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ただひとつのことに夢中になっていたい。
自然に楽しむことで力を得、その力で生きて行けている人達を、 心を潰されることなく、自分の思いのままに何かを積み重ねて来られた人達を、 どうすれば敬うことなどできるというのでしょう。 私が私として生きることを色々な人から封じられてきた結果 私自らが私を封じるようになりました。 いえ、敬えるとか敬えないとかもう何でもいいんです。 俺は頑張りたいし力を得たい。それが今の正直な胸の内の声です。 何だかんだここまでずっと苦しんで、いっぱいに生きてきたけれど、実りが一つも無くて。 何をしても実らないんです。楽しくないし、続かないし、一円にもならない。 楽しめばいいよ、自分の思うままに生きればいいよ、 良い結果を想像すればいいんだよ、悪いことには注意を払わなくていいんだよ なんて本に言われて、なんとなく共感するような時もありますが なかなか上手に方向転換できなくて。体が動いてなくて。 何にもできずに日々が過ぎて行ってるんです。 悔しいんです。 何もできないことが悔しくて、悔しいのに何もできない。 こうして言葉にしたら少しだけ胸が空いたけれど、 こんな風な事(詰まって空いて詰まって空いて)を何度も何度も繰り返すだけで、 何年も堂々巡りをしている気がします。悔しいです。 ただひとつのことに夢中になっていたい。 とりとめが無いかもしれませんが、綴れるだけのことを綴りました。 もし何かお思いのことがございましたら、御助言をよろしくお願いいたします。 目を通して頂きありがとうございました。
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こんちは♪ 心を殺してまで尊重してきたものは、主に親族な学校の考え方。 この考え方が あなたの自分自身の心に対して心地よさを提供したいという考え方を邪魔してるのではないでしょうか。 あなたはもう既に利益より充実感を大切にしていますよね。 自分の気持ちはわかっているのに小さい時に教えられた考え方があなたの足を止めるんだと思います。 自分ではこうしたいと思っていてもあなたと、親族学校の考え方が違っていたのではないでしょうか。 そしてあなたは自分を否定し親族学校の考え方を肯定した。 その結果、今も自分の考え方を否定してしまうため 一歩踏み込めないのではないでしょうか。 どこかで親族学校の考え方の殻を破らない限りあなたの足を卑屈にさせ続けてしまうと思います。
おはようございます。 あなたは頑張りたい。 夢中になっていたい。 好きなことだから。 でも見切りも大切ですよ。 もうこれでダメなら止めようって。 一円にもならなかったら生活出来ない。 厳しいようだけどそれが現実。 諦める勇気。 まだわからないけどね。 そしてもしダメだった時は趣味として見方を変えてやっていったらいいと思います。 そしたら案外いいものが出来たりして。
- obrigadissimo
- ベストアンサー率23% (1613/7000)
昨日・今日と 生きているのですから、 (生存に必須なことはすべて やれている訳で) 先ずは、何もできていないという 事実誤認を変えるところから 始めませんか。 夢中になっていたい ひとつのこと は、明確になっているのですか。
お礼
「ひとつのこと」は明確です。明確ですが、実行中や、実行する前に迷いや絶望が生じるのが常です。 事実誤認、まさにそれでしょうね。考え方ひとつ変えることで、私の中の濃霧は、立ち所に晴れ渡るのでしょう。
- l_pirine
- ベストアンサー率0% (0/0)
親、兄弟に制限されることがあっても、 国が制限することは、少ないと思うので、 とにかくいろんなことにチャレンジして、見るとか… 興味がなくても以外と面白いことが、あるかもしれないですよ‼ 僕の例をあげてみると、人と喋るのが苦手で=人が嫌いと思ってたら、 けど、頑張って人喋ってみると、以外と面白くて、そこまで人が 嫌いじゃなかった感じでした。 とにかく、いろんなことに一生懸命に取り組んでみたら、面白いと思えることがあると思いますし、面白いと思えたら、その事に夢中になれると思います‼ 後、何も一つだけに夢中になりたいとは言わずに、たくさんのことに夢中になりたいと思った方がいいと思います‼ とにかく、考えるより行動しましょう、まずはそれからです。 なんか、すっごいありきたりな回答ですみませんでした。 夢中になれること見つかるといいですね。
お礼
そうですね、私も人と話すこと、多分嫌いじゃないです。人と居て嫌な気分になることもありますけれど、話していて満たされるような瞬間は何度もありました。 色々なことにチャレンジはしたくありません。行動論は、今の私にはどうも性に合わないようです。ひとりで頑張るのにはもう疲れました。
- ShRoud
- ベストアンサー率37% (14/37)
