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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:鳩山町新沼窯での武蔵国分寺瓦生産について)

鳩山町新沼窯での武蔵国分寺瓦生産について

このQ&Aのポイント
  • 南比企窯跡群の鳩山町新沼窯で最大規模の武蔵国分寺瓦生産が行われていた
  • これまでの研究では、稲城市大丸の瓦谷戸窯が生産場所とされていたが、新たな発見から新沼窯が生産場所と判明した
  • 瓦を運搬するためには多くの川を渡らなくてはならず、直線距離も32kmと遠いため、なぜ鳩山で生産されていたのかは未だ不明

質問者が選んだベストアンサー

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  • TANUHACHI
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回答No.5

 余談ですが、僕がまだ高校時代に調査した坂戸市の史料に相撲勧進の記録がありました。江戸時代の話ですが幾つかの河川を水運(舟)を利用して現在の蔵前にある米倉に運び、帰途に相撲の力士を舟に乗せて戻ってきたとの記録があったことを憶えています。その時に収めた蔵の番号が十八番であり「おはこ」の言葉ができた、との話も聴いた憶えがあります。  川があったら水運の存在を考える余地もあるように考えられます。ただ一つ疑問点として残るのは埼玉県中西部から東京湾沿岸に注ぐ河川として荒川水系はあるものの、この地域から多摩地域に至る南北間の河川水系がみられないとの点で説得力を欠くとの問題です。  幕末に登場する「シルクロード」は現在の高崎市や前橋市近辺からJRの八高線に沿う形で埼玉県の中西部を経由し八王子市から横浜市に至る養蚕業および製糸業の生産地と生糸貿易の拠点を結ぶ経路として知られていますが、もしかしたら鳩山からこうした埼玉県中西部を経て多摩に至るルートがあったのかもしれません。また運搬に関しても一日で往復する(出来上がったモノをその都度はこぶ?)他に、ある程度まとめて納品した可能性も考えられなくはないですね。

moto_koukousei
質問者

お礼

ありがとうございます。荒川水系は、本件の場合について言えば、運送の障害でしかありません。 利根川水系、荒川水系は江戸時代に流路を変更していますが、元の流路でも、付け替え後の流路でも、今回の場合では関係がなくて、小畔川、越辺川、入間川が運送経路を横切るものです。 また、平安期以前にはかなり水量もあったようです。 運搬路は東山道が南下する後の時代の鎌倉街道の上道です。http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kamitumichi1/kamitumichi.html  http://home.e01.itscom.net/you99/kamakurakaido.html  http://www.geocities.jp/uchi1942y/7kamakura/kaidoukami/kamakurakami.htm  武蔵国を考えるとき、高麗郡の歴史を考えないと、この問題はうまく行かないのではないかと思っています。 実は、回答者onbaseさんの回答への返事がまだなのですが、粘土はどうもどれでも良いらしい、工人がポイントで、粘土の調整や窯のコントロールができる工人が渡来人のみだったし、すでに比企などの地域で窯業をしていた渡来人を、国府や国衙は直接コントロールだけのパワーを持ってはいなかったようです。どうも、鎌倉期だけでなくて、朝廷は西日本は支配下に置いていたけれど、関東、東北は、一応征服したけれど、半分在地勢力を使うという方式だったような気がしています。すこし、その辺りを調べてみようと思っています。

その他の回答 (4)

