自然科学の方法について
自然科学の方法について気になる点があります。たぶん、初歩的な疑問なのだと思うのですが、論理的思考や科学的思考にそれほど強いわけではないので、どなたかご教示頂けるとありがたいです。
ある人(A)が事象(B)---B1, B2, B3を観察して、B群が現象として生じる原因を帰納法的に究明し、それに基づいて仮説(C)を立てたとします。仮説(C)が妥当なものであることを確認するために、仮説(C)から事象Bを演繹的に説明できれば良いはずだと考えます。でも、仮説(C)から、観察の際に取り上げたB1, B2, B3を説明できても、論理が循環するだけなので、これでは説明したことにはなりません。
だとすれば、事象(B)のうち、最初の観察の際に取り上げられなかったサンプル(例えばB4, B5, B6,------)を選んで、仮説(C)から説明可能であれば、仮説(C)が妥当なものであることを確認できたことになるはずです。
ところが、この時、B4が説明主体である人(A)と関わることであった場合、例えば、心理学的な事象や社会学的な事象だったり、あるいは医学的な事象や、生物学的な事象であったとします。その場合、その事象が(A)の身にも起きることがありえます。
そうなると、仮説(C)を立てた(A)が(A)と関係する事象B4を説明しようとすることになります。その場合、論理循環に陥っていると考えてよいのでしょうか?つまり、証明はなされないということでしょうか?
事象B4が宇宙の生成や遺伝子の構造といったことであっても、(A)と関わりを持ちます。この場合も、やはり循環論法になるのでしょうか?
そもそも、(A)と関わりを持たないような事象がありうるのかということですが、例えば、惑星の公転周期とか鉱物の組成といったことでも、(A)はそうした事象を観察する主体でもあるので、事象B4に関わりを持つことになります。ここでも、論理循環が起きているのでしょうか?
一般に、仮説を立てる(A)が仮説(C)から演繹される対象B4と全く関係を持たないようなあり方をすることは不可能だと思えてなりませんが、どうなのでしょうか?
それとも、<観察-帰納法的原因究明-仮説提出-演繹的説明>の一連の流れにの外に主体(A)をおいて、(その場合、説明主体が2個所に存在することになりますが)そこから、説明を行わせることが可能なのでしょうか?
少し、こんがらがってきています。よろしくお願いします。
補足
補足の返事遅くなって申し訳ありません。 どんな本で調べればいいのかわからなかったのと、これらに関するページがみつからなかったので、この場で質問させていただきました。これらに関する何か良い資料、本、ホームページ等知っていましたら、教えていただきたいと思います。