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日本人である皆さんはこの文の意味がわかりますか。

今日、教材の中で「(夏草や)兵どもが夢のあと」という文が載せてあります。これは私の母国語から訳されている文かもしれません。私はどうしてもこの日本語の表現が覚えられません。日本人である皆さんは、この「(夏草や)兵どもが夢のあと」という文は理解できますか。もし理解できなかったら、私はこの文の暗誦を諦めることにします。。。

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  • marinfish
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回答No.8

fine_dayさんのおっしゃったように俳人・芭蕉が平泉という古戦場を訪れた際に詠んだ時に。 今自分の立ってる「ここ」はかつて、壮絶な争いがあった場所だ 、、そして、今ここに、雑草が生えている、 今は雑草だらけになっているこのただのなんてことない場所にみえる「ここ」は そういう事が確かにあったはずなのに、 今は「何も無かったかのような、」場所にすぎなく見える。 しかし、、、確かにあったのだろう、 時の流れとは、、 芭蕉や利久は禅宗をやっています。 「一期一会」という事を両名ともいつも頭にいれているはず。 「一期一会」とは、せっかく今回会ったのだから、その機会を大事にして、よろしく、、、なんて意味に使われがちだが、全く違う。 (1)「今ここに、この瞬間自分と出会っているこのまわりの総てのもの(つまり、この場合はこの雑草の場所) は、それぞれさかのぼれば、いろいろな事があって、今ここに、自分と出会っている。」 すべてのモノは自分も含めありとあらゆるものは 「縁」によって、今ここに出会っている。 (2)そして、また仏教では「諸行無常」も根本思想です。 つまり、あらゆるものは変化し、同じ姿をとどめる事はない(出来ない) (1)と(2)を心に置いて 雑草の生えるこの場所に立った作者は かつてここに二大勢力を争った激戦などなかったかのように、「何事もなかったかのような」この地を見て永い時の流れと、そしてうつろゆくこの「自然」の わびしさ(わびしさとは、そういう事)を感じ どうしようもない自然の「時間」と人間のはかなさと 「そこまでやった事(激戦)も、、今やなにもなかったかのようにすらなってしまう、「人間の存在感」 、、あらゆるものすべては、時間が過ぎれば、このように「何もなかったかのようになってしまう」 それなのに、人はいつも争い、欲望を膨らませ、必死に他者と比べ生き急ぐ。 それがいったい何になるのだ、何になったというのだ。 、、という意味でしょう。 日本人がかつて第二次世界大戦でやってしまった過ちも、今まさにある「欲望のかたまり」の「損得」だけで気が狂わんばかりになってしまったこの国のいじましさも、またアメリカの気狂いじみた独裁行動も、 ヨーロッパの右往左往も、アジアの必死の経済のあがき、世界中の宗教、経済にがんじがらめになっている事も、学校や会社、家庭、国、で、「見栄、」「権力」「地位」「欲望」などに、ぐちゃぐちゃになって 自分を見失いそうな時代です。 しかしこれもまた、「たかが人間の考える事、やる事、欲望」に過ぎず、時間が過ぎてしまえば、、、 たとえば1000年もすれば、 もはや、「今この時」など歴史の授業の暗記する事柄にも入らないささいな事にすぎず」また、いつか 太陽の核融合が尽きた時、この地球もろとも消え去り、この広大な宇宙に地球が存在していた事すらだれも知らなくなっている、(人類がいないのだから)ような時がくれば、あらゆる事は「無かったも同然」かのような事になる。 なのに、人間は、なぜこうも自分の我欲に必死にとらわれるのか、、、。 この雑草は、そんな事何も知らないまま、 あるがままに自然にただ生えているというのに、、、。 って、、まあ、今芭蕉に説明させれば、このようになるかと(^.^;) 長々と御静聴ありがとうございました(笑)

