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信じる者は救われる で良いのか
どうお考えになられますでしょうか。 toyoda.tvにて 創価学会御本尊様についての内容を拝見し 宗教、御本尊様をどう捉えて良いのか 自身がどうあるべきなのか 複雑になり質問させて頂きました。
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宗教は娯楽。 (選挙も) なので 「信じる者は救われる」 が鑑賞に耐えうるかどうかが肝心。 でも どうみても美しくないでしょ? 人間の苦しみとか喜びを、バカにしてるとおもいませんか? ひとは哀しく ひとはか弱く ひとはかわいい 色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 諸行無常 宗教は、はまるものではなく、鑑賞するものである。
浅学の身で失礼します。 私には、経典そのものを信仰の対象とすることには、どうしても疑問を感じます。 法華経は立派な経典なのでしょうが、心のすべてを預けるといった信仰の対象からは遠ざかったもののように思います。 それは、自分の心を直接受け止めてくださるようには感じられないからです。 よく知られた法華経の中の観世音菩薩普門品第二十五偈の末尾にありますが すべての良き働きを身にそなえて諸人を凝視したもう しあわせは海のごとく無量である この故につつしみて礼拝するがよい とあります。 「諸人を凝視したもう」というところが大切だと思います。 深い智慧と優しさで見守ってくださる、ということでしょう。 そうしたものを感じ取れてこそ信仰といえるのではないでしょうか。 直接に如来の大慈悲心に触れることがなければ信仰とはいえないかもしれません。 経典は教えであり、そのものには慈悲心があるとは思えません。 経典は尊いガイドブックであっても、出会うべき対象ではないと思います。 如来の眼なざしを感じとれてこそ救いがあるのではないでしょうか。
お礼
浅学の身で… <(_ _)>とんでもございません。 参考にさせて頂きます。 ご回答ありがとうございました。
- 椋 むく太(@mukutta)
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創価学会を始めとした新興宗教には興味もなく、内容も全くよく知りませんが、自分なりに回答させて頂きます。 新興宗教、伝統宗教、信じる対象が何であるかに関係なく、「何か一つの(人の道として)正しい考え方」に正面から向き合いつつ、生活を送るようにしていると、自分の気持が純粋になっているような気分になれ、まっすぐな気持で生活して行き易い、ということはあると思います。こういった意味においては、「何か信じられる対象がある状態」の方が、邪心が起こり難く、より気分よく過せる、ということでしょう。 しかしながら、いくら「信じる者は、救われる」とは言っても、「ただ、信じているだけで、自ら何ら行動を起こさず、待っているだけ」では、何も変わらず、自身の心の(本当の意味での)充足はいつまで経っても訪れないことを、しっかりと分かっているのが重要だと思います。 「信じる対象」があった方が良いですが、それだけでは全く不十分で、結局は何事も「自分次第」ということではないでしょうか。「神頼み」ではなく、「自分の心の襟を正してくれる”対象”を持ちつつも、自分の道は自分で切り開く」生き方こそ、最期の時が来た折に、自分で納得して旅立って行ける在り方に繋がるのではないかと。 また、「信じる対象」は何も宗教だけではなく、例えば「自分自身の信念」や「自分が尊敬している先人・偉人の生き方・心意気」などでも、自分自身の心に来ることでさえあれば、何でも対象になり得ると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考にさせて頂きます。
- RKwarawara
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宗教を本気で悩んで考えるな。 洗脳されてまうから止めとけ。 相手はマインドコントロールの熟練者なんや。 簡単に人を騙せる。 もう関わるな。
お礼
ご回答ありがとうございました。 参考になりました。
お礼
娯楽 鑑賞 今ひとつ私には理解し難かったです。 ご回答ありがとうございました。