  • TANUHACHI
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回答No.4

 幾つかの疑問がわいてきました。 (1)「工人」を移住させたならば、彼らが生活していた痕跡が同時にあることになります。また埋葬施設としての墳墓も必要となります。現時点ではこうした遺構が発見されていないことから「移住させた」との見解が成り立つことは困難かと考えられます。 (2)「地域間の距離とその間の河川や沼地の問題」。少し外れますが、鎌倉時代の『愚管抄』の一節に「かち」との言葉が見られます。中央公論社刊の『日本の名著9』では「裸足で」との訳がふされていますが、私が大学に編入し直した時、大学の演習を担当された方がこの訳を施した当事者でした。そしてこの方は学生が訳した「歩いて」との現代語訳を「その方が適切ですね」と受け答えしていたことを記憶しています。  つまり「馬や牛に乗って移動していた人」もいれば「歩いて移動していた人」もいて、それは社会的な階層により異なっていたとも理解できます。また同時に運搬に携わる専門の人(現在の宅急便などの運送会社)がいた可能性も考えられなくはありません(それを生業とする職業の存在の可能性)。 (3)「国分寺」に関して。741年(別の説では738年)に発せられた「国分寺建立の詔」ですが、それが発せられたからといって全国に国分寺が一斉に建立されたとは必ずしも結び付くことにはなりません。むしろ8世紀段階の籍帳や計会帳などの史料をみますと、偽籍や浮浪・逃亡などの事例が見られ、律令体制が盤石な基盤を保っていた裏付けとはならず、私有地としての古代型荘園の出現や租税化した出挙の問題も出てきます。ですから国分寺の建立事業そのものを国家的プロジェクトと規定しうるのかも問題となり、むしろ在地の富豪に委託する形で事業が行われていたと考える見解に合理的な説明がなされているとも考えられます。  こうした前提に立てば、律令的支配に基づく定住基盤を離脱した人間を雇用し国分寺造営事業の事業主として鳩山の工房を運営し武蔵国分寺に納品(売買取引)を行い、その収益から工房や運搬に携わる人に対価を支払ったと考えることも可能でしょう。  この様な形態は9世紀の太宰府で実施された「太宰府公営田」にも類例が見られます。太宰府管内の9ヶ国の口分田と乗田(剰田)を「公営田」とし、耕作のため年間6万人の人間(徭丁)を動員し、彼らに人別米2升の食料・町別120束の報酬(佃功)を支払い、残り全てを太宰府と国衙の収益としたシステムです。この時に徴用された人間を雑徭とみるか雇役とみるか、施策の目的が百姓らから直接、調・庸を徴収することを廃し、交易によって調・庸を調達することにあったとする説や調や庸など人頭税的性格を持つ税が地税へと転換される過渡期の制度とする説などの見解があるなど、今回の発見から導かれる「巨大プロジェクト」と持つ国家・地方財政や社会構造の変質過程の因果関係の解明がなされることに個人的には期待を寄せています。  現在の私達がイメージするほど古代国家は盤石な組織体系を持たず、それゆえに足下から崩れ始めるのも比較的早い段階(8世紀それも聖武朝の頃)ではなかったのかと考えています。

moto_koukousei
質問者

お礼

ありがとうございます。 武蔵国分寺の近傍には瓦を製造した窯跡は発見されていないのです。武蔵国分寺の瓦は、(初期瓦窯として)稲城市大丸(瓦谷戸窯)と埼玉県鳩山町(赤沼・石田瓦窯、新沼窯跡)などです。(再建期瓦窯として)入間市東金子窯跡群は期の瓦窯跡群があるようです。。工人集団を国分寺建設地の付近に「移住させた」との見解が成り立つことは困難と私も思います。 河川は運搬経路を阻害する向きに流れていますし、国分寺創建時には、車や牛馬を多量に使えると思えないので、丘陵を昇り、湿地を通り、河川を渡って、かちで瓦を運んだのだと思います。 武蔵国分寺は3回の建築で757~765年頃に完成したらしいです。(武蔵国分寺がもっとも立派だったのは845年くらいまで。律令制がダメになるにつれてさびれていく)。http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/700000/s703000/MUSEUM/kaisetsu4.pdf すっきり1回で寺院が完成せず、3回の変遷を経たのは、それぞれの時期にできる範囲で一番の建設をせざるを得ず、その都度、満足できず勧進をして、地方勢力の再寄進や、租庸調を蓄えて、より立派にしたからでしょう。国分寺創建は国家的プロジェクトで国衙としては最大限の努力をしたのだと思います。しかし、律令体制と言うものの中央集権国家としては国衙を通じて工人集団を自由に移住させるだけの力はなくて、冊封体制に似た叙位の付与で在来の豪族が持っている工人集団を利用するようなこともせざるを得なかった可能性があると思えてしまいます。国衙に溜め込んだ租を、瓦代や運搬の対価として豪族に支払ったとか、庸調として瓦を納入させたとかも考えることも可能なのかなと想像します。 色々な記録をつき合わせて研究している方が、なにかおもしろいことをすでに発表されていて、そうした論文や書籍があるようにも想像するのですが、私はそれをうまく見つけることができないでいます。 私が漠然とイメージしていたほど古代国家は全国一律でもなく、また中学高校で思い込んでしまったほど(律令文書などの記載のままの現実があったのではない)のかもしれません。 この質問をした後で、いただいた回答を読みながら、webを当たったりしているうちに、ずいぶんと新しく知ることができたことがたくさんあり、私はうれしく思っています。 本当にありがとうございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 今回たまたま瓦のユースでこの質問をしましたが、実は、今宗教に関心を持っているのですが、この日本の宗教に関しても、中高で思い込んでいたのとは、ずいぶんと違う実態だったらしいことにとても驚いているのです。寺領の運営の実態も結構おもしろいです。

