登記というか、領有権という面から多面的に見ても日本固有の領土なんでしょうね。
そもそも誰が一番初めに国際法的に領有権を主張したのか?については、日本です。ただ当時から問題になりそうな微妙な判断が要求されていたのでしょう。ですから日本政府も段階的かつ慎重に領有権を主張し始めます。
事の発端は歴史の教科書に出てくる「廃藩置県」にはじまります。明治12年(1879年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県としましす。そして琉球藩の支配実態が沖縄本島を中心とした群島とよばれる個々の島の管理をも行っていたため(琉球は大陸との交易のため、荒天時などにおいて、緊急避難場所などにも同諸島を利用していたでしょう)どのあたりの島までを範囲に入れるのか?については当時から検討がなされていました。その結果として政府は明治18年から数年にわたり同諸島の実態把握を開始します。
その結果が明治28年(1895年)1月14日の閣議決定ですよね。尖閣諸島を沖縄県の所轄として、標杭をたてます。このような領土領有の在り方は「先占」とよばれ、国際法上も認められるべきものなのです。
そしてここが一番の重要ポイントです。明治28年つまり標杭を立てる同年、日清戦争の結果として下関条約が締結されるんです。発効されるのが5月ですから、日本の言分は下関条約にて割譲された「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」の中に尖閣諸島は含まれていない。いわんや下関条約に関係なく日本の領土であった。ただ中国の立場にしてみたら下関条約時点で奪われた。という理解なんですね。
お互いの国同士が国益のため鋭く対立する箇所が、まさに下関条約における尖閣諸島の帰属範囲によるんです。
両国が国益のために同諸島の領有権を主張するのは当たり前の話なので、次にそのような領土問題に対して他国はどのように対応したのか?
よく話題に上るのが戦後のGHQ支配下でのアメリカも、琉球列島米国民政府、琉球政府等の管轄区域を緯度、経度で示し、当該諸島の範囲を明確化し、同諸島ををも含めて日本帰属の領土と認識していたと考えられる部分ですよね。
以上の経過を見れば、尖閣諸島は日本の明治近代化の過程で論議の俎上に上り、どの国にも属さない地域であることが確認された上で、自国の領土とする「先占」により世界の中での帰属が確認されており、そのような実態は、アメリカの一時的な支配の中にあっても、国際法的な社会通念であると考えられたからこそ、アメリカも占領統治をおこなう範囲に尖閣諸島も加えているんです。ようは日清戦争以前から持ちえた日本固有の領土であるということですね。
正直、GHQの占領政策以前にも、中国政府が領有権を主張する場面は何度もありました。少なくとも明治18年~28年の間には問題に上る事がなかったんですよね。そして本来、中国政府が異論をはさむのであればアメリカ統治時代が最後のチャンスだったはずなんです。
彼らの論方である軍事的に肥大する帝国日本により、不当に領有権が制限されたというならば、なぜ領土占有の埒外にあるアメリカ占領時代にそのことを訴えなかったのか?そして「不当に制限された」といった理解についても、下関条約における台湾の割譲は両国政府同士の取り決めであったはずです。その時点で日本政府は尖閣諸島に対して、台湾とは切り離した固有の領土である認識があることに対して、なぜ訴えなかったのか?下関条約時点では立場が弱かったからというならば、中国も戦勝国として名を連ねた、アメリカによる占領統治下時点というチャンスはあったんです。
なぜこのように日本が領有権を主張しうる状況がそろってしまったのか?答えは一つです。日本の先占が行われるぐらいで、中国政府には自国領土といった認識もなければ、争うつもりもなかったからです。
そして昭和40年代あたりから騒ぎ始めた理由は、地下資源の存在はもとより、昭和50年代あたりから論議されてきたEEZ(排他的経済水域)の認識の基本に大陸棚がありますから。
だからといって「下関条約時点は何か変だった」といった自己中心的な国家観をもとに、領有権を主張するなどは、国際社会のなかにあっては、もはや問題とされない程度の幼稚な外交手段ですよね。
むしろ中国国民に言いたいのは、領有権を主張する日本を恨むのではなく、自国領土としてその時々の折に触れ主張をしてこなかった、かつての中国為政者たちを問題にするべきなんです。
ホント、この問題における中国政府および人民のポイントって全てがずれてます…
お礼
やはり徹底的に争う姿勢が重要ですね。 中国は戦争を望んでいることですし、尖閣諸島で徹底的に日中の軍隊がやるしか決着できそうにないですね。