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これは倫理的に間違っていますか?

Aさんは歌手になりたい為に大学には進学せず 東京で歌手活動をすることを決めました。 しかしAの親は「親に心配かけないでくれ!」と泣きながらそれを反対しています。   この場合Aさんのとった行為は倫理的に間違っているでしょうか? 確かに ・他人に迷惑をかけている ・自分の幸福の為に相手の幸福を損なっている この点からしてAさんは倫理的に間違っているのかもしれません

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  • kotaro-h
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回答No.16

倫理とは、また大仰だなと思いました。 いきものがかりみたいに東京の大学に行ってから やっぱり音楽をやりたいと言う一念を通したら良いのではないですか。 行ける大学のレベルと歌手の才能は、必ずしも関連するとは思いませんが 何事にも秀でる人ならば、さりげなく高学歴で、別分野でも成功すると思います。 親が泣いて止めるというのに、作文がかったシーンを想像してしまうのですが、 哲学的に解決するのなら、「止揚」という方法もあるでしょうに。 ただ、個人的な意見をいわせてもらうと、一流大学に行くことと 歌手になることは、目的性に相違があるように思えます。 最近、高学歴なタレントが、結構おられますが、必然性が無いならば最初から 芸の道にいった方が良いのかもしれません。 受験戦争で、涙を飲む人のことを考えてです。 ただし、最近はかなり大学がカンパニー化して来ています。 そうすると、哲学から離れてしまうのですが、最初に戻ってそれで、上手く行くと ウインーウインの関係になると思われます。 こうなると、親も泣かないでしょうし、倫理的に誰も「路」から外れておりません。 これはなにわ的な「商い」の発想です(笑)。 三方一両損か得か。 まあるく解決しましょうよ。  Aさんもっと勉強しろ!

その他の回答 (15)

回答No.5

親の方が間違っているでしょう。Aさんの職業選択の自由を束縛している。 もう、応援するしかありません。がんばれAさん。 親の身勝手な心配は子供にとって逆に迷惑というものです。 歌手になりたいことのどこが心配なんでしょうか。 立派な歌手になるための応援をしたらいいのに。

noname#182794
noname#182794
回答No.4

私は、法哲学は分からないので、メタ倫理で回答させていただきます。 まづ、国は家庭の集まりである。 それは、略奪以外の方法で、継続的に、国の利益を守るためである。 家族は、信頼関係によって、家族であることを、継続的に契約している。 それは、国が国民を管理するにあたって、家族単位での簡潔な分類法を 可能にした。 ヒエラルヒーの構造としては、こんな感じでしょうか。 そして命題です。 1.他人(家族)に迷惑をかけている。 ◆これは、まちがいです。物質的損害がなく、能動的ではないからです。 むしろ、親の行動には人権の尊重がみられません。 2.自分の幸福のために、相手の幸福を損なっている。 ◆これは、是とも否とも言い難い。家族には、信頼関係の継続的な契約が ありますが、例題の場合、親が子を信頼していない状況がみえます。 しかしながら、この状況では、子が親の気持ちに共感していないともいえ ます。家族としての信頼関係を継続するには、気持ちの共感が、必要です。 さらに付け加えるならば、禍福は、それぞれの立場、時間上において、 相対的な一面をもっています。その意味でも、時間を待たずに結論を出す ことは避けたいものです。 いちおう保険として、「塞翁が馬」と付け加えておきます。

回答No.3

ehrthrthtyhjさんこんばんは。  間違っていると思いますよ。理由はあなたが掲げたのような客観的なものではないですが。Aさんの主観の中に、泣いている親の姿があるはずですね。Aさんはそれにまったく反応していない。外から見る限りはですよ。  ぼくが思うには、ちゃんと勉強したわけではないですが、倫理とは、第一に、自分の心に生じたものに対して、人としてどう反応するのか、です。Aさんの主観の中に自分が歌手になりたい気持ちは見えています。そしてそれを実現しようと反応しています。これはこれでいいでしょう。  しかし泣いている親の姿は、そこにあるはずのに、見えていない、反応しようとしない。無視している。倫理とは、第二に、この違いが、理にかなっているのかどうか、です。  心理的なことも分かっていっているわけではないですが、人間というのは自分の欲求は拡大して心に表して、他者への同情とか共感というのはできるだけ小さく表すようにできていると思うんです。これは生存本能として。自分の生存の欲求を小さく表して、敵対するものへの同情を大きくすると食われてしますますから。  そういう心理的なバイアスがかかったまま親を見ている。親はAさんを、とって食おうとしているわけではないのですから、逆バイアスをかけなきゃならんところです。