回答No.3

●国分寺、府中などの近辺にある粘土は、登り窯で瓦を焼くには向かないなどの情報をご存じでしょうか。 ○現実的に須恵器窯がある地域は特定の地域にしかなく、瓦窯はさらに限定されていますからそう考えるしかないでしょう。また、1000年前と現在では年度の質も変わってしまうことも考えられますのでなかなか断定はしがたいものがあります。 ●在来工人集団を抱えている地方豪族に叙位、郡司などの地位や特権を与える見返りで、瓦を寄進させたと考える方が、当時の国分寺造営やその後の修復の状況から、自然な気がします。 ○「工人を移動させて作らせればよい」なんて簡単な話ではありません。  移動した先で粘土を確保し、登り窯を作れる斜面を探し、燃料となる樹木を伐採して乾燥させなければなりません。それまでして構築しても造営・修理が終われば工人はお払い箱になります。それならばすでにある生産地で作らせて運ばせた方が実際にはスムーズでしょう。 ●武蔵国分寺の創建時の瓦の意匠も上植木廃寺の系統のものになった、、、、 ○瓦の範型は寺院の財産であり、国府が自由にできるものでありません。一般的には寺院の造立者の意向や協力で「範型」が提供される、と考えられています。だから瓦文様が重要なのです。 ●あまり力や資力財源のない武蔵の国衙としては、この地方在来勢力に協力要請せざるを得なかった ○それはそのとおりです。国分寺の造立が天平13年の詔以降遅々として進んでいなかったことは文献史学でも考古学でも明らかになっています。 ●「結果的に」国分寺にも入ったに過ぎないのである。 ○前述のようにそれは違います。  中央とのつながりのある豪族が建立した寺院に使用した範型を提供したことによるものと考えられています。  ただし、これは現在の通説ですから質問者さんが資料に基づいて新たにそのような学説を立てることは出来るかもしれません。 ●「国衙財政」から賄われ、国の関与するところではなかっだのではないか。 ○それが通説です。  特に武蔵国分寺では「郡名瓦」があることから古くからそういわれています。 質問者さんは学術論文を読みこなすお力をお持ちですから武蔵国分寺に関する学術論文も読まれるとよいかと思います。 寺院建立の背景は寺院によって違いますし、西国と東国ではかなり違います 「薩摩・大隅・壱岐では○○」だからと言ってそれを武蔵国分寺に適用できるとは言えません。

