• 締切済み

漢字の読みについて

 「打」という漢字の読み方に関する質問です。 この文字は一般に「だ」「う・つ」と読みますが、一方に「打擲」「大三鞠打」それぞれ「ちょうちゃく」「おおさぎちょう」などの特殊な読み方があることも事実です。先日も『お湯殿の上の日記』を読んでいましたところ、このような文字表記に出会いました。  さてここで質問を立てさせていただきたいと存じます。「なぜこの文字を“ちょう”と読むのか」との疑問です。そして「それが何時頃かのことであるのか」「それは何に起因するのか」の問題に出典ならびに根拠をお示しの上でご教授願えれば幸甚です。この根拠は学術的にしっかりとした裏付けのあるものに限定させていたたぎます。

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  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.7

#5です。なにがしかご参考になれば幸いです。 むしろ、当惑したことは、1)呉音「チャウ」の奈良期以降の用例に室町期までかなりのブランクがあるのか、2)その間を埋めるはずの漢音「テイ」は殆んどその記載が見当たらない、3)唐宋音は清音の「タ/タア」ではないか──つまり、「打」という漢字は、きわめて早い頃から「うつ/ぶつ」という日本語化したもので、それにともない漢字読みの方も「ダ」という日本風の慣用音に早々と置き換わっていたのではなかろうかという可能性です。 (打頭(テイトウ)と読んで台湾での魚の名、とある程度しか見つかりませんでした。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126477 ) このことは、「打(ちゃう)ず」についてもしかりです。 「古語大辞典」の当該箇所の「語誌」によれば、「調(てう)ず」を「打(ちゃう)ず」懲(ちょう)ず」、さらには「嘲(てう)ず」などと混同しているが、妥当ではない。信頼できる古写本にいずれも「てう」とあって「ちゃう」「ちょう」などとはないから、「調(てう)」と見るべきである」と断じています。 「竹取物語」といってもその伝本では「古本」系統でも室町中期以降、「通行本」系統では戦国以降であり、「宇治拾遺」にしても鎌倉初期で道元の時代です。 漠然とした推測でしかありませんが、「打(ちゃう)ず」はいち早く「うつ/ぶつ」という国語化を遂げ、漢語の名残りの方は「調(てう)ず」や「懲(ちょう)ず」という行儀・体罰に特化していったのではないでしょうか。 呉音であれば「チョウ・ジャク」となるであろうところを、鎌倉期に宋国帰りの道元は、濁音の無い「チョウ・チャク」と呼びならわしているようで、実は打擲という言葉はここにおいて幾百年の空白期を隔てて甦ったのではないでしょうか。 (「仏に代りて化儀(けぎ)を揚(あ)ぐる式」として「竹箆打擲等(しっぺい・ちょうちゃく・とう)の事を行(ぎょう)ず」(『正法眼蔵随聞記』2-9)) このような、鎌倉期の禅宗仏教や室町期の作法御三家(小笠原・伊勢・吉良)のように行儀作法・躾けに細かい流れにおいて、新たな意味で「打擲」という言葉が普及したのではないでしょうか。 折檻(セッカン)、膺懲(ヨウチョウ)、懲戒(チョウカイ)、懲濯(チョウタク)など。 たとえば「丹下氏は男衆を折檻(ぎょうぎ)した。」(井伏鱒二「丹下氏邸」)とあるように、ついこの前まで、人の道を外した「横道(オウドウ)者」を、飼い主が「打(ぶ)ち打擲」や「打(ぶ)ち折檻」していた時代があったのですが、一部の方言を除いてはもはや失われた語彙ということでしょう。 >尚一つ疑問がわきましたが、「手水」の発音はいつ頃から発生したものでしょうか。 「て-うづ【手水】《「てみづ」のウ音便》」(「古語大辞典」小学館) てみづ→(ていづ)→てうづ→ちょうづと、唇音の子音[m]が脱落し、残された「い」が「う」に転音した表現は、「落窪」「源氏」に現れていますから、中央である京においては、少なくとも平安中期にはいわゆるウ音便化していたと思えます。 「くさ-うづ【臭水・草生水】《「くさみづ」の転》」(「古語大辞典」小学館) 「日本書紀」の記載では越国での「燃水」であって、こちらの江戸期の貝原益軒「大和本草」などの出典での「草水(くさみづ)」由来としては、転音の上で「臭」へと漢字も転換したということでしょうか。 >古文書や史料は「表記された文字」を読みますが、その時に参考となるのは「宛て字」です。 「さぎちょう」の例もそうですが、それぞれが勝手に漢字を振ってしまう──漱石流に言えば自在にでしょうが、しかも、実はそこに重要な根拠が籠められているケースも多く、決して侮れません。古語や方言においてもしかりです。 新潟言葉で「だりこっぺ」「だるこっぱい」というフランス語もどきの言い方も、「乱離骨灰(らりこっぱい)」に由来すると野坂昭如が記していますが、これも「羅利粉灰(らりこっぱい)」とも表わされもします。 打擲(ちょうちゃく)も、新潟弁では体罰・お仕置きから乱暴の意味で「ちょうたく」と変転しているようですし。 http://www.nihonjiten.com/kokugo/3/37118.html 「ちょうちょうはっし」にしても、MS-IMEでは「丁々発止」「打打発止」「打打発矢」など様々な変換が出てきます。 擬態語や畳語などといえども、そもそもは漢字表現だったという経緯では、その都度驚かされています。 委蛇(上古はアダ:くねくねとしたさま)→婀娜(アダ)。 嫡(呉音チャク、漢音テキ、訛ってチャキ:直系の子孫)→ちゃきちゃきの江戸っ子。 怪態(呉音ケタイ:奇妙なざま)→ケッタイな(関西弁) 漢字の副詞も平安初期と中世以降では訓読が大きく変わっています。 太(いと)→(はなはだ) 果(ついに)→(はたして) 単(ひとへに)→(たんに) 一(もはら)→(いつに) 都(ことごとく)→(すべて) 転(いよいよ)→(うたた) (参考:藤堂明保「漢語と日本語」) >言葉の海を泳ぐことはまことに楽しくもあり長い旅路でもあると思えます(それには時としてつらいものもあることは確かです)。 真に以て仰せの通りです。一喘一休されどなお進一歩をば、というところでしょうか。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.6

