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キリスト教の教えについて
- キリスト教の教えについての疑問として、イエスの死によるメリットや信者の信仰の根拠について質問があります。
- ゴスペルソングについて、主が私たちのために死んでくれたという一節について理解できない疑問があります。
- イエス様の存在に対しても、何も助けてはくれないと感じている疑問があります。
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質問者が選んだベストアンサー
>信者の方はスルーして下さい。 信者でないと説明できないと思いますのでご容赦下さい。 子供向けの聖書絵本ですが、 「みんなの聖書絵本シリーズ」の最終刊「せかいは新しくなる」に、 神様の歴史の要約がわかりやすく書かれています。 『はじめに神さまは天と地をつくりました・・・ ところが人間は神さまの言うことを聞こうとしませんでした。 神さまのつくったよいせかいをどんどんわるくしていきます。』 『神さまは新しいやくそくをしてくれました・・・ そのメシアがとうとう生まれました。イエスさまです・・・ 神さまのねがったよいせかいがはじまったのです・・・ ところが人々はイエスさまをうけ入れようとはしませんでした。』 そして地上からわるいものをとりさりせかいを正しくおさめます。 そのときせかいは新しくなります。 神さまがはじめにねがったような 「とてもよくできた」せかいとなるのです。』 これを前提にして話しますが、 まず、イエス様が死なれた意味ですが、これは見えない霊的な価値観が理解できないと納得できません。 この世は悪魔と神様が人間を引っ張り合いをしています。しかし人々はどうしても悪魔に流されてしまう。 だから、誰かが条件を立て、犠牲となって、悪魔から人々を開放する必要があったのです。 喩えるなら、不良ばかりの高校があった。生徒たちに将来がなかった。街のヤクザが生徒を悪い道に誘惑していた。そこの校長は生徒を愛していたので、自身が犠牲となり、ヤクザが生徒に手出しができないよう封じ込めた。それがイエス様の働きです。 しかし生徒の多くは校長の働きに気付かなかった。 質問者さんなど、多くの人が気付けない霊的な次元では、昔のような悪魔からは大いに開放されているのです。 そして、「イエスさまはもういちど地上に来られます」、とあるように、実はまだ完全に救いは成されていません。 原発問題で利権が暗躍するように、まだまだ悪魔が幅を利かせる世の中です。 信仰を持つ、イエスの側に立つことは、悪い世の中で少数派になること(小出先生みたいに)。苦労は必須です。 ご利益的な宗教が主流の日本では理解できないでしょうが、イエスを信じることの根本を勘違いしてはいけません。もちろん、違う意味での永遠の祝福と平安がありますけど。 しかし、イエスが本来十字架に掛かるかどうかは民次第でした。聖書の歴史を見ると、 民がメシアを受け入れ、平和が成される予言と、民が受けいれず犠牲になる予言の二通りがあります。 イエスが救い主と人々が気付かなかったので、十字架は非常用の選択肢だったと考えて下さい。 イエスの十字架で確かに救われました、しかしそれは「結果として」仕方なくそうなったことです。イエスが80年生きて活躍した方がどれ程よかったでしょうか。 これは伝統的なキリスト教の十字架の教理とは違うかも知れませんが、現代ではキリスト教の矛盾にいろいろ答えが出つつありますよ。 最後に。信仰を理解することは簡単ではありません。現代のキリスト教も葬式仏教のように間違いをたくさん犯しています。本当に信仰の本質を見出している人はむしろ少ないかも知れません。 だから、質問者様のように、わからなくなる人が多くいます。でもあきらめずに、イエス様の隠された人生の宝物を見出して欲しいと願います。内村鑑三なども読んでみて下さい。 偏見なければこちらもどうぞ。 http://www.setsuri.com/modules/d3pipes/clipping/4650.html http://www.setsuri.com/modules/d3pipes/clipping/3951.html
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- hrsmmhr
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信者ではありません。 キリスト教も仏教も、キリストや仏陀が真理を説きましたが 今のように教会やお寺を作って広める活動を勧めたわけではなく 後の人が、その教えが素晴らしいと思って布教活動を始めています ですので開祖が恩着せがましいというのは、当たらないです。 宗教の教え等は、本来は書物や言葉やお祈りで得られるものではなく 唯一分かるかもしれないのは、その人の生き様で実証することで、 後の人が理解できる場合があるだけです。 仏教の場合だと、小乗仏教のように修業をして悟りを開くといった アプローチをする方法は教えるが自分で考えろ的な教えになったりします 十字架のエピソードは、それを行うことで、弟子たちがその教えの正しさを体得できたという意味で その後の布教活動が始まり、少なくともキリスト教を信じる後世の人たちには、 真理を理解する機会と場所が与えられていることになり そのことがありがたいという事だと思います。 信者の方たちが、何を以て信じるかは私にもわかりません。 大乗仏教では理解することよりお祈り等をすることで真理が体得でき、 それでその後の人生もしくは来世で助かるのだ (世が乱れて社会不安が蔓延するときには、何がに縋りたい、これをしていれば道は開けると 信じられることで心の安寧を得られる場合がありますので広まったと理解してますが…) という教えになっていますが、 しかし繰り返しますが本来真理等とは、その言葉とかで表現できるものではなく すがるようなお祈りをすること自体は、真理の探究を諦めたことに対する一種の代償行為でしかないと言う気がします。 お祈りは、それをして、そこで何かを考えて、自身の生活で生かすことで何かが分かるかもしれないという代物です なのでメリットがないと思われるのは、お祈りをすることだけで何も得られないという意味で正しいのですが お祈りだけをしていればいいと思ってお祈りをするからメリットがないとも言えると思います。 形式だけを追求する現在の宗教は、真理に近づける場所のようで実はあまり(無信心者とも)大差がないと思います
