※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:四道将軍(オオヒコとタケヌナカワ)の東方遠征)
四道将軍の東方遠征は何だったのか?
このQ&Aのポイント
古事記には、四道将軍としてオオヒコとタケヌナカワが遠征し、会津で合流したという記述があります。
遠征については疑問がありますが、遠征軍は多くても数百人程度だった可能性があります。
会津に存在する大型古墳は四道将軍か差の子孫によって作られたのか、また前方後円墳の存在から友好関係があった可能性も考えられます。
古事記には四道将軍として皇族将軍オオヒコとその子タケヌナカワが北陸と東海から遠征して会津で合流したという内容の記述があります。
これは遠征だったのでしょうか。
素人のイメージでも、とても千・万の軍を率いたとは思えません。多く見積もっても精々数百がいいところと思っています。
会津には4世紀と思われる大型古墳がいくつも存在します。これらは四道将軍または差の子孫が作ったものなのでしょうか。
もし遠征以前よりこれだけの権力をもった勢力があったら少数の遠征軍で戦闘ができたのでしょうか。
前方後円墳を作るということは少なくともすでにヤマトとの友好関係等があったと思われます。そんな大勢力にわざわざ遠征にいったのでしょうか。
また別の見方では、この地域は後々7世紀ころまで度々ヤマトの東征戦争がおこっています。
4世紀におこなわれたと推定される、オオヒコとタケヌナカワの遠征は何だったのでしょうか。
素朴な疑問ですが、あくまで記紀の記述は粉飾が多いにしろ、これらの遠征が何らかの形・人物でなされたということを前提としています。作り話だで結論付けられては疑問そのものが無意味なものとなってしまうので‥‥
お礼
ありがとうございます。 当方どちらかというと卑弥呼と大和とは別もの(イメージが重ならない)のように考えていましたが、倭迹迹日百襲姫命≒卑弥呼と考えると四道将軍に対してもそのような見方ができるのですね。 倭国の連合体は九州の狭い範囲のイメージがありましたが、少なくとも畿内以西、あるいは関東(尾張以東)を含む広い範囲と見るべきだったんですね。