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イネーブラーの罪
アルコール依存症で妻を亡くしました。 亡くなったあとに、私の存在がイネーブラー(共依存)であり、病状の進行を 手助けしていた事を知りました。 依存症から妻を救おうとしていたにもかかわらず、結果的に私は寿命を縮める存在と なっていた事に、大きな罪の意識を感じています。 私が妻の命を奪ってしまった、そんな感覚を持っています。 この罪を償うには、一体何をしたらよいのでしょうか? この罪は生涯、消える事はないのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 質問者様が罪を消そうと思うから多く苦しむのです。 また、その苦しみから逃れようと思うとまた苦しみます。 質問者様はその苦しみを受け止めることから始めてください。 罪は罪かもしれませんが、質問者様は奥さまを救おうとされていたんですよね。 そのお気持ちは奥さまも解っておいでになられたと思います。 罪の意識に打ちひしがれておいでになられては、それこそ奥さまは悲しまれるのではないでしょうか。 人は自分の判断で歩いた結果、自分では良いと思っても、自分以外には良くないという結果は多々あります。 それでも、それが貴方なりに精一杯の歩みであれば、仕方のないこともあるのです。 罪を償うとありますが、償うというお気持ちをお持ちならば、これからの貴方の人生の歩みを奥さまの喜んでくださるであろう歩みにされることです。 奥さまに恥ずかしくないように、喜んでもらえるように歩むことこそ償いであり、弔いです。 どうか貴方様の人生を奥さまと2人分の素晴らしいものにしてください。
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- taka-aki
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自律することでしょう。 自分のやりたいことをやってその結果を受け止めるべきです。 何かのせいにせずに。 あなたは奥さんの命をダシにして吸い取った。 あなたがそういう生き方をしたかったからです。 するのをやめる気になったのならやめればいいです。 次は罪とか罰とかをダシにして生きる気ですかね?
お礼
ご回答ありがとうございました。
罪を償う??? 何様のつもりでしょう。(失礼!) というか、そういう発想こそが「共依存」ではないでしょうか。自分に責任のないことにまで、責任を感じてしまう。自分の責任の範疇でもないのに、頭を下げてしまう。たしかに有りますよ、日本にはそういうのを美徳とする文化がね。でもそれって、『何様のつもり!』、『神にでもなった気でいるの?』、です。 http://yukiduke.jp/kyoizon2.html 感情幻想 何かあったあとから、『あのときこうすればよかった』というのは、“あと知恵”です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%A8%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9 人間の記憶は感情と結び付くと強く残る、という法則があって、反省する時に「自責の念」が自然と湧き起こるのはそのせいです。「今度からは注意してこうしよう」と記憶に強く留めるためのものでしかありません。ですから、罪悪感は持たなくてもいいのです。亡くなられた奥様は、あなたに罪悪感を持ち続けてほしいと思うでしょうか。幸せになってほしいと、思われていることでしょう。 人間の気持ちなんて、非合理的です。みんな共感しますよ、きっと。でも、「罪」と捉えるか、「残念」と捉えるか、間違えないでほしいのです。たしかに残念ではありますが、それが即、罪となるのでしょうか?。 http://www.katotaizo.com/lecture/index.html 「何が人づきあいを難しくするのか」…この神経症的・・、の神経症とはいわゆるノイローゼです。 「心の健康 ~幸せになれる人、なれない人~」 “事実”をどう“解釈”するかが、大切ということです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >奥さまに恥ずかしくないように、喜んでもらえるように歩むことこそ償いであり、弔いです。 こちらの一文を胸に刻み、生きて行きたいたいと思います。