読んでいて共感する部分がありましたので、書かせて頂きます。 メンタルヘルスカテゴリにての質問ですが、心を病んでらっしゃるのでしょうか? 私は実父から心理的虐待・異常な過干渉を受けて育ち、今も尚子離れしてくれない状態です。 つまり、私の人生を、やりたい事を完全に封じられて生きてきました。 そして心を病み、現在も休職中の身です。 そこで現在私が実行しているのが、十代の時になかった反抗期を今取り戻すという事です。 中学生が夏休みにやるような、法に触れずに(笑)やんちゃの限りを尽くし、 問題の実父とは家庭内別居中です。 母は理解があり、明け方急に遊びに出かけたりしても干渉しなくなりました。 その母が読んで「心が変わった」と言っているのが『般若心経』の本です。 なんの宗教にも興味の無い家ですが、単純に読んだら楽になったと言っていました。 さて、何をしても実らない何をしても無為に日々が過ぎていって悔しい、という点に 私は共感したのですが、私の場合は自分の考え方ひとつだと思いました。 他人は他人、自分は自分。できない自分はできる人より悪でしょうか? ただ自分だけが、悔しい・駄目な人間だ・実りもなく力が得られない、と 思い込んでいるだけのように思うのです。 自分の人生ですから自分で操縦して生きなければ自分の実りには成りません。 「今日も特に実のあることできなかったけど、時間はまだまだあるし、いいや」 と思うように私はしています。勿論やりたいことや目標があるのにやれてない状況なのですが。 やれないことが悔しいけれど、悔しいのにできない。そこでつまづいていれば、 うまく操縦できていない理由は自ずと自分の中にあるという事がわかると思います。 最後に、一つの事だけに集中したいとのことですが、それこそ自分で見つけて続けなければ いけないところでは?精神的にご病気を抱えていない前提で書きましたが、 ご病気があるならば話は変わってきますので補足ください。 自分のことを好き勝手に書いただけの回答となってしまいましたが、 思うところあり長々書かせて頂きましたこと、ご了承ください。
補足
心療内科のお医者様が仰るには、私は病気ではないそうです。心理カウンセラー様が仰るには、私はアダルトチルドレンだそうです。アダルトチルドレンは“病気”とされているものではないそうですので、私は病気ではない、ということになるでしょうか。 中学生がやりそうなやんちゃ行為というと……。徹カラぐらいしか思い浮かびませんが、何となく楽しそうです。拝読していて、それちょっといいなぁと思いました。 仰るとおり、何かを変える必要があるのだとすれば、それは私自身の中にあるのでしょう。私も、それ以外に考えられません。
- yamiyonochaos
- ベストアンサー率42% (3/7)
それは・・・わかる気がします。 違うし!!と思われるかもしれませんが、自分の意見を通そうとしないで他人の意見を尊重し過ぎて自分を抑え込み過ぎた結果、自分が出せなくなったと? 確かに他人に、本に、言われたからといって簡単に自分を変えることはできないですよ。 性格なんですからね。 だからと言って諦めることができないのもわかります。 自分は人見知りが激しいので難しいですが、自分を変えていくには「多くの人との出会い」が必要だと思います。 人の生き様を近くで見ていることも「力」になると思います。 そして付き合いながらなら自分の出し方がわかってくるんじゃないでしょうか? 「一つのことに夢中」になっている人もあなたみたいな人もいると思います。 そんな人達の中でその人達が「夢中になっているもの」を聞いて体験して自分のやってみたいものを探してみて極めてみたらどうでしょう? こんな回答で良ければいいですが・・・
お礼
心を殺してまで尊重してきたものは、主に親族や学校の考え方だと思います。当時の私は、そのように生きることを、そこまで大それたことと捉えてはいませんでしたが。生きていく上で背負わなければいけない背中の荷物、程度に考えていたと思います。 今はその荷物を蹴る殴るしても特に抵抗がなくなりました(笑) 自分以外の誰かという存在は本当に有難い支えになると、私も思います。特に、自分の足で立てるようになるまでの間は。
お礼
私の場合、誰かに対して何かを成したいという気持ちよりは、自分自身の心に対して心地よさを提供したいという気持ちの方が、より深いところにあると感じました。 極端なお話、この先の余生でお金“だけ”を得られたとして、私の正直な気持ちが安らぐことは無いでしょう。私の場合、誰かしらに求められる人になるということは、人生において最重要、とまでは行かない事柄のようです。 趣味で構わないのです。そこに抵抗の気持ちなど既にありません。お金や好意を得ることを望む気持ちは、確かに強くありつつも、最重要なものではないと気付いていますから。いざという時や、不要だと確信を持てた時には捨てられるカードです。 お金を得られない状況は、人生の持ち時間を縮めるかもしれませんが、他人と比較して生きた時間が短いからといって、私の根源的な充足感が揺らぐことはありません。短いことが障害になり得ることは考えられますが、絶対的な障害ではなく、超えられるものだと感じます。 なぜ、心のそこから求めているはずの成果を掴む前に、走ることを毎度必ずやめてしまうのか。止める人など居ないのに。止められてもやる覚悟なんてとっくに出来ているのに。私が足を止めずに走るにはどうすればいいのか。 など、お恥ずかしながら、かれこれ何年も、もしかすると子供の頃から、ずっと同じような疑問を抱き続けています。 やはり、私がいつの間にか身につけた考え方のクセが、私の足を卑屈にする大きな要因なのかもしれません。 有益なご回答、感謝いたします。