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人生の師について
道を外しそうになっている時や、姿勢(いろんな意味で)が 弛んでいる時に、叱ってくれる人生の師匠といえる人が 傍にいることは、とてもいいことだと僕は思うのですが、 人生の師と呼べる人が、あなたの傍らにいらっしゃいますか? その方はどんな方で、どんなきっかけで知り合われましたか? 差し支えなければお教えください。お願いいたします。
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自分で師と思っている人いますよ。二人います。 一人は、もう20年以上まえに冥界の人になっています。 私が、生まれ故郷から遠く離れたとある地方都市の大学に入って、4年生の春、友人と、「そういえば、この町で行きつけの喫茶店ってないよな」と話しをして、「じゃ、それを見つけよう」と探して入った2件目の店にその方はいました。 詳細は省きますが、その方の傍にいて(難しく言うと『謦咳に接したくて』)、その方がどういうときどういうことを言い行動するかを暫く見てみたい、と思い実行しました。4年生だから卒業まであと少し。就職もせにゃというとき。あっさり大学院へ進学しちゃいました。もう少しゆっくり傍にいられますからね、そうすれば。で、ずるずると腐れ縁のように、今もその町にいます。第二の故郷になっちゃった。やれやれ。 それから早30年の時を閲しました。やれやれ。 その方を自分の師と思い、これが例の「私淑」ってヤツだねと気づいたのは、手の届かない遠くに行かれた後のことです。生きているとき、傍にいるときはそんなこと考えなかった。永久に会う機会が失われて初めてそう思いました。 いつも、その方は心の中にいるので、「ああ、こういう行動をしたら何ていわれるかな」とか、色々なことをやり遂げたあとに、たまには「お、やるじゃない」と褒めてもらえるかな、とそう思いますよ。 その方は、そこにいるだけで「高圧電流」が流れているような方で、こちらもそのビリビリに感電しそうになるような方でした。それまでの20年くらいの自分の人生では出会ったことがなかったようなタイプの方でした。 その方の逆鱗に触れると高圧電流が瞬間流れて感電する。実際は、こころの中で「あっ」と気づくわけです。「こりゃ、迂闊だった」とか「そうか他人はそう思うのか」とか様々なことね。 よくラーメン店に名物親父っていますよね。自分のポリシーを曲げないひと。お店は喫茶店だったけど、そういう感じ。波長があったんですかね。気に入ってもらえて、いろいろ話を聞いて、教わるというより人生修業をタダでさせてもらっているという感じでしたね。いっぱい叱られましたけど。 もちろん人物的に非常に魅力に溢れる方ではあったものの、完璧な人ではないし、突然怒り出すし、怒り出すと店の中が凍りつくは、常連客がシーンとなってそのまま黙って消えていくはで、その場に居合わせないとなかなかその雰囲気は伝えられないものです。 いろんな意味で「社会」を教えてくれました。 もうおひと方はまだ元気です。 私より20歳以上年上の方です。 もと小学校の校長で、地元の市の教育会長まで務めたプロの教育者。 とある民間の学校の非常勤の校長をなられて、当時そこにいた私が業務を遂行するためにいろいろ公教育の現場のことなどを教えてもらいました。 それまでも公教育の現場には出入りしていましたからそれなりの経験がありました そんな経験が吹き飛ぶくらい公教育の中心にいた方で、プロ中のプロでした。教育者ですから人を育てる技量も卓越していらっしゃました。 その当時の私のポジションに必要な作法から教育現場の仕組み、人事の仕組みなど、決して外部にいては知り得ない内容も教えて頂きました。教え教わるとはこういうことか、と思いましたね。つまり教育的配慮とは何かを学んだ気がします。で、これがうるさい。くやしい事に全て理にかなっている。もうコテンパンにやられちゃう。特に生徒との接し方。 教育は実は誰でもできます。そこらへんのおっちゃんでもものは教えられます。でも教育のプロの凄さは、実は、用意周到に教えるということなんですね。これはそこらへんのおっちゃんが逆立ちしても、また適性のない教師でも敵わないものです。 このかたに毎日しごかれて過ごした日々があります。 やがて時すぎて紆余曲折いろいろあり、今では直接教えていただくこともなくなりました。別にその方、亡くなったわけではないんですが、そのこれまたあまりに強力な個性なので、傍にいるとこっちのペースを保てなくなるんですね。 でも、やっかいなことにこの方もいつもこころの中にいらっしゃいます。やれやれ。 こちらも自分の師とは意識していませんでしたが、いつのまにかそうなった。 さて、長々と駄文を綴ってきましたが、まとめますね。 師は求めるこころがあれば出会いが降ってきます。一目ぼれってありますね。あんな感じ。出会って数瞬、波長が合うというかピタッとおさまる感じ。 ついで「私淑」をすること。あらたまって入門とか宣言しなくてもいいです。あるこころとこころが出会えば分かりますよ。だから常に求めていなくてはいけない。出会って惚れる。これが肝心。じゃ、一生出会わなかったら…、それも人生でしょうね。でも、人生は短いようで長い。出会いがないほど短くはないです。 最後に、師は自分の人生を豊かにしてくれます。人間として鍛えてくれます。しかも無償でね。教わった私は、その何分の一かを誰かに返していこうと思っています。
