フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院
先に同著についての関連質問が存在しており甚だ恐縮ではありますが、質問内容が若干異なりますので、お伺いしたいと思います。
国家権力の最たる政治的な機構である「監獄」というモチーフをフーコーが用いた同著を、20数年ぶりに本棚から探し出し懐かしく読んでおります。
ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。
これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。
当時の修道院はhospis、hospitality、hospitalというニュアンスの本源的な存在であった、と若干ではありますが理解しております。
また、「神への信仰」という点など、近代法治国家の「監獄」とでは、まるでその存在理由や目的意図が決定的に異なります。
ですが、神の名のもとにおいて「信仰の力を用いて」ローマ教皇を頂点としたヒエラルキーの中に存在した修道院も、ある意味、フーコーの指すところの人間管理の装置であるPanopticonだったと考えることはできないでしょうか。
厳しい規律・戒律を自発的かつ強制的に自身に強いて働かせ、自らが嬉々として絶対服従を誓う担い手となる。
時に厳格な処罰の対象となり得る状況。
つまり、自分自身が監視し、監視される存在であるという人間管理という点においては、修道院長や修道僧、監獄の囚人、病院の入院患者など、いずれにおいてもほとんど大差ないように思えてならないのです。
そして個々人が相互において見えない権力によって行使せずとも縛られている、そんな状態であったと考えるのは発想がズレているのでしょうか。
『監獄の誕生』105頁にこう記してあります。
「最も確固たる帝国(つまり、人間支配)の揺るぎない基盤は、やわらかな脳繊維のうえに築かれる。」と。
何らまとまりがなくてお恥ずかしい限りではありますが、ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。
お礼
URL付きで詳しくありがとうございます! 中世をモデルに創作活動をしている友人と何かはいてるか・はいてないかでずっと悩んでいたので助かりましたm(_ _)m