  • TANUHACHI
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回答No.2

 こんばんは、中々に興味のある質問ですので、僕も渦中に加えていただければと存じます。 さてご質問文にある「倫理」を別の言葉で置き換えるならば、どの様な言葉を想起できるでしょう。その中の一つとして「道徳」もあると考えるならば、話はここから始まります。  「道徳」も時代や地域などの幾つかの要件によって、その内容も変わります。日本の前近代もしくは1945年以前に見られた儒教道徳もあれば、キリスト教的道徳もあります。そうした一方で「公衆道徳」などもあります。  これらは何れも「何をより根源的な原理と考えるか」や「何をより至高の価値と考えるか」によっても異なります。ですから質問者様がお持ちの道徳観からすれば、Aさんの行為は許容できないこととはなりえても、それを非難する資格などもない、との話になります。  Aさんは「自らの意思に基づいて」歌手の道を選択したのであり、またAさんはAさんの親とは別のそして独立した人格です。親の意のままに従う操り人形ではありません。  もしAさんの行為が倫理に悖るというのであれば、どの部分がそれにあたるのでしょうか。「他人に迷惑を掛ける」との部分を考えるならば、この場合の「他人」とは「親」を指すことになるでしょう。  けれども先にお話しした「親と子ども」が全くの別人格の存在であることを理解するならば、Aさんの行為が必ずしも迷惑にあたるとはいえなくもなります。  この場合の「他人」に親族を含めることが妥当でしょうか。道徳を個別の私的な部分に基づく行動規範や原理であるとするならば、十人十色の言葉が語るように人間の数だけ規範が存在することになります。となれば、Aさんの行為が倫理的であるとの考え方も非倫理的であるとの考え方も成り立つことにもなります。  そうした考え方とは別に「公共道徳」との考え方に基づくならば、Aさんの行為は「公共」に対しての迷惑行為と言えるかとの問題になります。「公共」は「社会」と同じです。社会は全く見識のない人間の集まりともいえますから、そこで共存するためには一応のルールが求められます。その一つが公共道徳つまり社会道徳であるといえます。この部分においては「相手に迷惑を掛ける」ことはそこにある規範によって処分もされます。その一つの基準が法です。  こうした論理からすれば、僕は倫理的に間違いであるとはいえないとの結論を持つこととなります。 情念と倫理は別物です。感覚的にとらえることは正当な理解に対する不当な介入ともなりかねませんので注意が必要です。

  • kanto-i
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回答No.1

>・他人に迷惑をかけている 書いてある事だけ見ると、相手は親ですよね。 他人ではないでしょう。 >・自分の幸福の為に相手の幸福を損なっている この場合の相手が親でしたら、親が子供の未来を縛ることと 親の幸福の為に子供の幸福を損なっているように感じます。 例えば、子供は親が反対するので親を殺してしまったなど危害を与えた場合、倫理に反すると思います。 子供は親の為の幸せの為の道具でもないし、親もまた子供の幸せの為の道具ではりません。 お互いがお互いを尊重でき尊厳を守りながら、話しあいの意見の交換から互いを理解していくことが よりよい結果を引き出せるのではないかと思います。 話しが折り合わず、もし私が第三者として話し合いに出ることとなった場合を想定しますと 書いてあることだけに関してですが、子供は東京の大学に進学し、そこで勉学に支障が出ない程度 夢に向かってはどうかということです。 勉強をしながらでも歌は歌えますし、コンクールやデモテープを持ち込むこともできます。 やるだけやってみて考えることで、その後は何らかの結果が出ると思います。 親子といえど、別の人格を持つ人間です。 誰かの幸せを誰かの不幸の上に作ろうとすることは、けっして互いの為になりません。 子供は授かりものですから育ててるうちはあずかっているだけで、育てばいつか手を離れていきます。 子供も羽ばたいて疲れた時、いつでも帰る故郷を持っていたら元気にやっていけるでしょう。 お互いが縛りつけないで、自分の人生を生きることができるのが一番だと思います。 倫理的考えるのは、相手に危害を加えるかどうか。 利益を損ねたとしても危害を加えたのではなく、相手が自分の利益の為に動かなかったことは 利益を求める側の依存でありましょう。 よくよく見分けてお互いを理解されると、答えは何か良い方法が見つかるものだと思います。

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