moto_koukousei
質問者

補足

回答をいただきありがとうございます。 コメントが遅くなり、申し訳ありません。 まだ十分に調査できていませんが、今は、地質や粘土が問題で30km遠方で瓦を作らざるを得なかったとは思えなくなっています。 穴窯で須恵器を量産できる技術を持つ工人を管理支配下にしていた渡来人の現地豪族に、そのまま優遇することで、武蔵国分寺の建設を進めざるを得なかったことが原因であり、現在で言えば関東、昔の東国、武蔵などでは、渡来人がすごく力を持っていたことが、武蔵国分寺や東山道武蔵路を造るにも関係していると、今は強く思いつつあります。 参考:多摩の歩みNo137(2010.2)「七世紀における多摩川中流域左岸の古墳と集落-古墳の造られた時代から国府の時代への転換-」(府中市文化振興課 江口桂)の中に「七世紀後半の東山道武蔵路(官道)の整備などの律令体制の導入に係る国家的事業に、後の郡司層にあたる在地有力勢力が深く関与したことは間違いないと思います」とあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ●国分寺、府中などの近辺にある粘土は、登り窯で瓦を焼くには向かないなどの情報をご存じでしょうか。 ○現実的に須恵器窯がある地域は特定の地域にしかなく、瓦窯はさらに限定されていますからそう考えるしかないでしょう。また、1000年前と現在では粘土の質も変わってしまうことも考えられますのでなかなか断定はしがたいものがあります。 ★当時の須恵器の需要量は多くありません。須恵器の生産には経験を持った工人集団が大がかりな作業をする必要があるので、需要の少ないところでは須恵器窯業は成立しません。瓦は当時、寺や官でなければ使いませんし、型に造形して焼成し収縮した後の形状を均一にするため、よりしっかりした技術が必要です。瓦窯が少ないのはある意味当然です。須恵器製造に使う土(胎土)は捏ねる前に相当に調整するので特に、土を掘り出した時の質にはこだわらないようです。しかし、焼成失敗作を少なくするために、土の選択と土の調整には、窯の火力や還元のための工夫と同様に、均一性を保つために相当に注意したでしょう。多くの場合、砂に近いような粗い粘土と赤土を使ったのではないかと思います。窯が限定的なのは産出する土の問題ではなくて、工人集団の技量の維持と工人集団を維持する上で必要な需要量の継続的な確保がポイントであったろうと推測します。   ●在来工人集団を抱えている地方豪族に叙位、郡司などの地位や特権を与える見返りで、瓦を寄進させたと考える方が、当時の国分寺造営やその後の修復の状況から、自然な気がします。 ○「工人を移動させて作らせればよい」なんて簡単な話ではありません。  移動した先で粘土を確保し、登り窯を作れる斜面を探し、燃料となる樹木を伐採して乾燥させなければなりません。それまでして構築しても造営・修理が終われば工人はお払い箱になります。それならばすでにある生産地で作らせて運ばせた方が実際にはスムーズでしょう。 ★粘土、赤土、斜面、森林、水の確保は、ロケーション的に言えばさほど難しくはありません。穴窯、登り窯も手入れせずに使い続けることはできません。一方、経験と技能を持つ工人は貴重です。簡単に養成したりお払い箱にできるものではなかったでしょう。土師の技術も大変だったので土師氏が勢力を持てたのでしょう。須恵は朝鮮系の渡来人技術者が持ち込んだ還元焼成の窯焼き技術だったようです。先進技術を持つ工人集団が地方を巡行して生産して回ったという研究もあるようです。http://www.mahoron.fks.ed.jp/kiyou/pdf/2010_2.pdf この頃の国際政治状況や東国での高句麗系の力を考える必要があると思っています。 唐・新羅連合軍の攻勢で、660年百済が滅びた。663年白村江の戦いで敗退。668年高句麗が滅びた。676年新羅が朝鮮半島を統一。694年飛鳥浄御原から藤原に遷都。この頃武蔵国分寺に国府をおく。703年高句麗からの使節だった若光に高麗の王の姓を与えた。710年平城京に遷都。716年武蔵に高麗郡をおく(甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の高句麗人を高麗に集めようとしたのですから、特別の政治的意図があったのでしょう。