awayuki_ch
質問者

補足

marinfishさんの素晴らしいご返事を拝読しました。大変いい勉強になりました。日本語を勉強するとともに、日本の文化とか、歴史とかも勉強しなければなりません。今自分の勉強不足と痛感しました。 失礼しますが、私の日本語はまだ下手なので、marinfishさんのご返事の中で、ちょっと分からない文があります。 芭蕉や利久は禅宗をやっています。 「一期一会」という事を両名ともいつも頭にいれているはず。 「一期一会」とは、せっかく今回会ったのだから、その機会を大事にして、よろしく、、、なんて意味に使われがちだが、全く違う。 「一期一会」という言葉は私にとっては、初耳でした。gooの国語辞典辞書を調べてから、意味がわかりました。marinfishさんのお書きになった「全く違う」のは「一期一会」の普通の意味と全然違う意味でしょうか。この普通の意味と「全く違う」ことはどういうことでしょうか。また、「芭蕉や利久は禅宗をやっています。」とどんな関係でしょうか。ちょっと困っています。もう一度教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

その他の回答 (16)

  • marinfish
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回答No.17

ちなみに禅宗(曹洞宗など)についてですが インドの釈迦の教えを勉強します。 そして、しかし、その勉強にも「とらわれる事なく」 自然を観し、自分の「存在」に「気付き」ものごとの有り様をこころから判ってしまう、見てしまうというようなもので、足のしびれを我慢して棒でなぐられる事等とるにたらないものです。 釈迦の教えを基本としていますからとうぜん、おまもりや加持や祈祷など本来行いません。 ちなみに、それ以外の日本の「ブッキョウ」と呼ばれているものは、かなり屈曲した、むちゃくちゃになってしまったまま、この国に輸入されもの、あるいは、情報不足の中、その不足ゆえに、まちがったまま、しかし、大教団になっているところもあります。 ちなみに、釈迦は、死後の事は死んだ事ないので私にきかれてもわからん!」と、 また、私に手をあわせてもなにもならんから、そんなことしないで修行しろ、とか、りっぱな服を着たり、 (今のような)「寺院」は作るな!と。 最低の生活をすべし、と戒を残しています。 それらをことごとくはずしてしまった現代日本の仏教は、ますます言葉だけが難解になっている、、だけ。 本来の釈迦の教えの基本は「一期一会」と「縁」と 「無常」だと思います。 「自分がわかりようのない想像でしかない事をそれ異常判断しようとしても妄想や空想にすぎないから、無駄だからやめたほーがええよ」って言ってる釈迦が 「あの世」とか「西国浄土」などという事は言わない。人間の一生とはしょせんカエルが水に飛び込んだときの「ポッチャン!」っという音だけに似たていどのものなんやわ!、、って気が付いたとか、そんな事だとおもいますよ。 ちなみに釈迦は仏教集団(徒党)もお経も作っていない。ましてや、葬式などまったく関係ない。 加持祈祷などやってもなにもならないのが自然だと知っているから、彼(釈迦)は食中毒で死んだ。 本来の釈迦の教えは今の日本の仏教とは違う、今のような権力と結びつき、ぶざまな、ぶよぶよの「見えない」者になどならない。 なぜなら、「諸行無常」「縁」「諸法無我」 が基本ですから、それらは「一期一会」の気付きでもある。 人のわびしさ(わび)うつろい行く時間による変化(さび)それと対にしての「一期一会」です。(と思っています僕は) その事を熟知し、実践する、また観する芭蕉の詠う詩は、そういう事を参考にすべきで、季語とかなんとか、現代の学者や趣味のおじさんおばさんが、 「言葉の形」に「とらわれて」綺麗な詩、あるいは、 美しい詩を作ろうとしていますし、学校の先生もそのていどの教え方しかしていません。 実は、芭蕉の詩は禅の教えの実践である、生き方そのものなのですよ。(もとろん、、たぶん) *ちなみに利久の「茶道」とは同じく生きる道であり、それは生きる知恵であり、それは、すべて 今迄書いた、「自然のありようを観る」事です。 茶道などは「一期一会」のを気付く為にのみの世界なのです、その為に、邪念が入らない為に、(たとえば今日は茶碗何回まわそか?カッコよく飲むにはどうしたら?」って迷わない為の「作法」であり、たんなる 順番でしかありません、それはべつにどうでもいいことなのです。  現代の茶道はまったくその道を観るものもなく たんなる「おあそび」でしかない「作法(順序とか、決め事)」のカルチャークラブにすぎない。 禅はなぜ真っ白な壁の前に座るか。 それは、「真っ白」とか「座る」とか、、それらにはあまり真意はない。 棒でなぐったり、足をしびらせたり、川で死ぬ思いで滝にうたれる事自体は基本的な意味は無い。 ただ「自然の中の自分の存在を観する」為の あてもなくてもいいのだが、あれば一般人には便利な小道具だとか程度のものにすぎません。 当然家元とか、その茶器製造の窯元なども馬鹿げた事で、何も判っていない証拠です。 「一期一会」と「諸行無常」と「縁」を観しられた(気づいた)ら もはや、人間という種の生物が必要以上の欲望にとらわれている事など無意味だと「気づく」事。 人間いがいの「自然」は、どのような種も、こんな小さな事に悩みを持ったり苦しんだりはしない。とらわれる事がないから。 (だがしかし、人間も所詮は自然の一部であり、自然そのものにすぎないのだが) ここでやっと本来の質問の件に戻るが(^.^;) そういうとらわれない雑草がそこに咲いているわけですわ。そして昔、我欲にとらわれて、どうせ、いつかは、そんなもの忘れられてしまうほどのものに、 命がけでたたかう地位と名誉と財産というものに「とらわれた人間」が戦ってた。 この同じ場所、、、どちらも自然。 雑草も人間もどちらが、偉いとか、地位があるとか、名誉とか、そんなもの、関係ない事、 とらわれても、とらわれなくても、自然は自然でしか ありようがない。自分もまた自然のひとつであり、一部であり、全体でもある。 って、、、もうややこしいから、やめましょうか? 脱線しまくり~~(^.^;)

