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萬葉集 巻第一17、18に関して

小学館 日本古典文学全集 『萬葉集1』からの転載です。 額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌 17味酒 美輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや 反歌 18三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷せし時に、三輪山を御覧す御歌なり」 といふ。日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」 といふ。 さて、NHK教育TV『日めくり万葉集』7/13放映によれば18は額田王作だそうです。何故彼女の作だと言えるのかが分かりません。回答の形式はご自由ですが知りたいことは下の通りです。 1. 序詞の「額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌」とはどう解釈するのか。「17を額田王が詠い、18を井戸王が返した」と読むのか。「17を井戸王が詠い、18を額田王が反した」と読むのか。どちらでもないのか。要するに、誰が17を詠み、誰が18を返したのか。 2. 小学館版の解説では、類聚歌林の記事は2首とも天智天皇作だと述べていると解釈していてNHK説と対立しているように(私には)読めます。NHK説は定説なのか、一つの学説なのか。また類聚歌林がいうように同一人物が反歌まで詠うことがあるのか。更に、類聚歌林は2首とも同一人物の歌と述べているのではなく、一行が近江国へ去るに際して雲に隠れている三輪山への思いを額田王と井戸王が詠んだ歌だといっているのか。 よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.7

コディさんは去年10月ごろ遁辞の山を残して蒸発したが、最近舞い戻った。ご存知ない方は質問履歴をご覧ください。毎度毎度の亀踊り(動かない!)は、十八番の域に達している。 そのパターンとは、あれこれの学術分野の本、概論書やそれに類するサイトを提示して、一見高度な質問をするというものである。しかし、実は高校程度の基礎も怪しいコディさん。あまつさえ拗(ねじ)くれているから、狐疑して止まってばかりである。今回彼が疑ったのは、万葉集を解説したNHK教育の連続ミニ番組だった。 〉 小学館版の読み方がkorokoro1980さんと私では一致しません。 コディさんの場合は「読み」ではなく妄想である。小学館版を開いたが、本文はおろか解説も理解できないので、妄想を膨らませた。「17が額田王で18が井戸王」、あるいは「17が井戸王で18が額田王」とか何とか。そしてコディさんは奇異な質問文を立てた。 〉 さて、NHK教育TV『日めくり万葉集』7/13放映によれば18は額田王作だそうです。何故彼女の作だと言えるのかが分かりません。 これは、「(異伝などを省略した)短い説明では、18が額田王の作とされるのは分かります。それにしても……」と質問しているのではない。そもそも何故彼女の作だと言えるのか、分からないとおっしゃるのだった。「同一人物が反歌まで詠うことがあるのか」だと。そこから説明してあげないといけないのですね……。 しかもコディさん、小学館版は読んでいるのである。短い説明(巻末の一覧)だけでなく、長い説明が載っている詳しい本だ。読んでも読めていないのか。反歌は18だけじゃないし、その本で他の長歌と反歌の組み合わせも見ればいいではないか。勉強の仕方を教わったこともないようだ。 コディさんは、読んでも聞いても狐疑して棒立ちになる。秘技亀踊り。むやみに因縁をつけては、「ここから一歩も動かないぞ」と凄む。しかし確実に一歩一歩というよりは、むしろ退歩している。千回質問しようが進歩がないこと、十年一日の如しである。 〉 1.断固、額田王作とし、異説を一蹴する者・・・korokoro1980氏 これはコディさんの幻覚である。眼前のテキストが読めない人だから、回答文も読めてやしない。 また、コディさんは「主張」がお好きらしいが、専門家でもないのに万葉集の歌について自ら「主張」をなす人は、そう多くないだろう。私は取り立てて主張はしていない。せいぜい受け売りするぐらいである。ところが、書物を読解できないコディさんにとっては、その書物の素直な読みを呈示する私が、「主張」しているように見える。 〉 >>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<が「長歌と反歌は、別人が作ることもある。」を許容したものでないことが判ればそれで十分です。 これもコディさんの幻覚である。「普通」に突っかかったあげく、勝手に取っ払ったらしい。しかしコディさんが許容しなくとも、専門家は一部の巻における例外を考察している。3261、3284の左注に対して、専門家は頭注で異見を立てている。 亀は長生きします。名前も付けました。