しかし、その後も各地に高句麗あるいはどこかの渡来系がその後の地名に残るほど住んでいたのですから、朝廷は全員を集めようとなくてしたのではなくて、故郷を失った渡来人に朝鮮半島に代わる亡命先の聖地を与え、より一層朝廷や藤原氏などの中央貴族と渡来民の関係を強固にしようとしたのかもしれません)。710年頃鳩山編年I期では中心工人が持参した外来系土器が周辺工人集落で発見されている。720~730年に須恵器(鳩山編年II期)が南比企窯で生産されていた。714年国分寺創建の詔を発布。747年国分寺造営の遅れで国司の怠惰を責め、3年以内の造営完了に向け郡司の専任を求める。750年福信に高麗の朝臣の姓を与え、武蔵国分寺の造営が遅れていた武蔵守とした。武蔵国分寺が完成し、758年武蔵に新羅郡をおく(現在の新座) http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/musasi.html  http://www.musashigaku.jp/framepage1.html   ●武蔵国分寺の創建時の瓦の意匠も上植木廃寺の系統のものになった、、、、 ○瓦の範型は寺院の財産であり、国府が自由にできるものでありません。一般的には寺院の造立者の意向や協力で「範型」が提供される、と考えられています。だから瓦文様が重要なのです。 ★律令制の中で国分寺を建てようとしたのは、鎮護国家のための金光明四天王護国之寺です。私寺ではありません。瓦を葺く関係上サイズは規制されるはずですが、なお、それにもかかわらず、武蔵国分寺の鐙瓦(軒丸瓦)宇瓦(軒平瓦)は百余種の多岐のわたるのだそうです。 http://mh5.hatenadiary.com/entry/2012/01/30/103058 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73106/1/KJ00004251125.pdf http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/700000/s703000/MUSEUM/news3.pdf ●あまり力や資力財源のない武蔵の国衙としては、この地方在来勢力に協力要請せざるを得なかった ○それはそのとおりです。国分寺の造立が天平13年の詔以降遅々として進んでいなかったことは文献史学でも考古学でも明らかになっています。 ★「律令国家の対蝦夷政策:相馬の製鉄遺跡群」でも、郡司層が積極的に郡衙の工房で鉄生産を行ったこと、朝廷側は叙位や賜姓し、調として貢納させたり、交易で郡司、地方豪族層を優遇したとあります(8世紀 製鉄も須恵器生産も同じようなことらしいです) ●「結果的に」国分寺にも入ったに過ぎないのである。 ○前述のようにそれは違います。  中央とのつながりのある豪族が建立した寺院に使用した範型を提供したことによるものと考えられています。  ただし、これは現在の通説ですから質問者さんが資料に基づいて新たにそのような学説を立てることは出来るかもしれません。 ★わかりにくい記載をして済みませんでした。『・つまり国分寺の造瓦組織は、中央系というより、、、、、~~、、他国系の瓦が入ることも、「国分寺は在地の資力で」という論を補強]』の部分は私の文章ではなくて、名古屋大学の梶原義実准教授『考古学特殊研究 国分寺瓦の研究(5~7)西海道における国分寺の造瓦組織 (梶原2000「国分寺造営期における瓦供給体制-西海道諸国の例から-」『考古学雑誌』86-1)』 http://ocw.nagoya-u.jp/files/270/Kajiwara5-7.pdf の p10/10の上にある記載の転載です。http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/outline/teacher/kajiwara-yoshimitsu/ ●「国衙財政」から賄われ、国の関与するところではなかっだのではないか。 ○それが通説です。 特に武蔵国分寺では「郡名瓦」があることから古くからそういわれています。 質問者さんは学術論文を読みこなすお力をお持ちですから武蔵国分寺に関する学術論文も読まれるとよいかと思います。 寺院建立の背景は寺院によって違いますし、西国と東国ではかなり違います 「薩摩・大隅・壱岐では○○」だからと言ってそれを武蔵国分寺に適用できるとは言えません。 ★「薩摩・大隅・壱岐では○○」であっても、武蔵国分寺に適用できるとは言いきれないことはわかります。西国よりも、東国の方が朝廷、国府、国衙の力は弱かったのではないかと想像しているのです。