お礼
とてもわかりやすい解説をありがとうございます。 確かに目の前で十字架にうたれるのをみれば、 色々と学ぶことがあったでしょう。 伝える時にも、具体的なインパクトのある話として意味のある行動だったのでしょう。 そういう意味で、私たちの為に~と弟子が言ったという考えも理解できる気がします。 そして、やはり信仰してる人も何かあったというよりは、 合格発表前に神頼みするという感じで、 いいように神頼みをしているんですね。 神に祈って罪を許してもらうという話がありましたが、 あれは罪を犯した人が信仰をいいことに神を利用しているとしか思えませんでした。 そういう意味で、神を信じることでメリットを生じる人もいるんですよね。 信者が多くなり、統制できる人もいないので、 個々で解釈し広めていくことで、 どんどん宗教の信仰とは言っているけど、 それぞれ別物になっていて 仏教もキリスト教も場所や形式など大きなところは違うけれど、 無宗教の人とも、人生は変わらないんじゃないかと思いました。 ありがとうございました。
- 畑山 隆志(@deltalon)
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本来宗教は「そんなもんだね」と信じることから始まる。 どの宗教も始まりは説明できないことからスタート。そこから論理を組み立てていく。当然矛盾が沢山発生するので、論理の構成だけは緻密になり、隙がなくなっていく。だから始まりが信じられなければ、それでおしまい。 あのガリレオの天動説が拒否され、コペルニクスが受け入れられたのは。神が創ったのだからより整合性が高い説明が出来るはず。ならばガリレオの説明よりコペルニクスの説明の方が(方程式の数が少ない)のでシンプル。つまり神の世界に近づいているのでOK。 たとえば神や奇跡、お告げ、預言はそもそも存在したのかとか、現実との関係は証明されたことは無い。だから多くは秘密にされる。でもそこだけ信じた連中は、そこから現実を解釈していく訳だから、昔いわれたマルクス主義は宗教みたいなものといわれたのと同じ。当然、身内だけで伝わる言葉が広がっていくので、「愛」や「助け」の意味も変わっていき、やがて解釈もバラバラになり派閥が生まれる。 こういった身内だけで待たれ合おうとするのは、いまの役人達と同じ。だから個人的には仏教徒で良いんじゃないかと思っている。だって「仏になるために努力」することだけが教えだから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 信じないと、始まらないですか。 納得する回答が得れれば私も信じるのに、 具体的なことはいつも教えてもらえず、疑問に思ってしまいます。 信じた人が勝手に解釈していくから、派閥ができる。 本当にそうですよね。自分にあうように、無理やり納得できるように解釈してる気がします。そこまでして信仰する必要があるのか疑問に思うところもあります。 宗教って、難しいですね。 ありがとうございました。
- hekiyu
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そんな理屈というか理論で考えたら宗教なんて 矛盾だらけです。 イエズス会が来日して、日本人に布教をしようと したら、やはり貴方のような人がいて、往生した という記録が残っています。 具体例として少しあげてみます。 1,入信すれば救われるというが、それでは先祖は救われないのか。 先祖を救ってくれないような宗教では困る。 2,神と悪魔、善と悪、というが、善悪などは所詮相対的 なものだろう。 3,この世が存在するということは、誰か創ったものが いるはずだ。それを神というのなら、神は誰が創ったのだ。 神は自ずと存在するというのなら、山川草木ことごとく 自ずと存在するとして何が問題なのか。 ただ信じるだけなんですね。 宗教てのは。 それだけに危険でもある訳です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 往生ですか。 おっしゃるとおり、善悪は、絶対的なものがなく、勝てば善になる社会だと思います。 悪魔が本当に存在したのか、神が善になるために普通の人を悪に仕立て上げたのか、誰も今は分からないですよね。 そして、神は誰でも愛しますといいながら、信じないといけないだとか、高額な物を売りつける人だっています。 信じていて人を罠にはめうとしてる人と、信じてないけど人に害を与えない人だったら後者の方が愛されるべきだと思います。 考えるとおかしいことが多いですが、理屈ではないんですね。 ありがとうございました。
- maa0210
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ちょっと厳しいかもしれませんが… そもそも、信仰はメリット、デメリットで考えるものではありません。 信じていたとき…とは何をどう信じていたのでしょうか? 信じたんだから何かしてくれ…ではなく、その人の教え、考え方を理解し、共感し、同じ考えをもって行動する事が信仰だと思います。 聖書をきちんと読んで理解しましたか? それがなければ「サンタクロースさんっているんだよね?」と言っている子供と何ら変わりません。 サンタクロースを信じていたらプレゼントは必ず貰えますか? 同じことですよ
お礼
ご回答ありがとうございます。 小学生の時、教会でずっと聖書を読んでいました。 ガリバー旅行記みたいに聞いてて、理解できてなかったのかもしれません。 プレゼントもらえないから、サンタはいないって思ってしまった人間です。 ただ、一般的にサンタはいないというものになっているのに、 どうして宗教はありつづけるのでしょう。 サンタがきちん物で判断するけど、 思想は目に見えないから信じつづける人が多いってことなんでしょうか。 難しいですね。 ありがとうございました。
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お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 ご回答ありがとうございました。