sono-higurashi
質問者

お礼

>> 〉 1.断固、額田王作とし、異説を一蹴する者・・・korokoro1980氏 ・・・・・専門家でもないのに万葉集の歌について自ら「主張」をなす人は、そう多くないだろう。私は取り立てて主張はしていない。せいぜい受け売りするぐらいである。<< おほほ。鼻息が随分後退したものです。心配になってきましたか。ここで「受け売り」と言うのは責任の所在を小島氏に擦りつけようとする発言です。小島氏も大変な方を売り子としたものです。受け売りとは元売りと同じ商品を売ることです。元の商品と別物を売る場合は受け売りとは言いません。 3261、3284がお好きなようですが、これらは萬葉集には代作が混在していることを示唆しているだけです。ここから即、18が代作と断定し、質問する者を扱き下ろし、それを公表できるのがkorokoro1980さんのスバラシイ能力です。 売り言葉は買いません。korokoro1980さんに扱き下ろされたとて些かの痛痒も感じません。むしろ歓迎です。korokoro1980さんに褒められては「褒め殺し」という奴でオシマイです。学があれば何とかいう儒者の言葉をもち出すところです。 萬葉集には専門家ばかりでなく関心をもつ趣味人が沢山おられます。この珍妙な遣り取りを読んでいる方も少なくないでしょう。korokoro1980さんのお人柄が普く且つ余すところなく読者に伝わって結構でした。有り難うございました。 korokoro1980さんとの会話は終了しています。No.6のお礼欄を再読するとよいです。登録名をコロコロ代えればよいだけですからブロックなんて野暮なことはしません。またお出でなさいまし。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ korokoro1980さん以外の皆様へ 「海の日」と「土・日」で休日を都合3日挟みましたが反響がないので締め切ります。 良識派にとって異説に一切触れずに額田王作と決めつける根拠を挙げるのは困難なのかもしれません。また、こうして論理を無視した感情論が続く回答群に良識派は割り込み難いのかもしれません。見苦しい遣り取りをお見せして済みませんでした。 それにしても『類聚歌林』が失われているのはつくづく残念に思います。