awayuki_ch
質問者

お礼

大変いい勉強になりました。知識というものは多ければ多いほどですわ。これからもよろしくお願いいたします。(^_^)

  • marinfish
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回答No.16

strawberry72さんの下記書き込み書き込みについて <<邦題が「フォレスト・ガンプ/一期一会」だったんですよ。 映画館で見ましたが 「どうして、一期一会がつくのだろう」と思った記憶があります。 >> 僕もそう思いました。 あれは、訳者(あるいは日本語タイトルを考える日本の人)の大勘違いだとお思います。 付けるとすれば、「縁(えん)」ですね 同じような意味ではありますが、視点が違うと思います 一期一会は縦から正面から見たもの。 「縁」は横から 縁は続くが、一期一会は「もうこの瞬間は二度と来ない、今この瞬間この場での出会いはもう二度とない」というわび、さびの世界です。諸行無常の中のその「刹那、一瞬」です。それを観するという事です。 俳句とは実は、その世界ではないでしょうか? 一期一会の世界が俳句。特に芭蕉は、(ぼくは無知ですから、あまり本を読んでいませんが、知る限りの芭蕉は今この瞬間の出会いを観している「気づき」の詩です。かわず(カエル)が池飛び込んでポチャン!という音がした、ただその瞬間を「そのまま」詠んだりしてますね、事物のありようなどそのようなもんだ と。「ぽちゃん!」と、一瞬でおわり。わびしく、せつない諸行無常の世界でしかないんだなー。 あの歌って実は禅問答だった「らしい」です。 老師が芭蕉に「人生とはなんぞや」 に対して「カエルが飛び込むその「ポチャン」ってようなものです。と詠ったものらしい。「古池や」は後でつけくわえたもの「らしい」 人生ははかなく、空しく、わびしい。 人間が必死でいろんな悩みに頭いっぱいになりながら 右往左往して喧嘩したり、憎しんだりしてきた一生など、自然(宇宙でもいいと思う)からすれば かえるが池に飛び込んだまさにその「瞬間」の 「ぽちゃん!」という瞬間の音のようなもの、、、。 というのが正しい解釈ではないかといわれています。 あ~かえるの飛び込む音がぽちゃんときこえて、ああ、しずかだなーというのはちがうらしい。 もっと自己の今ここにいる自分の存在の視点が大きい。

