無心状態の記憶
過去の問いの続きにもなっていますから、いきなりに唐突な表現になっていますが、御容赦を何卒宜しく御願い申し上げます。
そもそも、西洋近代スポーツの様に逆の腕を振る歩行が、江戸時代の日本の庶民に知られていなかった故に、一部の武芸者しか早い走法を会得し得なかったそうですので、江戸の町で火事が発生した際にも『火事場の馬鹿力』が庶民に走法を閃かせてくれず、或る絵画でも描かれています通りに、当時の江戸庶民は万歳のポーズで慌てふためいています。
従いまして、「『火事場の馬鹿力』の使い方への閃きは普段の稽古の賜物だ。」と言えそうですが、そう考えました際に次の疑問が浮かんで参りましたから、御教授を下さい。
「ルサンチマン」の考え方の様な自己弁護が介在せずとも、『火事場の馬鹿力』が発動した際には、【無心】の突発的な判断の正当性が明確に自覚され、夢見の様に記憶の中へ整理されていくのでしょうか?
補足
有り難う御座います。 たとえ火事場へ追い詰められましても、身体操作技術が未熟な状態に留まっているのでしたら、その馬鹿力が無駄な力みになって自己の体を危機的な状況へ陥れやすくなるそうですので、癖の矯正の価値の有無を伺っております。