回答No.2

●粘土はどこにでもある ○確かに「粘土」はどこにでもありますが、「登り窯の高温に耐え、耐久性が必要な瓦に使える粘土」はそう多くありません。 ●何本も川を渡らなくては瓦を運べません。 ○大量かつ重量のある瓦を陸路で運ぶ方が非効率的です。距離的に遠回りでも水路(川)を利用して運んだ方が効率的です。 ●移住させた方が良いと思えるのです。 ○前述のように粘土や登り窯に適した斜面地は多くないのでそう簡単にはいきません。 ●遠い鳩山で瓦を生産させて運んだ理由 ○鳩山ですでに瓦窯があり、そこで作って運ばせた方が効率的だった、あるいは鳩山のある有力者(郡司)が寄進のために焼かせた、など様々な理由が考えられます。その理由を探ることこそ「研究の目的」であり、諸説入り乱れるところでしょう。

moto_koukousei
質問者

補足

ありがとうございます。 『「登り窯の高温に耐え、耐久性が必要な瓦に使える粘土」はそう多くありません』とのことですが、どの程度珍しいのでしょうか。http://www.bizen-shozan.com/old_page/shopping/index.html この辺りの丘陵部の地層は粘土がいくらでも出ます。武蔵国分寺の瓦の焼成温度や使用粘土のついてまだ手がかりが記載されたものを見ていないのですが、何かご存じでしょうか。また国分寺、府中などの近辺にある粘土は、登り窯で瓦を焼くには向かないなどの情報をご存じでしょうか。   下のPDFの中に次の一文があります。 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73106/1/KJ00004251125.pdf 「飛鳥寺瓦窯のような消費地近接型の窯が、製品の運搬の便を配慮しているのに対して、消費地から遠く離れた場所で瓦を生産する遠隔地型の窯は、粘土や燃料などの原料獲得の便を考慮したものだとする説がある。石工にとっての凝灰岩や、銅生産者にとっての銅鉱石のように、原材料の産地が限定される場合には、それに制約されて工房をおもな消費地から遠く離れた場所に設置することもあり得る。しかし、粘土や燃料のように、比較的広範に産出する原料の場合は、消費地から数十km、時には百km以上も遠くに工房を設ける積極的な理由とみなすことはできない。近接型と遠隔地型の瓦生産の違いは、製品や原料の運搬や獲得の便とは異なる理由から生まれたのである。」 「律令制盛期の官窯体制は、官が造瓦組織を恒常的に維持管理することを前提に成立していた。恒常的に造瓦組織を維持管理するには、 (1) 恒常的な需要があること。瓦生産にそくして言えば、宗教施設や政治施設が恒常的に更新・機能し、そのための再建や修理事業が絶えないこと。 (2) 技術が伝習されていること。そのための技術者を雇用もしくは使役する体制が経済的・制度的に保証されていること。 (3) 生産の場が確保されていること。瓦生産にそくして言えば、窯場や粘土・燃料の確保が第一義で、製品を消費地に運ぶルートも二義的に必要となる。などの条件が不可欠となる。  これらの条件を満足することは、必ずしも容易ではなかった。それは、典型的な官窯体制、すなわち中央の造営事業に必要な瓦を、すべて中央で組織した官営造瓦工房で生産する体制が、8・9世紀の律令制盛期に顕著で、その前後、すなわち7世紀と11・12世紀には、遠隔地で生産した瓦を中央に搬入する方式が一般的である事実が端的に示している。しかも、その遠隔地では、専業的に瓦を生産するよりも須恵器も伴焼すること、すなわち瓦陶兼業体制をとることが多い。要するに、律令制が未成熟な段階や律令制が崩壊した段階には、遠隔地型、非専業型の瓦生産が顕著になるのである。裏を返せば、この事実は、官窯体制を維持するための潜在的技術基盤が須恵器生産にあったことを示す。 つまり、造瓦工を専業的・恒常的に維持できないときは、技術伝習の場を同じ窯業部門である土器生産に依存したのである。」 