回答No.6

小学館版から次の3点が分かる。 (1) 万葉集を素直に読むと次の通りである。すなわち巻1の17、18は額田王の作、19は井戸王の作。ただし17、18は天皇の作という異伝がある。「大昔のテキストに書いてあるそのままやんけ、でございます」。 (2) 小学館版の編注者たちは、この件に関し昔のテキストに対して、特に異存は述べていない。「17-19の注釈にそれがほとんど見当たらない」。 (3) コディさんが小学館版を読んで質問文に書き連ねた感想は、小学館版と齟齬している。「全く読めていない」。以上。 万葉集は、しばしば各歌に題詞が付されている。題詞とは、歌の前書きとして作歌の事情や作者などを記したものである。また、左注も付いている場合がある。左注とは、歌のあとに万葉集の編纂者が付けた注釈である。 巻1の17の題詞により、17、18は額田王の作、19は井戸王の作と解される。これを(a)説とする。18は17の反歌である。19の左注は17の題詞と呼応している。 また18の左注は、17、18が天皇の作という異伝を伝えている。これを(b)説とする。ただし、この左注の筆者は(a)を否定するほどの剣幕ではない。他の本にはこう書いてあると引用しているだけだ。以上、ここまでは万葉集のテキスト(底本)である。 現代の学者はこのテキストを校訂したうえで、さらに頭注・脚注などの形で注釈を加えている。小学館版や岩波版などは、単に古文と現代訳を載せるだけではない。各歌に注解を施している。 題詞・左注に対して異存があるなら、それを注釈に書かずにはおかないほどの詳しさである。書いてなければ、編注者らにはたぶん異存がないのだ。そこで巻1の17、18の頭注・脚注を見ると、歌の作者について特に論じていない。「(a)が主、(b)が従」を逆転させて(b)を主と見ようとする注釈なども加えていない。逆に(b)を強く論難しようともしていない。 さらに「人名一覧」を見ると、(a)の通りである。これは早見表として利用する方法もある。しかし、各歌のそばにあるのは頭注・脚注だから、まず読むのはそれだろう。そのあと、巻末の人名一覧も見る。コディさんは巻末まで見ていなかったようだが。 > 「人名一覧」の額田王の項に巻一の16、17、18が挙がっているからといって小島憲之氏ほか2名の編者が、17、18を彼女の作だと主張していることになりますか。 「主張していることになりますか」ではなく、主張があるなら頭注や脚注などに書くのが筋である。それが書いてないということは、17、18、19の作者に関して、編注者らには特に主張がないということだ。 この読み取り方は、すでに述べた3260と3261、3284と3285の組を見ることによっても補強される。それらの左注(万葉集の編纂者によるもの)に対して、岩波版の頭注(現代の学者によるもの)は異存を述べているのであった。左注は、「作者は同一」という決まり事に沿って歌中の「君」、「妹」の使い方が理に合っていないと指摘している。それに対し頭注は、巻13の場合その決まり事のほうこそ必ずしも守られていないと述べた。 ただし(2)から言えるのは、編注者たちが異存を述べていないから「たぶん」異存はないのだろう、ということである。「たぶん」で話を終わるのもなんなので、『万葉集必携II』(学燈社)を紐解いてみよう。 これは万葉集のテキスト全体は載せてないが、有名な歌それぞれについて、現代までの研究の蓄積や通説・異説などを概観した便利な本である。まあ私たち素人が読める最もレベルの高い本は、このような本だと思う。 これによると、巻1の17、18は額田王の作、19は井戸王の作と素直に解するのが学界の通説という。もっとも、昭和10年の菊池寿人『万葉集精考』などは異説も唱えているが、それらは「恣意に改変する説」と評されている。岩波の古ーい版の注釈で示唆されている異説は、それであろう。 一方、近年支持が増えているのが額田王代作説だという。17、18の実作者は額田王、名目上の作者は天皇とするものである。これについても回答ですでに触れた。代作説は(1)とも適合しそうだ。

sono-higurashi
質問者

お礼

korokoro1980さんの「人名一覧」と本文の解説記事(P.35、36)の読み方、並びに主張は分かりました。同意するという意味ではありません。 これがkorokoro1980さんと私の最後の対話になると思うので私の見解を記しておきます。 P.35、36は小島憲之氏他2名の編者が底本とした「西本願寺本」を忠実に解説しているだけであって、18が額田王作だと述べているとは思えません。 小島氏に「18は誰の作ですか」と質問したとき、「額田王作だね」という趣旨のご返事がある可能性は否定しません。しかし、「P.35、36の 解説記事は18が額田王作であることをも述べていますね」とお訊ねしたとき、「そうだ」との返事が戻ってくるとは思いません。 萬葉集には代作が混じっているとするのが定説らしいことは認めます。しかし、これを根拠に18が異説のあることを紹介する必要がないほどに代作であると断定してよいとは思いません。各個人が代作であると考えるのは自由です。 また、憶良の『類聚歌林』が実質上の作者でなく形式上の作者を述べているに過ぎないとの説があるらしいことも認めます。しかし、これを根拠に18の作者が天智天皇作でないと断定してよいとも思いません。これもまた、各個人が憶良説を否定するのは自由です。 「異説あり」と一言入れておくことと、入れておかないこととは学問上、大違いです。個人の立場で18を額田王作だと考える人は沢山いると思います。どう考えるかは全く個人の自由です。しかし、額田王作だと断定し、公表できる人はそんなに多くないのではないかと思います。どなたが代作説の急先鋒か承知しませんが例えば伊藤博氏、中西進氏らの論文や著作を挙げた上でならば、いざ知らず、小学館版P.35、36から異説を無視するのは無理があると思います。 18の作者について纏めておきます。 1. 断固、額田王作とし、異説を一蹴する者・・・korokoro1980氏 2. 額田王作とし、異説の存在に触れない者・・・NHK 3.異説を紹介し、慎重である者・・・萬葉集「西本願寺本」の巻一の編集者(不詳) 4.天智天皇作とする者・・・山上憶良 5.2と4の不整合を解きたい者・・・私 2を補足します。然るべき背景をもつ方がNHKに問い合わせると仮定したとき、NHKは1へ移行するかもしれないし、3へ移行するかもしれません。異説に一切触れていないので私には判りません。 この質問の前提である小学館版の読み方がkorokoro1980さんと私では一致しません。よって、二人の対話はこれにて終了です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ korokoro1980さん以外の皆様へ 異説の存在に一切触れないでよい確たる根拠を知りたいです。 早くても7日(日)24時までは締め切らずにおきます。よろしくお願いします。