  #2です。補足です。    丁重なお言葉、恐縮です。TANUHACHI さんの豊かなご見識には日頃から有り難くいろいろ勉強させていただいています。     「打」については、中国上古音の再構成に *teng と *tieng の二種があり、その後者が、日本の歴史的仮名遣いの「ちゃう」になるのでは、と申し上げました。     藤堂明保『漢字語源辞典』(学灯社昭45)のp。469には、やはり二種の再構音が出ています。狭い母音の方(後者)は、手偏に童の「つく」から派生した字、とあり、開いた母音の方(前者)には、     「元の中原音韻には[ta]という音があてられている。江南方言では、韻尾がうすれて、[ta に小さなn]となっているから、宋ごろの江南語が北方語に介入したものかもしれない」    とありますので、「打」を「だ」と読むのは、違う方言からの介入によるもので、「ちゃう」>「ちょう」と読む方が本流、といえるかもしれません。

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.5

「チョーチャク 打擲(ちゃうちゃく) 打ちたたくこと。なぐること。出曜経「便遇悪人打擲」。法華経・警喩品類「為諸童子之所打擲、受諸苦痛」。」(「大辭典」平凡社) このように「出曜経」や「法華経」の文中に記載があるとすれば、少なくとも天平期には遡れるものでしょう。 http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/e848d7acf8da319b9bb04d223dfdc3cb 一方、「竹取物語」に出てくる「打(ちゃう)ず」について、 「くらもちの皇子血の流るるまでに打(ちゃう)ぜさせ給ふ」(類従本) 「ちのなかるまでちゃう(打)せさせ給ふ」(尊経閣本) ただし、通行本第一類では「車持皇子、血の流るるまで調ぜさせ給ふ」(加藤本)と、「調(てう)ず」の「こらしめる/懲罰を与える」の方が使われています。 加えて「見るに打(ちゃう)ぜん事いとほしく覚えければ」(「宇治拾遺」九‐六)といった例もあるようです。 ただし、「調(てう)ず」だけでなく、この側面では「北の方の懲(ちょう)ぜしさまも…」(落窪・三)の「懲(ちょう)ず」との類似も含めて無視はできないでしょう。 この他でも、僧侶が小さな鉦を打つことから、江戸期には武士の刀鍔や小刀、女子の鏡合わせなどで遣われる「金打(きんちゃう)」や、寺で時鳴を告げる雲板をいう「打板/長板/打版(ちゃうはん)」はまた、そのデザインを用いた紋所としても呼ばれています。 「三鞠打」については本来の玉会の打毬楽(だきうらく)と「毬杖」の混合した、次のような音便説を取りたいと思います。 「毬打 ぎっちょう 毬杖とも書く。「ぎっちょう」は、このきゅうじょう(毬杖)」の音便。古くより行われた打毬(だきゅう)の遊戯であるが、徳川時代には、槌の如き杖に五色の糸をまといつけ、木製の毬を打って遊ぶようになった。」 「三毬打 さぎちょう 左義長・三木張・散鬼杖とも書く。古、正月十五日前後に宮中で行われた行事。」 (引用:「難訓辞典」東京堂出版)

