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何のために他人の痛みを考えるのか?

よく「他人の痛みを考えるようにしなさい」と親に言われてきた。 だが、何のためにそれを考える必要があるのでしょうか? オスプレイ問題で、沖縄の人が怒っています。 しかし、沖縄の人の気持ちをわかってあげるわけにはいかない。 日米関係が壊れると、日本はどうなるかわからないから、 沖縄の人には辛抱してもらうよりない。 拉致問題も然り。 仮に憲法改正して日本が軍事行動をできる国になったとして、 たたったわずかな拉致被害者のため、日本が北朝鮮と戦争を するわけにはいかない。 拉致被害者の人には辛抱してもらうよりない。 要するに他人の不幸というのは、ある意味見てみぬ振りをする もので、どんな奇麗事言っても所詮は他人事である。 オスプレイが近所にきたら反対するが、他人のところならかまわない。 自分の幸せは、他人の不幸をさけてとおれない。 なぜ他人の痛みを考える必要があるのか? ただの社交辞令か?それとも、自分がいつか不幸な目に あったときに他人の情けをもらうためか? みなさん どーおもいます?

みんなの回答

noname#164977
noname#164977
回答No.12

工作員? お答えします。 県民集会は9/9に行われたもので県民集会すなわち県が主催したものと思われます。 http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/documents/taiou.pdf 知事はオスプレイに反対しておられます。 続いてこちらの映像をご覧ください。タイトルに9/9と明記があります。つまり同じ日。 http://www.youtube.com/watch?v=i2ckFiOOs3M あなたがおっしゃっていた県民集会の映像が流れています。そう!日本語ぺらぺらの怪しい外人、中国人と思われる男が主催しています。動画では工作員であると説明がありますし私もそう思います。主張があまりにも怪しすぎる。 動画削除に備えてコメントをひとつ掲載します。 「本当に勇気ある行動でした。 沖縄を絶対に守るという決死の気概を感じた次第です。 へんまもチャンネルもこういう人たちもいるのだ、ということを 微力ながらお伝えしてまいりたいと思います。 今後ともよろしくお願いいたします。へんまも事務局」 「中国共産党の情報活動に反対している沖縄県民の方々、頑張れ!」 国民が散々聞いてきたオスプレイ、普天間移設、聞いたこともない安保解体が彼らの横断幕として上げられています。沖縄は独立したがっている、植民地だなどというのです。そう、チャイナの主張と沖縄の主張は一緒。県民集会はチャイナの工作員によるものであると思われます。 また、マスコミは10万と報道していましたが、実際は15000だったそうです。捻じ曲げ。 そう、あまりにふざけているので対抗横断幕を広げる人たちが非常に怒っています。 1の回答にあるように、沖縄の人は半分以上はオスプレイ配備に賛成してます。守ってくれるわけですから。 県知事は県民集会に参加しませんでした。なぜか?知りません。ただし、知事のコメントがチャイナから堂々と読み上げられています。 http://www.youtube.com/watch?v=u-LEMNH3gcM&feature=related によればオスプレイ歓迎パレードが行われています。 高評価が371,低評価が13つまり圧倒的に高評価が高い。 県政どうなってるんでしょうね?何かがおかしい。県とチャイナが癒着しているというものでは全くありませんので、更なる情報収集にて自己責任にてお願いします。

回答No.11

他人の痛みが解ると、行動も少し解る。 行動が解れば少し怒りが減って許せるようになるかもしれない。 人を許せれば冷静になれるし、自分も楽になれる。 全ては自分のためです。視野を広く持ってみて下さい。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.10

"何のためにそれを考える必要があるのでしょうか?" ↑ 1, 他人の痛みを考える、というのは非常に高度な 知的作業なのです。 これを繰り返すことにより、脳の発達が促される のです。 動物にはこれが出来ません。 また、外国人もこれが苦手です。 何気なくこれをやってしまう日本人というのは たいした者だ、と指摘する学者もいます。 2, 社会や国家が維持される為には秩序が必要です。 欧米キリスト教文化圏では、宗教的モラルが その秩序の軸になっています。 しかし、日本にはそのような軸はありません。 その代わりに、他人の痛みを考える、という 軸があり、モラルがあります。 私には中国人の知人が多いのですが、彼らはこれが 苦手です。 だから、公共の場でも大声を出すし、痰を吐いたり はたまた犯罪を侵したりします。 先日上海の地下鉄に乗りましたが、いやウルサイこと ウルサイこと。 人の苦痛などお構いなしでした。

  • foosun
  • ベストアンサー率12% (13/104)
回答No.9

それは「人間Lv1」の人の考え方ですね。 「人間Lv2」の人はそういう風には考えません。 「人間Lv2」の人生の方が、「人間Lv1」の人生より何倍も色彩豊でしょう。 「人間Lv1」の人は、死ぬまでほとんど頭を使いません。頭を使ったとしても自分の金儲けの時くらい。これでは寂しい人生でしょう。そもそも、他人の気持ちを推し量れない人がお金をたくさん儲けるのも無理です。 「人間Lv1」の人は、当然人から感謝される事もほとんどないでしょう。感謝されても上っ面だけです。 「人間Lv1」=電車の中で偉そうにしかめっ面してるおっさんとか。(今は大丈夫でも、年を取るとしかめっ面になっていきます。後が無くなってくるから。)人生において何も達成していない自分を正当化するために、「人間って所詮自己中だし!」と理論武装している。 「人間Lv2」=自分のできる範囲(←ここ大事)で、社会の事を考えている。 「人間Lv2」だって、聖人君子ではありません。要は、「人間Lv1」ってつまらない人間なんですよ。だって、社会に意識が向いてない人の話のどこが楽しいの?飲み会で何話すの?あなたの個人的な趣味の話とか誰も興味ないよ?他人に気を使えないってことはリップサービスも全然出来ないだろうし。 もう一度言います。自己中に暮らすのはあなたの自由ですが、それだと確実につまらない人間になります。しかめっ面してるおっさんになります。 私はそんな人生まっぴら!