回答No.5

狐疑するディレッタント氏に敬意を表して、狐ディ、コディさんと呼ぼう。何だかカッコイイ。ただし、残念ながらコディさんには基礎がないらしい。 万葉集には長い歌があって、その作者は短い歌までも作って添える。長歌と反歌は普通同じ人が作る。昔そう習った。しかし知らなくても、基礎がある人なら、これを聞いて立ちすくんだりはしないだろう。 万葉集は「よみ人知らず」の歌もずいぶん多いという基礎知識があるからだ。「よみ人知らずの長歌・反歌もあるし、断言するのもなあ」とすぐ気付く。そりゃあ「普通」という言い方になるよな、と。 しかしコディさんは狐疑するばかりで、自分で勉強を進める道は知らない。例えば質問履歴を拝見すると、5年も前から原子物理学の質問を繰り返しているが、さっぱり進歩がないことに驚かされる。 さて万葉集は4500余首もあって、注釈も付いて分厚い本で4、5冊というボリュームだが、各歌の作者を調べる手軽な方法がある。各巻末の「人名一覧」を見るのだ。 反歌付きの長歌は220首である。作者未詳の歌は人名一覧に当然載っていないが、作者が判明している歌については、人名一覧でどんどん調べられる。長歌と反歌とで異なる作者を明示しているケースは、ひとまず見当たらないようだ。もれなく調べなくても、「普通同じ人」ということは言える。 昔、大学の教養の選択科目で教わったことが正しいと確認できた。 以上で、私のレベルでは話は終わりである。しかし、専門家はずっと深く研究している。例えば前にもちょっと触れたが、巻13についてである。巻13は、通し番号3221から3347までの127首をおさめる。半数以上の66首が長歌という特異な巻で、それに反歌が付くことによって成り立っている。しかも作者未詳の歌ばかりだ。 岩波の『日本古典文学大系』の頭注(現代の学者による注釈)は、「長歌と反歌は巻十三の場合必ずしも同一の作者でない」と述べる。具体的な番号を挙げると、3260と3261、3284と3285の組は、作者の性別からして異なっている。よみ人知らずの歌だが、歌中の「君」、「妹」という言葉から作者の性別はうかがえるのである。 もっとも、巻13の左注(万葉集の編纂者によるもの)では、「作者は同一」という決まり事のほうを尊重して、歌中の「君」、「妹」の使い方こそ間違っているとしている。 一方、専門家には「巻13における長歌と反歌は時代が異なる」という説がある。それによると、古伝の長歌に、後人が新たな見立てを施して反歌を付加した組み合わせがあるという。この説は、「誰だか分からないなら、同一と言いきれないよね?」などのレベルをはるかに超えて、巻13の成立の秘密に迫る研究だろう。 コディさんは、「これは、普通でない場合は別の人が作るという主張です」と書いた。岩波版の頭注を見たら、「これは、巻十三以外は必ず同一の作者という主張です」と言い出すかもしれない。 それならば話は簡単だが、それは「裏」である。裏は真の場合と偽の場合がある(逆が偽なら裏も偽。裏は逆の対偶だから)。作者未詳の歌は巻13以外にも多い。 狐疑して動かないかと思えば、裏でも構わず猪突する御方なのだった。