awayuki_ch
質問者

お礼

marinfishさんは禅についてお詳しい方ですね。私の住んでいるところは[ZEN]という日本料理店もあります。時々「禅」って日本人にそんなに尊敬されているのだろうかと思っています。禅の深意は日本の文化の中でとても美しいことだと思います。ご親切に教えていただいて、ありがとうございます。

noname#8133
noname#8133
回答No.15

わたしも余談ですが、何年か前、Ferrest Gump (多分、中国では、阿甘正伝、伝の字が出せませんが) が日本公開された時の 邦題が「フォレスト・ガンプ/一期一会」だったんですよ。 映画館で見ましたが 「どうして、一期一会がつくのだろう」と思った記憶があります。  配給会社側が、日本人の好きな言葉を適当につけたのだろうか?それとも、邦題を決める人が、「フォレスト・ガンプの生き方を「一期一会」の精神に通じると解釈しているのか?」と思いましたが(わたしが、そう思っているわけではありません。あくまで例えば、そういう理由かな、と思っただけです)不思議な感じがしました。未だに分かりません。  marinfishさんのお答え(面白い!)から、ふと数年前の記憶がよみがったので、主題から離れてしまいましたが、ご参考までに。

awayuki_ch
質問者

お礼

ご丁寧に教えていただいて、本当にありがとうございました。

  • marinfish
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回答No.14

余談ですが、今日11月9日選挙でしたが、 滋賀県の当選したある政治家候補(当選すると候補とは言いませんが、当選する前に言ってたので(^.^;)が、 「一期一会」を座右の銘にしているとの事でした。 一期一会はそもそも座右の銘にするような種類のものではないかと思います。 戒めにはなりませんし、格言でもないですし、 また政治にはあまり関係ないかなと思いました。 、ただ、、命あるもの、そうでないもの(と、人が思っているもの)総てが時間でも空間でも繋がっているのだから、自分の一挙一動が大切である、とか、 と、むりやり理解するのも可能ですが、ちょっと苦しい(^.^:) ましてや無欲であろうというのも、政治家としておかしい。 (この場合の欲とは、「何かを変えてやろう」という欲というような意味ですが) ならば、この候補、はいったいどういう意味でこれを 私は座右の銘にしていますとみんなに言ったかと「想像」すれば、 みなさんとの出会いを大切にしますとかいう事かなと あくまでも想像ですが、そう思います。「一期一会」とは、その後大切にするかどうかの問題ではないのです。「一期一会」だと気付く事です。 それで終わり。だからどうした、どうするはまた別の問題。 芭蕉は、だからどうするとは言っていない。 だから、どうしようとは言っていない。 そうなんだなー、と思ったその刹那を歌に詠んだだけ。 無欲であろうが我欲であろうが、所詮人間のする事など諸行無常なのだという事です。 勿論人間のする事以外もとうぜん「諸行」ですから、総べては無常ですが。 「だから政治を変えてやろう」というのは、 この意味を理解できていない証拠だと、 勝手にわたし個人は思っています。 もちろん、自分の勝手な想像でまちがっているかも知れませんが。 *余談で脱線のついでに、別の質問場所で、このあいだ、「デッサンとクロッキーの違い」について、しったかぶりして、わたしの言った事こそ 大間違いでした。 そういう私的に「自分はこう思っている」という程度にお読みください。 勿論思っているから書いているのですけど。