「天皇を頂点とする律令国家においては、食料・原料や労働力を各地に依存しても、政権が直接必要とする製品は官営工房の最新技術を駆使して加工、製造することが、国家の体面を保つ上で不可欠と考えられていたようである。中央の造営工事に必要な瓦を、中央で組織した官営造瓦工房(=中央官街系瓦屋)で専業的に生産する体制は、7世紀末~8世紀初頭の藤原宮造営を通じて具体的なものとなった[上原1989]。これに加えて、地方の官営施設に必要な瓦を、国ごとに組織した国街工房で生産する体制が全国レベルで実現するのは、8世紀中葉の国分寺造営を契機とする。しかし、それは必ずしも徹底せず、地方によって格差があった[今里1995、大橋1996・97]。」 鳩山で見つかった国分寺瓦の窯跡は、南比企窯跡群に属し、ここは古墳時代から渡来人が持ち込んだ窯業技術が発展し、埴輪・須恵器を生産した地域です。この周辺では7世紀前半に寺谷廃寺、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺、西別府廃寺、勝呂廃寺、小用廃寺などに須恵器窯で瓦の生産が行われ、大谷瓦窯跡や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始しているそうです。http://www.musashigaku.jp/newpage46.htm 武蔵国分寺のために粘土を求めて30km離れた鳩山で瓦を作り運ばせたと考えるよりも、単に工人を移動移住させて工人集団を維持し続ける力が政権や国衙にはなくて、在来工人集団を抱えている地方豪族に叙位、郡司などの地位や特権を与える見返りで、瓦を寄進させたと考える方が、当時の国分寺造営やその後の修復の状況から、自然な気がします。 上野佐位郡の上植木廃寺を作った豪族の系統がこの武蔵比企で窯を発展させていて、武蔵国分寺の創建時にも、あまり力や資力財源のない武蔵の国衙としては、この地方在来勢力に協力要請せざるを得なかったという事情だったのではないでしょうか。そのため、武蔵国分寺の創建時の瓦の意匠も上植木廃寺の系統のものになった、、、、 http://www.gunmaibun.org/remain/guide/tyumo/kamiueki.html http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0toukai/ishioka/ishi03.htm http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/700000/s703000/MUSEUM/kaisetsu3.pdf https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6078/1/sundaishigaku_75_89.pdf http://ocw.nagoya-u.jp/files/270/Kajiwara5-7.pdf ・つまり国分寺の造瓦組織は、中央系というよりむしろ在地系工人を編成して  作り上げたもので、中央系文様については、それ以前に在地に入ったものが  「結果的に」国分寺にも入ったに過ぎないのである。 ・国分寺造営にあたっては、造営にあたっての資材や労働力・資金は、基本的に  「国衙財政」から賄われ、国の関与するところではなかっだのではないか。  「自分寺造営は各国の裁量・資力で」ということ。 ・在地の生産力が乏しい薩摩・大隅・壱岐において、大宰府系ではなくむしろ  他国系の瓦が入ることも、「国分寺は在地の資力で」という論を補強] どうも、適当な土質が得られる場所、森林があり窯が作りやすい場所などの自然地形の問題ではなくて、工人集団を管理運営するだけの権力や能力を朝廷や国衙が持っていなかったので、見返りを渡すことで、在来地方勢力と在来工人集団の協力を得て、ようやく国分寺建設に必要な瓦を調達したということなのではないでしょうか。 いかがなものでしょうか。 『その理由を探ることこそ「研究の目的」であり、諸説入り乱れるところでしょう』というのはわかります。