sono-higurashi
質問者

お礼

以前から判っていたことですがkorokoro1980さんの人柄と言動は心理学の立場からは実にオモシロイです。心理学の如何なる分野の対象としてオモシロイのかは自分で考えるとよいです。 繰り言と対話を無視した話が続くのでkorokoro1980さんの言いたいことは尽きたものと判断し、そろそろ私が動く番です。遠からずNO.4までの全てに返事します。それに先だち確認しておきます。 NO.2に疑義が残っています。私がNO.3のお礼欄、NO.2のお礼欄を埋めた後、この順序で読み、NO.2のお礼欄の求めに応えることがkorokoro1980さんの当面の義務です。これを確認しておきます。 [28日(木)23時、記]

回答No.4

先ほど「巻1・17」という書き方をした。これは第一巻・通し番号17の歌という意味である。万葉集は全20巻で4500余首をおさめるので、通し番号も4500余りまである。 また、巻1の19には次の左注がある。 〔引用開始〕 右の一首の歌は、今(いま)案(かむが)ふるに、和(わ)せし歌に似ず。但し、旧本この次(ついで)に載す。故に以て猶(なほ)しここに載せたり。 〔引用終り〕 この「和せし歌」は、17の題詞の「井戸王の和せし歌」と呼応している。つまり、左注者は異議があるものの、旧本に従い19は「井戸王の和せし歌」として載せられている。以上、岩波書店『新 日本古典文学大系』による。小学館版なども同様である。 結局、岩波版も小学館版も、巻末の「人名一覧」で17、18を額田王、19を井戸王の作としている。 〉 回答の第一声は>>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<です。 〉 無知であるから質問するのであって質問する立場からは、ここは素通りできません。 〉 ここを通過した後にNo.1もNO.2もkorokoro1980さんの回答を忠実に読んで反応します。 〉 今のところNO.1もNO.2もないのと同じですから読んでいません。 相も変わらず立ちすくんでいらっしゃるようです。学校で各教科を勉強しなかったらしい御老体。基礎がない悲しさで、読んでも聞いても狐疑して立ち止まるばかり。

sono-higurashi
質問者

お礼

・「巻1・17」と「第一巻・通し番号17」について 心配無用です。私は論理の欠陥は詰めますが、揚げ足を取ったり、言葉尻に噛みついたりはしません。用件が足りればよいという主義です。 ・前半はNO.2の一部の繰り返しですから後半の罵詈以外には何も内容がありません。 確認しておきます。NO.2に疑義が残っています。NO.3のお礼欄、NO.2のお礼欄の順序で読み、NO.2のお礼欄の求めに応えることがkorokoro1980さんの当面の義務です。7/29(金)、6:50、記。