回答No.8

痛みを感じるのは脳ですが、ではなぜ脳は、実際に傷を 受けた手足の痛みを感じなければならないのでしょうか? それは、体全体で1つの生命をなしているからであり、 「脳が全身に命令をしている」からといって、手足の健全 な状態を損なうような独善的な判断をすれば、結局自分 が困るからです。 そして今や、人類は社会的生命であり、我々の着ている 服も、食べている物も、世界中の人の労働によっている (分業化=助け合い)以上、そうした世界の平和で健全な 営為を損なう事は、自己の生命のダメージとして感じられ るのが本質的なのです。 「所せんは他人事」と言っても、その『他人』とはあなたの 生存を支える体の一部なのですから。

noname#163423
noname#163423
回答No.7

書き忘れ。 オスプレイ問題に関しては、私は立場を決められずにいる。 放置するしかない。 助けたい気持ちはある。 うちの県にこられては困るという気持ちもある。 どちらも選べない以上、もしうちの県に作ることが決まったとしても私は抗議できない。 甘んじて受け入れるしかないと思っている。

noname#163423
noname#163423
回答No.6

同じ人間なんだから、人が苦しんでるのを見て全く理解できないことの方が少ないように思う。 選択肢は大きく分けて3つ。 『助ける』『放置』『更に苦しみを与える(オスプレイ問題なら賛成運動をするetc.)』 自分がどれを選択すべきか正しく判断するためには、願望だけじゃなく、自分を客観的に見て自分の弱さも含めて考える必要がある。 決断するには覚悟がいる。 決断するとそれ相応の責任が発生するからだ。 責任とは、社会的な責任のことだけではなくて、罪悪感や無力感なども含まれると私は思っている。 主の場合でいうと『何もできない(放置)』を選んだことによって無力感を味わっているのが正にそれで、私の考え方でいうなら、他人から批判される可能性があっても人前で自分の立場を明確にできる人は立派に責任を果たしてると言える。 しかし、冷静に間違いを指摘してくれている人に対しても逆ギレたり聞こえないフリをしてしまうなら責任を果たしているとは言えず、自分というものを過大評価している可能性が高いので、もう一度原点に戻って考え直す必要があると思う。 批判されようが悪者に見られようが、それを背負っていく覚悟があるならいいんじゃない、というのが私の考え方。 そして、罪悪感や無力感を感じるのは向上心があるからで、それをしっかり解ってさえいれば今は何もできなくてもいずれはできるようになるかもしれない・・・と思いたい(笑) 又、奇麗事を言って済ます人やネットetc.で「特定されないから」と嫌がらせをする人は、責任のことなんてはなから考えていない無責任で精神的に未熟な人たち。 自分の弱さを認めることができないから何か壁にぶち当たると全て他人のせいにしたり、なかったことにしようとする特徴がある。 この人たちは最初から選択することを放棄しているので除外。 という考えを踏まえて、、、 >何のために他人の痛みを考えるのか? 自分の弱さを直視して更に成長していくため、というのが私の見解。

  • mstk2
  • ベストアンサー率26% (157/588)
回答No.5

本音トークで行きます。 「どんな奇麗事言っても所詮は他人事である」。これは正しい。しかし、そういう態度があなたの言動のはしばしに出てしまうと、それは長期的に貴方を不幸にします。なぜなら人が離れていくからです。「他人の不幸は自分の幸せ」ということをあからさまに口にする人間と仲よくしたいですか? したくないでしょう。うかつに近づくとひどい目に遭うに決まってるからです。 >何のために他人の痛みを考えるのか? あなた自身の幸せのためです。 「他人の不幸はみてみぬふりする」というようなことを常ひごろ口に出して言っていると、あなたは誰ひとり友人のいない、寂しい人になってしまうからです。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.4

救うにしろ打ち倒すにしろ、相手の痛みや欲望を理解できなければ上手くいかない ということを、子供に教えるわけにはいかないので 「他人の痛みを考えるようにしなさい」と言うわけです。 もちろん、この言葉を文字通り捉え教えている人もいます。

noname#194996
noname#194996
回答No.3

>なぜ他人の痛みを考える必要があるのか? ただの社交辞令か? 違います。 >それとも、自分がいつか不幸な目に あったときに他人の情けをもらうためか? 近いけどそうでもありません。 気がつかないあいだにも人間はたいそう他人のお世話になっています。人間社会が本来そうなってうまく回っている世界なのです。そのことをしっかり理解しなければならない、ということがひとつ。その複雑な私たちの周りで、必ず一部のひとたちが私たちよりも辛い役割を与えられて苦しんでいる、でもそういう人たちも含めて私たちの社会はともかく成り立っている。そういうこともしっかり理解して、いつかはそういうことのない、完全な社会になるように、皆でつねずねできるところから努力していかなければならない。見てみぬふりをするのではなく 、少しでも改善していかねばならないという観点から、他人の痛みを知らねばならないということだと私は思います。これは理想主義ではないです。