awayuki_ch
質問者

お礼

政治家はきちんとこの「一期一会」の座右の銘を理解できるのでしょうか。(^_^) ありがとうございます。

  • marinfish
  • ベストアンサー率25% (18/72)
回答No.13

<<一期一会」という言葉は私にとっては、初耳でした。gooの国語辞典辞書を調べてから、意味がわかりました。marinfishさんのお書きになった「全く違う」のは「一期一会」の普通の意味と全然違う意味でしょうか。>> いえ、普通の意味が全く違うのではなく、 意味は先に書いた意味しかありません、それが正しい解釈ですが、間違って使う人がけっこう多いという意味です、かなり世間では間違って使われています。 今この一瞬この瞬間の自分とその自分の回りにあるあらゆるもの、(ひとつをとりあげてもいいのですが、たとえば、貴方が今、この私の書き込みを見ている、私が存在するには、私の両親が出会った事が過去になければなりたたず、その出会いは無数の偶然や必然から成り立っており、またその両親のそれぞれの家族の、同様の事、またそれらをとりまくあらゆる出来事、そうやってさかのぼって行けば、極端に言えば、地球が出来る原因、、またその宇宙がそもそも出来たところにまでさかのぼる。 この書き込みを見ている「貴方」御自身もまたしかりであって、あなたが今ここで、これを見る事になっている「今この瞬間」は、あなたが今日朝起きて仕事、あるいは学校に出かけた時にあったさまざまな出来事 それらの何一つ違っていても、「今」のあなたが、そこでこの瞬間、この書き込みを見る事がなかったわけです。明日だったかも知れないし、あさってだったかも知れない、一時間後かもしれない。 そう考えると、貴方が今この瞬間「今ここ」でこの文章を読んでいるという「事」は、あらゆる組み合わせの中の「たったひとつ」しかない事なのですね。 パソコンひとつにしてもそうですよ、貴方が今使っているそのパソコンがあなたの元に今あって、今あなたがさわっているという確立は無限の中のたったひとつしかない事なのですよね。パソコンの部品を作っている人、それを運んだ人、それらの中の誰か一人が、遅刻したり、病気になったり、くしゃみをしたりしただけで、貴方の元に届いたパソコンは同じ型でも、別のものが来たかもしれません。この世のありとあらゆる物(生き物もそうでない物もすべて)はそういう事だという「気付き」が「一期一会」という意味です、 「たった一つしかないこの瞬間の出会い」というような意味ですね。これを説明すると、まだまだ書き込みする事になりますが、迷惑でしょうから、ここまででやめときますね、きょうは。 しかし、もしあなたがこれを読んで、一発で理解出来たなら、それはすごいかも、でもね、この思想はもともとインドとか中国とか、そして韓国から入って来た、仏教や儒教の思想です。 これに対して「間違った使い方」とは、せっかく今あなたと出会ったのだから、この機会を大事にして、これからもよろしくね、というのは、少しちがっています。先に書いた意味が判ってからならOKですけどね。 <<また、「芭蕉や利久は禅宗をやっています。」とはどういう関係でしょうか>> 芭蕉や利久は禅宗という、さきほどの「一期一会」を根本思想の一つとして悟る「禅」という思想(仏教でなくてもいいのですが)を習って、また日々実践していた人です。彼等ほどの者なら、この「一期一会」を常に頭に置いて行動しているはず。 道でつい蹴飛ばした石にすら、感動し、出会いを感じるわけです。決して他人のモノを自分のものにしたいとか、他人より多くのモノを持ちたいとか、人の上に立ちたいとかという、くだらないことに「とらわれない」訓練をした人です。 彼(作者)にとって争奪戦として争奪戦(名誉、地位、経済、政治等の)、激戦したと伝えられるこの土地に今雑草の生えるこの、野原。 そこに今時間を感じ、諸行無常を感じ、 人間のする事のなんとむなしい事かといった意味をこの詩に詠んだのでしょうね。 今は雑草の生えるだけのこの「なんてことのないただの荒れ地」なのに、しかしすごい縁があって、この荒れ地は「今ここに存在する」 *むりやり、これでも短く書きました。 また私自身が完璧では勿論ないので、つたない文になっているかもしれません、あらゆる事がそうですが、私の書いた事もまた同じで、絶対ただしいというように思う事はないです。間違って書いているかもしれないと、いつも思いつつ読んでくださいね。 長文ごめんなさい。

awayuki_ch
質問者

お礼

今ちょうど大学の受験シーズンなので、長い間登録せず、申し訳ありませんでした。一期一会について、大変いい勉強になりました。ご丁寧に教えていただいて、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