回答No.3

〉 長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<の真意でも結構です。 返事を待っています。 この人は衒学趣味というか、つまみ食い読み(?)するばかりである。質問文で小学館版から引用していらっしゃるのに、万葉集の大まかな全体像さえ知ったことではないらしいのだった。 反歌は長歌に添えるものだが、万葉集全体で長歌は265首ある。その中で反歌を添えたものは220首ある。 作者が示されている歌については、長歌と反歌の作者が異なるものは、まず見当たらない(小学館版や岩波書店版など)。 しかし、例えば巻13だが、長歌が66首ある。反歌が添えられている。ところが、巻13の歌は、作歌の事情と作者を示す題詞をほとんどもたない。のちの世に作者が伝わっていない。 それでも、長歌と反歌の作者は同じということが、形式となっている。「その同じ人は誰?」「誰だか分からないなら、同一と言いきれないよね?」と、中学生ならごねそうだ。 また、巻によっては反歌を「短歌」と書いてある。底本がそうなっているのである。さらに巻17では、反歌なのに原テキストには「反歌」とも「短歌」とも表示がないことが知られている。 以上のような事情をつづめていうと、「長歌と反歌は普通同じ人が作る」が妥当である。 それはさておき、質問番号6891504の質問文についても。 〉 1.原子番号が偶数の場合はよいとして奇数の場合、ぺアを作れない残りの一つの電子はどう配置されるのですか。 偶数の場合、何が「よい」のですか? 偶数の場合も電子はしばしばペアを作らない。ペアになっていない電子を、不対電子という。しかしこの人は、不対電子など知ったことではないらしい。 奇数ならペアを作れないのは当然だが、偶数でも、電子はペアにならずに配置される。それがフントの法則の意義である。 〉 奇数の場合、ぺアを作れない残りの一つの電子はどう配置されるのですか。 偶数の場合もしばしばぺアを作りませんが、電子はどう配置されるのですか? ペアを作らない残りの電子は、一つだけではありませんよ。 要するに、質問文の1.自体が誤った思い込みに基づいているわけだが、この人はいつまでたっても分からない。次のように言い出すありさまだった。 〉 私はこういうことを質問していません。これは質問とは無関係にkorokoro1980さんが発言したいことを述べているだけで、不必要に話題を拡散させています。 質問の1.はNO.1で解決済みです。

sono-higurashi
質問者

お礼

1. 萬葉集に関して No.3で述べるkorokoro1980さんの主張の当否には関知しません。NO.1の>>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<が「長歌と反歌は、別人が作ることもある。」を許容したものでないことが判ればそれで十分です。 この結果、>>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<の個所を通過できます。この部分とkorokoro1980さんの人格から滲み出てくる文言を除けばNO.1は小学館版の述べる通りですから、これにてNO.1は通過です。 続いてNo.2の吟味に移ります。No.2のお礼欄を読んで下さい。 2. 電子の軌道配列に関して 質問番号:6237356、即ちkorokoro1980さんの「日韓条約、韓国政府主張に正当性あり説」のNO.5のお礼欄が空いているので、ここを用いて返事をします。 今は「これは異な事を聞く」とだけ言っておきます。 教えてgooがこういう使い方を認めるか否かは承知していませんが、萬葉集に関する質問の中で絡ませるよりは、よほど鬱陶しくないと思うので、そうしておきます。7/29(金)、6:20記。

