昨年話題になった例の本『これからの「正義」の話をしよう』に引用されている事例ですが、目の前にいる1人の命を救うことと、その人を犠牲にしてもより多くの人の命を救うことの違い、などを考えてみてもオモシロイかもしれませんね。
一例として戦場カメラマンの話をしましょう。紛争地帯で取材を続けるカメラマンの目の前に飢餓のために瀕死の子供がいたとします。カメラマンが採る選択肢としては2つ、その少女を救援施設に運び込むか、その少女の姿をカメラに納めることで世界に状況を知らせることに徹するか、です。もし質問者様がこのカメラマンの立場だったとしたら、どのような判断を下しますか?。
宿題の趣旨はこのようなモノです。質問者様が困惑しているのは恐らく「哲学」の言葉に囚われているからでしょう。哲学は人間の行動を支えそして裏付ける価値観の表象と言い換える事も出来ます。つまり「自分だったらどう考えて、どの様に行動するか?」を社会との繋がりにおいて最も根本的な問い掛けをすることから始まります。
ですから対象は様々にあります。何年か以前マスメディアで盛んに使われた「バリアフリー」との言葉を憶えていますか?。文字どおりには「障害者と健常者が共に暮らしやすい街づくり」を意図して示された施設や環境の整備指針でした。けれど今回の震災でこの言葉がどれほど浸透していたかが示された事態も報道されています。仮設住宅を造ったはいいけれど、そこに入居する人のことを考えた設計にはなっていなかった様子をニュースで見たことがありませんか?。入り口に続くスロープの角度が急勾配であり車椅子を使用することに不自由をきたしている。一方でスロープの緩やかな仮設住宅には五体満足な人が入居している。この2つの現象から違和感を感じたのは僕だけではないはずです。
仮設住宅の建設を急ぐあまり、そこで生活する人のことを等閑にしてしまったことで折角の住宅も不評を生み資材や建設に関わる人手や機材を提供した様々なメーカーや支援団体の善意も無にしてしまったに等しい。
ではこうした仮設住宅に利用価値がないかといえば、必ずしもそうとは限りません。そこに入居する人の実態に合わせた割り振りをすることで解決できる性質の問題も多分にあります。車椅子を利用する人にはスロープや室内の手すり、バスタブの高さが低い住居を優先的に紹介するなどの単純な方法です。
今お話ししたのはバリアフリーを例とした仮設住宅の提供に関する一つの提案、などと纏めることも出来るでしょう。
自分の身の回りにあり普段は気にも留めていないような問題は必ずあるはずです。一つの現実に対して自分がどう考えるか、まだ新学期が始まるまでに時間はあります。身の回りをよく観察してみて下さい。
お礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 回答を3行読んだところですぐに興味がわいて、「これからの『正義』の話をしよう」、読みました!とても考えさせられました。 そして、「安楽死」をテーマに、無事に論文書き終えました。 回答ありがとうございました。