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戦時中の軍艦長について
軍艦長は皆、沈没の際に艦とともに一生を終えるのでしょうか?映画「山本五十六」をみて疑問を感じました。解答、宜しくお願いいたします。
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>軍艦長は皆、沈没の際に艦とともに一生を終えるのでしょうか? 旧海軍では、軍艦と呼べるのは「艦首に菊の御紋章をつけている艦艇だけ」です。 つまり、軍艦は「陸海軍の統帥権を持った、天皇から預かり物」なんですね。 戦いが終わると、天皇に返さなければなりません。 「返せない=沈没」ですから、軍艦の艦長は「沈没の際は、運命を共にする」事が常識だったようです。天皇に対して、命を以って責任を負うのです。 階級も艦長には少佐以上の高級将校が任命されますが、責任も重いのです。 戦艦武蔵の艦長は、第二艦橋の舵にロープで縛りつけ船と運命を共にしました。 艦首に菊の御紋章をつけていない艦艇の艦長は? 一般的な商戦の船長と同様に、乗員の生命を守り艦艇から離脱していますよ。 「沈没時の内地帰還者は、将校優先!」との決まりがあります。 近所の爺さんは、駆逐艦に乗っていました。 昔聞いた話では「艦は魚雷攻撃で沈んだが、艦長以下(少ない?犠牲者で)脱出する事が出来た。不幸中の幸いだった」との事。 軍部としても、歴戦の将校は別の艦艇に乗せる方が良いですよね。 例外として、作戦命令実行失敗による場合は艦艇と運命を共にする艦長もいました。 (軍が作成した命令が失敗した場合は、軍首脳部の責任) ただ・・・。 作戦・戦闘結果は「秘密事項」ですよね。 ポンコツ菅内閣時の官房長「大本営発表。福島原発事故の影響は、健康には全く異常なし」と同じです。 実際の所は、生き延びた方々しか分かりません。 戦艦武蔵の生き延びた乗組員も、帰還後は軟禁されたり直ぐに硫黄島に送られています。 武蔵の存在・海戦で負けたという事実は、何としても隠す必要があった時代です。
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- kuni-chan
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艦長は艦とともに沈む事が多く、太平洋戦争末期には沈む時は退艦しろという指示が出たそうです。 艦長の育成には時間がかかりますので、次々に戦死されたら補充ができなくなる事が問題になったためと思います。
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- 呂布 奉先(@N1K2JShidenkai)
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代理猫 館長は全ての乗員を対艦させる義務がありますので退艦は最後になりますが、あくまで 自己も運命を共にするのは様々な思いでしょう 日本が勝っていた矢先ミッドウェーで主力 赤城 蒼龍 加賀 がドントレスに奇襲されて 残された飛龍 の山口多聞 中将と館長は奮戦むなしく艦と運命を共にしています 潜水艦などは爆雷ではまず助からなかったとは推測できますが
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- pri_tama
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取りあえず、戦前の艦船職員服務規程の第二章 艦長 だと 第三十三条 艦長は其の艦遭難に際し之を救護するの術全く尽きたるときは、御写真を守護し乗員の生命を救助し且つ重要なる書類物件等を保護して最後に退艦すべし。 殊に機密書類及び軍機兵器の類は主管者に其の処分を命じ又は自ら之を保護し已むを得ざるときは適宜他見を防止すべき処置を施すべし。 此の場合に於いては直ちに之を海軍大臣及び所属長官に報告すべし。 つまり、服務規程によると艦長は、艦を失ったからと言って死んじゃだめなんです。 まあ、心情的に退艦を拒否する艦長が多いのは事実なんですが…。 (創設時に参考にした英海軍の伝統を引き継いでいるので…。) なお、太平洋戦争中の帝国海軍最初の沈没した戦艦「比叡」の艦長西田正雄大佐は、退艦を拒否したものの、上官である第11戦隊司令官阿部弘毅中将が「雪風に移乗し、比叡の実情報告をせよ」との命令を出し、強制的に退艦させました。 (抵抗するも複数人の部下が西田大佐を担ぎ上げ退艦させた。)
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- kusirosi
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太平洋戦争では、沈没で一緒に沈んだ艦長は、確かに多いが、 それは、それ以前の戦争に比べて、艦橋に砲弾直撃や爆撃食らって逃げる間もなく艦長即死というの けっこうあるからである。飛龍や大和のように艦長がともに沈むのは例外としての美談であるから責められないが、 沈没の時は乗員の脱出の指揮を執り、司令部に報告するのが艦長の本来の責任の取り方であり、 そうした方が、普通なのである。
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- nekonynan
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艦と運命を共にしなかった例、それも館長の責任ではない沈没です。 1934年(昭和9年)3月12日:日本海軍の水雷艇「友鶴」が演習中に転覆。乗員100名が 死亡。 .... 生き延びてしまった菅源三郎船長の切腹と言う壮絶な結末で有名な海難事故 。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E9%B6%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
お礼
解答、有り難うございました。
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