回答No.2

〉 18は額田王作だそうです。何故彼女の作だと言えるのかが分かりません。 「長歌と反歌は普通同じ人が作る」という基礎知識がなかったことが、この愚問の発端だった。それはともかく、 万葉集の巻1・17の題詞によれば、 17、18は額田王の作、19は井戸王の作 …(a) 万葉集の左注によれば、 17、18は天智天皇の作 …(b) 上記のように、万葉集自体が両論併記である。万葉集より昔の歌書で『類聚歌林』(山上憶良・編)というのがあり、万葉集の編者はそれから引用して、(b)の左注をほどこした。 両論併記といっても、万葉集の編者は(a)を主、(b)を従とした。もし(b)のほうを主としたかったら、それを題詞にする。しかし、そうしなかった。題詞は(a)を示しており、異伝として(b)もあるよと編集した。 この、昔から伝わる万葉集のテキストに、現代の学者が頭注・脚注・巻末付録などの形で解説を付け、出版している。 したがって、短い説明(異伝などは省略)では、17、18を額田王の作と記すことになる。NHK教育の番組ももちろんその方向だろう。18を額田王の作とした。 また小学館版でも、「人名一覧」で17、18は額田王の作としている。「人名一覧」は巻末に載っていて、作者別に歌の番号をまとめている。 〉 これは、普通でない場合は別の人が作るという主張です。 いいえ。「普通同じ人が作る」ということから導き出せるのは、「同じ人が作らないなら普通ではない」である。これを「対偶」という。「普通でないなら同じ人が作らない」は「裏」といい、同値ではない。対偶、裏、同値などについては、算数に毛が生えた程度の数学で習う。 論理の基礎さえ知らないことが、さらけ出されている。 〉 序詞 これは誤りである。「序詞」の意味が分かってないのかも知れない。「古文」を習う以前に「国語」の中で習う。指摘するのも可哀相なので放置プレイしていたが、「何時まででも待ってい」るそうなので、さらし者状態になっている。 〉 「17を井戸王が詠い、18を額田王が反した」と読むのか。 それはない。脳内で乱丁していらっしゃいますね。 〉 「17を額田王が詠い、18を井戸王が返した」と読むのか。 それはない。18は反歌(はんか)で、反歌とは長歌の後に添える短歌である。長歌の意を補足したり、その大意を要約したりする。自分で要約するわけだ。 〉 同一人物が反歌まで詠うことがあるのか。 「あるのか」どころか、大有りである。反歌に関する基礎知識だ。 そもそも万葉集ともあろうもの、その中でも有名な歌について、素人が無知な珍説をこねるのは滑稽だろう。 長歌と反歌の作者が異なる場合は、特筆すべきケースとして学者が注釈に記さないはずがない。しかし、ものの本で、17-19の注釈にそれがほとんど見当たらない。つまり普通どおり作者は同じということになる。まあ岩波書店の古ーい版の注釈では、異説の存在も示唆されているが。 なお、(a)、(b)を止揚させたような学説がある。それによると、額田王は天皇の代作をしていた。額田王が17、18の実作者、天皇が名目上の作者となる。 〉 これは山上憶良説とNHK説との孰れに信憑性があるかを判断する貴重な資料ですから素通りはできません。 何おっしゃってんの? (a)も(b)もNHKも小学館も、「17と18の作者は異なる」と言っていない。それが争点になっているのは、御大(おんたい)の脳内くらいのものだろう。 国語も算数も、理科や社会などもできない人(学生時代からできなかったようだ)が、よせばいいのに学術書を乱読して衒学趣味の質問三昧。おつな趣味もあったものだ。

sono-higurashi
質問者

お礼

NO.3のお礼欄を読了したものとして記しています。 1.>> また小学館版でも、「人名一覧」で17、18は額田王の作としている。「人名一覧」は巻末に載っていて、作者別に歌の番号をまとめている。<< この部分に限って返事を頼みます。ここが通過できなければNo.2はないのと同じことですから今は他の部分は読みません。 「人名一覧」の額田王の項に巻一の16、17、18が挙がっているからといって小島憲之氏ほか2名の編者が、17、18を彼女の作だと主張していることになりますか。 「人名一覧」がないとします。このとき額田王が詠んだ歌を知りたい読者はどうするのですか。萬葉集全体、巻第二十の4516までを全て読んで拾い上げるのですか。この不便を解消するために作者別索引の働きをしているのが「人名一覧」ではないのですか。額田王が詠んだ歌を知りたい読者は「人名一覧」によって巻一の16、17、18があるのを知ります。そして本文を読む結果、異説があるのを知り、小島憲之氏他が異説を否定していないのを知ることになるのではありませんか。 即ち、小島憲之氏他の編者は底本とした「西本願寺本」を忠実に解説しているだけであって、17、18が額田王作だとまではいっていないのではないですか。 本来だとここで一つ二つ問い合わせを追加したいところですがkorokoro1980さんは話を拡散させる人なので一つずつ焦点を絞って、問い合わせることにします。 なお、次の2点を確認しておきます。 ・これは問い合わせ文です。korokoro1980さんの自由な見解を伺うものであって私の主張は何も含んでいません。 ・korokoro1980さんのこれへの回答が私の予想する方向にあれば返信は8/1(月)以降になります。私の予想する方向になければ、もっと早まるかもしれません。7/29(金)、6:40記。 返事を待っています。