noname#8133
noname#8133
回答No.12

 有名な句です。他の方の回答を拝見し、なぜ、こんなにも日本人に好まれるのか少し分かったような気がします。 「夏草」は、「季語」としては非常に効果的な使い方で、芭蕉の感慨や世界観を表す、きっかけとなる言葉でもありますね。「今は、何事もないように青々と草が茂っているけれど、かつて、ここは、戦場だったのだ」と、思いにふけったのでしょう。 夢は、必ずしも甘くて美しいものばかりではないですね。「将来実現する可能性のあることを強く脳裏に描く」という定義があります。それは、例えば、「いずれ自分が天下を取ろう」という野望であったり、「この戦(いくさ)に勝てば、生活が向上するかもしれない」という思いであったりもするわけです。 質問者さんのような非常に高い語学力の方には、オンライン辞書に加えて、先生に相談の上、評価の高い普通の辞典を何冊かお求めになる事をお勧めします。  わたし自身は、最近、「現代漢語辞典」を入手し、あまりにも読めない漢字が多くて呆然としておりますが、それでも、中日辞典だけでは不十分だということを痛感いたしました。漢字文化圏の日本人の特権で、眺めていても、「中日辞典の定義では足りない」と漠然と分かる部分もあります。(それではダメなんですが(^^))  個人的には、8番目の方のの回答が非常に読み応えがあり勉強になりました。ご本人が、お忙しいようなので、僭越ながら、わたしの解釈ですが、この方は、「「辞書の「一期一会」の意味と、「芭蕉が持っていたであろう一期一会の概念が違う」」」と書いていらっしゃるわけではないと思いますよ。awayukiさん、もう一度お読みになってみてください。  「現代の日常用語として、「出会った人を大事にしよう」という非常に狭い意味で使われている「一期一会」だけれども、それだけの意味だと解釈するのでは、「全く違う」」と書いていらっしゃるのではないでしょうか。 「全く違う」なら、「一期一会」の本来の意味とは、どういうものか、というのを、それ以下に詳しく書いていらっしゃいますね。 興味深く拝読しました。

参考URL:
http://page.freett.com/sirahige/
awayuki_ch
質問者

お礼

今ちょうど大学の受験シーズンなので、長い間登録せず、申し訳ありませんでした。ご丁寧に教えていただいて、本当にありがとうございました。

回答No.11

私は、その文を理解できます。 中学校の国語の時間に習ったからです。 その文が俳句だと知っているから分かります。俳句の決まりごとを知っていて、古文の知識が多少あるから分かるのです。 もし俳句だと知らなかったら、分からないと思います。古文や俳句を習っていない日本人が読んでも、多分、分からないでしょう。 古文・俳句は、いろいろな決まりごとがあります。覚えるのが大変です。覚えても、日常の会話では使わないので、忘れてしまうことが多いです。 でも、知っていると、いろいろな本が読めますし、便利なこともあります。俳句を作ることを趣味にする人もいます。そういう人と話す機会があった時に、俳句を知っていると沢山お話できるかもしれません。 暗誦は大変でしょうが、諦めないで頑張ってください。

awayuki_ch
質問者

お礼

この「夏草や兵どもが夢のあと」は今まで初めて読んだ日本の俳句です。皆さんのお陰で、もう暗誦してきました(^_^)簡単な丸暗記ではなくて、この俳句の背景や深い意味などをきちんと理解していて、暗誦してきました。いろいろいい勉強になりました。本当にありがとうございました。

