様から与えられたものではなく、単なる、ゲーム上(もしくは体系上の)の決まり事、約束事なのです。(とうとうパソコンが現役棋士を負かしちゃいましたね) #1さんの言うように、基本的にユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学を理解するといいでしょう。

noname#180711
noname#180711
回答No.2

 公理のことはさておき、あなた・・・新興宗教に嵌りかけていますよ。素人では容易に答えられない問いを考えさせて、ドツボにはめるのが手口なのでしょう。公理のことについて答えるより、あなたが傍目からどう見えるのかを指摘した方が良心的と思いました。