TANUHACHI
質問者

お礼

 仏典から仏具そして古典の言葉と日本国内の時系列をコンパクトに紹介していただきありがとうございました。  Kine-one様は有職故実にお詳しい方と存じます。当方は古文書などの史料的分野や社会構造理論には少しばかりの知識を持ち合わせているものの隣接分野にはまだまだ未熟な部分も多く、冷や汗タラタラの日々を送っています。今後とも良きご教示のほどをお願い申し上げます。  尚一つ疑問がわきましたが、「手水」の発音はいつ頃から発生したものでしょうか。古文書や史料は「表記された文字」を読みますが、その時に参考となるのは「宛て字」です。当時の階層で文字を正確に記すことのできた部分は限定されていますので、それ以外の階層に属するとなれば必然的に「耳から聴いた音」を「知っている文字で記す」ケースが多々見られます。仮に「てうず」と発音されていたなら、この「うず」は他の「くさうず(臭水)」との共通性を認めることもできます。  事例に示していただいた「散鬼杖」の文字からは「儀式としての意味」を受け取ることも出来ます。儀式としてのサギチョウは現在のどんど焼きのルーツとして知られていますので、こうした文字を宛てる意味を理解することもできます。  言葉の海を泳ぐことはまことに楽しくもあり長い旅路でもあると思えます(それには時としてつらいものもあることは確かです)。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.4

    #2です。訂正です。     董同和(龠禾)『上古音韵表稿』の p。181に ieng というもう一つの再構音が出ています。要するに「打」には中国音で、すでに*teng と *tieng の2種があったことになります。この後者が日本語に輸入されると「ちやう」になります。     先日書き込んだ際に、『日葡辞書』では「オ段の開」になっていたので、どうして口蓋化が起こったのだろう、おかしいな、と思っていましたが、これで氷解しました。    「打」の進みを纏めますと 1。  中国上古音の再構音では *tieng 2。  日本には「ちやう」と輸入、発音はおそらく tiaŋ 3。  日本での仮名読みで、発音はおそらく tiau (平安時代) 4。  破擦音化で、  tsiau (17世紀以前) 5。  口蓋化で、tʃiau (17世紀以前) 6。  あ + う = オ段の長い開音  tʃɔː (17世紀前) 7。  オ段開合の別の消滅  tʃo: (江戸時代) 8。  現代仮名遣いの制定 > 「ちょう」 1940年代     となると思います。お詫びして訂正します。

回答No.3

先の回答者さんの示されたURLに書かれてあることがすべてだと思いますが。 漢字の音読みには呉音と漢音と唐音の三種類があります。更に言えば、日本人が読みやすいように変化させた「慣用読み」というものがあります。 「打」については「だ」という音が「慣用読み」であり、「ちょう」が呉音、「た」が唐音です。 「擲」については「ちゃく」が「慣用読み」であり、「じゃく(ぢゃく)」が呉音、「てき」が漢音です。 「打擲」は「ちょう」という呉音と「ちゃく」という「慣用読み」の組み合わせで成り立っていて、それは「昔からそのように読み慣わされてきた」としか言いようがありません。 「いつ頃からそう読むのか」ということですが、これも先のURLに書かれていることですが、漢字の読み方は、呉音→漢音→唐音の順番で日本に伝わっています。 つまり、「打」を「ちょう」と読むことはかなり古い時代の読み方ということになります。 「擲」を「ちょう」という「慣用読み」にした理由が何なのか、いつの時代からなのかについては分かりませんが呉音「ぢゃく」の濁点が取れた形(言いやすいように変化した)と見るのが妥当ではないかと思うので、こちらもやはり古い読み方である呉音に依拠した読み方と言えるのではないでしょうか。 ということで、「ちょうちゃく」は、「呉音」という古い時代の読み方のまま定着しただけということだと思います。 「老若男女」が何故「ろうじゃくだんじょ」ではなく「ろうにゃくなんにょ」と呉音で読むのか説明せよと言われても、「そう読むのが昔からの慣用だから」と言うしかないんじゃないでしょうか。 あえて理由を考えるならば、呉音は仏教用語として残るものが多く、「男女」を「なんにょ」と読んだりするのも仏典では普通です。「打擲」も仏教辞典に「ちょうちゃく」で載っていますから、もともと仏教関係の語として伝わり、その読みがそのまま定着したというところではないでしょうか。 ちなみに、「音読み(呉音)」で読んでいる以上、「漢語」であり「やまとことば」とは言えないと思います。 「さぎちょう」に関しては、「三毬杖」「三毬打」「左儀仗」「左義長」などと種々の当て字が用いられてきましたが、『広辞苑』によれば「もと、毬打(ぎっちょう)を三つ立てたからという」とありますから、やはり「打」を呉音である「ちょう」で読む習わしから来ていのだと思います。 今の日本語では、「男」を音読みにすると「だん」と読むことが多い、「打」は「だ」と読むことが多い、だから「なん」や「ちょう」が特殊な読み方と感じられるだけでしょう。 この言葉が中国から伝わった時には、「特殊な読み」でも何でもなかったのが、時代を経て別の読み方が主流になり、今の日本人には「特殊な読み」に感じられるようになったということだと思います。 以上、読み返すと先の回答者さんの添付URLに書かれていることを、言葉を換えて言っただけになってしまったようですが、参考になりましたら。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