  • TANUHACHI
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回答No.1

 類似する事例の一つに石器の素材の問題があります。  全国各地から出土する石器の素材には黒曜石をはじめサヌカイトなど幾つかの鉱物があり、たとえば岡山市の津島岡大遺跡からはサヌカイトそれ自体を集めて保管した痕跡が発見されています。他の近畿地方の奈良県二上山もサヌカイトを産出する地域として知られ、ここから産出したサヌカイトで作られた石器も数多く周辺に分布しています。瀬戸内海沿岸の他の地域にも岡山の遺跡同様の遺跡があることから、サヌカイトの「流通経路」がある程度確立されていた可能性も考えられます。  他にも「銅鏡」の分類である「倣製鏡」の事例もあり、全国各地から出土する「三角縁神獣鏡」の分布状況から専門の職人集団や工房の存在が何処かにあったとも考えられています。  先頃発見された埼玉県の鳩山・新沼窯跡は現時点で武蔵国分寺の瓦を製造したとされていますが、律令制下の地方行政区分では武蔵の国は現在の東京都および埼玉県に比定されていることから、同遺跡で製造されていたとしても不思議ではありません。  と同時に県北部の熊谷市や行田市などの地域は埼玉古墳群やそこから出土した鉄剣の銘文から奈良時代以前に豪族支配が行われていた形跡も知られています。  国分寺造営事業は確かに巨大プロジェクトではあるものの、それが必ずしも当該地域のみで行われていたとも限らず、武蔵国ならば世田谷の狛江や多摩地域に渡来系の人がいて彼らの技術を利用するなら、鳩山で製造されていた瓦と同様のモノを製造することも可能でしょう。  まだ遺跡が発掘されたばかりであり、そこからの出土遺物と国分寺に使用されていた瓦を考古学的に比較検討する段階にはないこともあり、今後「両者の間にどの様な関係があるのか」をモノとして調査した結論を見ない限りでは全てが推測の域を出ないこととなります。  お判りにくい文面で恐縮ですが、趣旨としては「そこで作られたモノが必ずしもそこで使われていたことにはならない」との話をさせていただきました。

moto_koukousei
質問者

お礼

ありがとうございます。   国分寺は律令体制下で造営され、造営は難航したので、郡司などを優遇するバーターを絡めて地方勢力に協力させたので、1国分寺に多数の豪族が寄進するような形になったとようですし、窯も工人も、瓦の様式模様文字も色々になったところが多いようです。(例外はあるようですが、武蔵国分寺は一般の系統らしいです)https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6078/1/sundaishigaku_75_89.pdf   武蔵国には、南から「南多摩窯跡群」(東京都八王子)、「東金子窯跡群」(埼玉県入間郡)、「南比企窯跡群」(埼玉県比企郡)、「末野窯跡群」(埼玉県大里郡)の四大窯跡群があったそうです。縄文海進海退の影響なのか武蔵で人が多く住んでいたのは北西の方ですから、埼玉県西部の丘陵地帯であることはわかります。http://www.musashigaku.jp/newpage46.htm しかし、これらの場所から重い瓦を運搬すると1日一往復(1回運ぶだけ)が限度でしょう。馬などが使えない場合、一人が30kmも運搬できる瓦はどれだけでしょう。(東国に官牧が設置され、馬の飼育が盛んになったのは延喜式の書かれた平安時代以降でしょう)駅馬・伝馬が置かれていたにしても運搬用にそれほど使える馬はいないのではないでしょうか。 主要交通路は、上野国邑楽郡から武蔵国分寺に南下するところでした。 http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/fuefukihatoyama.html しかし、造営する寺や官舎から1km以内の近場に工人を移住させ、粘土も森林も現地調達させる方が都合よさそうに思えてなりません。 http://www.city.hamada.shimane.jp/kankou/bunkazai/shitei/ken/11.html   造営地の近場で瓦を作らなかった、あるいは、そうできなかったのは、律令制の国司や国家権力の支配能力が弱くて、何度も加速を命じながら造営ができず、止むえず造営勧進に依存したり、地方豪族に瓦寄進の見返りで位階を授与するような方式を採らざるを得なかったのでしょうか。 そのために、遠隔地で製造した瓦が多数使われることになったのでしょうか。 p11/21~ https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6078/1/sundaishigaku_75_89.pdf