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タイムリーな質問で開きました。 m(_ _)m >弛んでいる時に、叱ってくれる人生の師匠といえる人が 傍にいることは、とてもいいことだと 僕は思うのですが、… 否定で申し訳ありません。 これは、「小学校低学年の先生の言葉です。」と還暦過ぎて承知しました。 師とはこちらから一方的に決めることです。 師は言葉で教えてくれるとは、考えないでください。 ご自身の側から一方的に範とすものと思います。 隣家の主S氏が中卒で伸びる会社に就職して、定年を過ぎても重職に就いていました。 その、話される内容には感銘を受けたのです。 しかし、ささいな、その燐家と関係のない境界騒動で、馬脚を現しました。 裏工作の名人だったのです。 数々の職場での仲間を罠にかけて、失脚させていたのです。 私も乗せられていました。 2面も3面も顔を持っていたのです。 『私は、(きのう)まで、貴方を人生で一番尊敬していた。』 これがその人の理性を何度か外しました。 (一番ずるがしこい輩と気づいたという一念を視線に込めて言ったのです。) とても、尊敬していたひとは、大学を不祥事で去ったそうです。 とても、言い表せません。 いつも、笑顔で仕事を教えてくれたり、語学を教えてくれたりする女性の何人かに あこがれを持ちました。 アフターファイブに誘っても、私的欲情はでませんでした。 長いスパン・短いスパンで師と仰いだヒトは少なく有りません。 また、状況により、変わるものだと思います。 「二師に交えず」と耳に聞いたことが有ります。 目標を持ったときに複数のヒトの教えを乞うてはならないと言うことでしょうか。 仁義に反するし、芯がずれるようです。 言葉は日常的に交わしても、その人の行動や実績をご自分の生き方で評価して 手本にするのが、本当の師匠だと思います。 ことの是非を質しても良いのですが、間違いを正して呉れるのが師匠と思うのは 大きな間違い・相手の術にはまります。 ヒトをだまそうとするペテン師は、いきなりだましにかかりません。 多くのだます相手に、好印象を与えて、必要に応じて、切り札を出すのです。 つまり、接近してくるヒトには、要注意で、気配りを忘れてはなりません。 切り札がでなければ、いい人で終わるのです。 誰もが持っている資質です。 離れて、過去の人になったときに、師匠で有ったかペテン師であったか変わるのです。 ヤムを得ず、仕事の為に騙すのではなく、そう仕向けることは、必要なことデス。 ご自分には正直に生きましょう。 ヒトのみちを外さないように生きましょう。 ご家庭・職業により、不倫かどうかは違います。
お礼
「個」とは不完全なものだと僕は思います。 人が人生の師を求めるのは、自分という個が不完全 であるということが前提にあると僕は思います。 なので、歳を重ねることで個を鍛えるといった方法より、 「師」を求め、さらに「友」を求めた方が人生は 充実するし、また、そのほうが僕は好きなのです。 ご回答ありがとうございました。
- k-josui
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それは理想なのでしょうけど、まず「そんな人がいる」という人は希有でしょうね。 世の中は複雑です、様々な人間関係や、利害も絡んでいます。 いろいろな経験を重ねながら自分なりに理性を働かせて、自分という人間を高めて下さい。 還暦過ぎのおじさんから一言 「人の悪口は言わない事!」 回答でなくてごめんなさいね。
お礼
自分という「個」を強く持って生きるというのは とても、しんどいことだと僕は思います。 僕が今一番欲しいと思っているのは、 「人生の師」と「人生の友」なのです。 ご回答ありがとうございました。
- kappakreen
- ベストアンサー率10% (45/411)
師も人間ですから 完璧な人はいません 人間は歳を重ねるごとに 経験を積んで自分の考え 思想 ポリシーなどが確立されるはずです その時は師匠と思い 慕い 叱ってもらったとしても 後年 その方を超える事が最大の恩返しです という意味では 一生 叱り続けてくれる 師で有り続ける人はそうはいないと思います 親も 老いては子に従え ですよ
お礼
師は人格高潔でも、完璧でも、人情家でもなく また、その必要もないと教わりました。 師とは単に伝道者である。とある方から教わりました。 師となることが出来るのは、自らの人生で師を持つことが できた人のみであるとも教わりました。 解り難い表現ですみません。 ご回答ありがとうございました。
- shubal
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いません。そのたび転んで自分で立ち上がりました。人生はそんなものだと思っていました。
お礼
残念です。 ご回答ありがとうございました。
お礼
とてもいい話で参考になりました。 ただ存在するというだけで(その方の生死を問わず)尊敬の念と謙虚な姿勢の大切さを思い起こさせてくれる。それが「人生の師を持つ」ということなのですね。(確信しました) 僕のような者のために、親切、丁寧で長文のご回答(お時間)をいただき、適切なお礼の言葉もございませんが、ありがとうございました。質問してよかったです。