  • michigan
  • ベストアンサー率43% (76/175)
回答No.10

古典に詳しいわけではありませんが、ご質問や皆さんのご回答を興味深く読ませて頂いているうち、ご質問者さんが、#5さんのおっしゃるように、「兵どもが」の「が」の意味と、「夏草や」の「や」の意味をかん違いしていらっしゃったためにそもそも理解が難しくなっていたのではないか、と。 「夏草や」の「や」は、「~と」「~とか」の(英語のandのような)並列の意味ではなくて、よく俳句などで「詠嘆」「感嘆」の気持ちを表すためにつける助詞ですね。 つまりこの句は、「夏草や兵ども」とつながっているのではなくて、「夏草や」のところで意味的にいったん切れています。(こういうふうに、俳句などの中で、意味をいったん区切る役割をするこの「や」のような言葉を「切れ字」と呼んだように思います。) 芭蕉が、古戦場に草が生い茂っているのを目の当たりにした瞬間、様々な思い(杜甫の詩も含めて、下の方々が書いていらっしゃるような、歴史的、宗教的な背景なども踏まえたあらゆる感情)がわき上がって来たのを、その「夏草や」の一言がみごとに表している、と日本人なら取るでしょう。 しかしそれは、この「や」が、詠嘆や感動を表す時の表現であるとか、「が」が主語を表すのではなくて現代語では「兵士たちの~」という意味である、などといった、中学高校で習う日本古典文法、および歴史などに関しての知識があってできるようになることです。 (うちの小学生の子供にこの意味を聞いたら、たぶん「??」でしょう(^_^;)) なんだかんだ言いながらも自分はいちおう「日本人としての常識」みたいなのを教育されて来てるんだなー、とご質問によって改めて考えました。その私も外国語に関しては日々精進の身です。お互い頑張りましょう(^^)

awayuki_ch
質問者

お礼

文法上に丁寧にご説明して頂いて、ありがとうございました。「や」も「が」もやっと分かりました。 幼いときから、語学の勉強が好きです。なぜかというと、外国語を身につけたら、いろんな国の人と交流できるからです。その交流から、それぞれの国の文化、風土人情などを知ることができます。それに興味を持っています。 これから、一生に頑張りましょう。 p(^-^)q

  • liar_adan
  • ベストアンサー率48% (730/1515)
回答No.9

#5さんも書いていますが、「兵どもが」の「が」は、 現代語の「の」と同じ意味です。 現代の話し言葉で、この用法を使うことはほとんどありません。 しかし、短歌・俳句でよく使われるので、理解はできます。 それにつけたすと、 「夏草や」の「や」は、単語を並べるときの「や」(←例:「赤や白や黄色」)とは違います。 これは短歌・俳句特有の「切れ字」という技法で、 ここで文章は一旦終了します。 意味としては「…である」「…がある」となります。 さらに、詠嘆の気分を表します。 また、俳句の途中の場合、 切れ字の前後が「なんとなく関係がある」という雰囲気を表現します。 「夏草や 兵どもが夢のあと」 を、現代の用法に直すと、 「夏草がある。兵どもの夢のあとだなあ」 という意味になります。 切れ字には他にも「かな」や「けり」などがあります。 いずれも意味としては終止形であり、同時に詠嘆を表します。 「名月を取ってくれろと泣く子かな」(小林一茶) 「やさしくもあやめさきけり木曾の山」(正岡子規)

awayuki_ch
質問者

お礼

文法上に丁寧にご説明して頂いて、ありがとうございました。とても助かりました。短歌・俳句特有の「切れ字」という技法ですね。この文の中の「や」をやっと分かってきました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.7

芭蕉のこの俳句が、現代の日本人に受けているのは、8月15日が終戦記念日である事と関係します。 杜甫「春望」も同様に、徒労に終わった戦争を、一瞬のうちに回帰している心情が、当時1945年の日本人の心に響いたわけです。 なお、「夢」が、将来の夢・・・私はこうなりたい!というような、ポジティブなイメージを持ったのは、明治以降、西洋文化を吸収してからです。 本来の日本人にとっての「夢」は、魔物の一種です。 ですから、江戸時代の芭蕉にとっては、この歌は、かなりおどろおどろしい物となっています。 夏草という、精気の満ちるものの中に、昔の戦争で死んだ霊気が垣間見える・・・といったものになっています。

参考URL:
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno20.htm
awayuki_ch
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 それに、素敵なURLを提供して頂いて、ありがとうございました。「当時に、松尾芭蕉さんの目で見た景色、正しく言えば、彼の感じだ世界はこういうような雰囲気なんだ」も少し分かるようになりました。本当にいい参考になりました。

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