    僕のは「学術的にしっかりと裏付けのあるもの」か、まことに怪しいのですが、、、 1。中国での上古音    董同和(=正しくは左が 龠、右が禾)『上古音韵表稿』の、p。178から teng と発音されたもののようです。 2。日本に入った時の表記    喉内鼻音 ng には、「う」の仮名が当てられたので teng は「たう」と仮名書されます。 3。中世日本語での破擦音化と口蓋化       中世の日本語では ti が tsi などに変わる破擦音化(下記)がおこります。     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E     また中世の日本語では si が ʃi に、 tsi が tʃi に変わる口蓋化(下記)が起こります。     http://kotobank.jp/word/%E5%8F%A3%E8%93%8B%E5%8C%96 4。 日本語では17世紀までに破擦音化と口蓋化が終わる   ロドリゲスの『日葡辞書』(1603-4)の表記で、破擦音と口蓋化が終わった時期が分かります。        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%91%A1%E8%BE%9E%E6%9B%B8     『日葡辞書』には Chochacu  と記され、o の上には開音(音声学的には 逆C で表す開いた「お」)を示す小さな v(フランス語のシルコンフレックスを逆にした印)がついています。これは17世紀初頭ではまだ「オ段の開合」(下記)が区別されていたことが分かります。     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%90%88 5。 「打」は、「たう」と書かれ、発音は tang から、tɔː を経て17世紀初頭までには tʃɔː と変わったことが分かります。江戸に入ってオ段の開合の別が無くなり tʃo: となります。 仮名表記が発音通り「ちょう」に変わるのは1940年代の現代仮名遣いが施行される時です。   これは余談ですが p に終わる中国音は「ふ」と書かれ、「てふ」として日本語に入った単語も、平安時代のハ行転呼音で「てう」となり「打」と同じ道を辿って今の日本語では蝶々の「蝶」も、打擲の「打」も、発音が同じになりました。

TANUHACHI
質問者

お礼

 ありがとうございます。SPS700様のご見識と洞察にはいつも敬服しております。 音声としての変化に始まり、音韻の問題にまで具体的なデータをお示しいただき感謝に堪えません。ロドリゲスの『日葡辞書』は幕末期に日本人が英語の発音を聴いたそのままに記したと同じ形ですので、具体的に「どの様に発音したか」をうかがい知るには絶好の史料ですね。私は日本の中世史を専門とする者ですが、表記された言葉を拾い歩く際に「文字」を拾うことはできても「音」を拾うことは困難であることにしばしば苦慮しております。  そんな中にあって、これは!と思われるのは「宛て字」の存在です。武家も庶民も本来の文字で記すよりも「その音を聞き取ってそれに類する文字を宛てる」そして「文章や語句の意味」はそれら全体を読むことで理解するとの二段構えの形がそこにはあるとの認識を持っています。表音文字としての漢字と表意文字としての漢字、人間の思考過程でどの様に変化し現在に至っているのかも興味のあるところです。ゲシュタルト心理学の論文などではまだこうした部分に関する考察は緒に着いたばかりではあるまいかとも考えてしまいます。  今後ともよろしくご教授いただければと存じます。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.1

打擲の読みははなぜ「ちょうちゃく」?「だてき」では OKWave http://okwave.jp/qa/q7424068.html

TANUHACHI
質問者

お礼

 ありがとうございます、mekuriya様。確かに漢語としては「だてき」とも読むことはやつがれも存じていますが、問題点は「やまとことば」としての「ちょうちゃく(またはちゃうちゃく)」がなぜこの様に発音されるかとの問いなのです。  他の文献史料をあたってみますと「左義長」との文字が宛てられていますが、時には「左儀仗」などの表記も散見されますので気になっていたところです。  

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