sono-higurashi
質問者

補足

korokoro1980さんの人格の発露に、いよいよ脂が乗ってきました。結構なことです。 >>〉 これは、普通でない場合は別の人が作るという主張です。 いいえ。「普通同じ人が作る」ということから導き出せるのは、「同じ人が作らないなら普通ではない」である。これを「対偶」という。「普通でないなら同じ人が作らない」は「裏」といい、同値ではない。対偶、裏、同値などについては、算数に毛が生えた程度の数学で習う。 論理の基礎さえ知らないことが、さらけ出されている。<< 対偶の採り方は正しいです。但し、「これは、普通でない場合は別の人が作るという主張です」は対偶から導いたものではありません。対偶から導いたと勝手読みするところがkorokoro1980さんの困った点の一つです。 NO.1の書き出しは>>テキストを眼前にしながら、全く読めていない。基礎知識さえない。 長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<です。 初めの一句は言わばkorokoro1980さんという人がこういうもの言いをする人であるという自己紹介みたいなものですから回答とは無関係です。従って、回答の第一声は>>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<です。 無知であるから質問するのであって質問する立場からは、ここは素通りできません。 別人が作った例を紹介して下さることは、山上憶良説とNHK説との孰れに信憑性があるかを判断する貴重な資料ですから応えて頂かないことには、この先のNO.1もNO.2も無意味で回答がないのと同じことです。 これに応えて下さるよう重ねてお願いします。 調べる手間が掛かって、おいそれとは答えられない事情があるのかもしれません。あるいは筆が滑っただけなのかもしれません。もしも、そうであれば言葉尻を捕らえて食い下がろうなんて了見はありませんから、別人が作った例でなく>>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<<の真意でも結構です。 返事を待っています。 ここを通過した後にNo.1もNO.2もkorokoro1980さんの回答を忠実に読んで反応します。 なお、何の前触れもなく突然締め切るなんてことはしません。korokoro1980さんの言い分は全部聞きますから、締め切らないうちに言いたいことを全部言っちまおうという考えは無用です。 再確認しておきます。今のところNO.1もNO.2もないのと同じですから読んでいません。

回答No.1

テキストを眼前にしながら、全く読めていない。基礎知識さえない。 長歌と反歌は、普通同じ人が作る。このテキストでは17が長歌で18が反歌である。したがって、「額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌」というのは、17、18が額田王の歌、19が井戸王の歌ということである。書いてあるそのままやんけ、でございます。なぜ、コピペするに際して19を欠落させたんですか? ただし、このテキストは異説も併記している。山上憶良の説によれば、17、18は天皇の歌だと。「御」の字がそれを示している。「都を近江国に遷せし時に」という説明から、あてはまるのは天智天皇となる。 また、このテキスト(の続き)によれば、19は17、18とセットではなく別物だろうが、旧記ではその3つがセットになっているので、ここでも踏襲すると書いてある。 NHKがどうとか、小学館がこうとか以前の、大昔のテキストに書いてあるそのままやんけ、日本語が読めないんでしょうか、でございます。

sono-higurashi
質問者

お礼

これはNO.1へのお礼でもなくNO.2へのお礼でもありません。ただの通信文です。他に適当な欄がないのでここを借用します。 NO.2への返信は早くても25日(月)の早朝以降になります。悪しからず。

sono-higurashi
質問者

補足

おや、また来たのですか、懲りないことで感心です。それにしても毎度、毎度、人柄のよく表れたカイトウで感心しています。 1.>> なぜ、コピペするに際して19を欠落させたんですか?<< 19には何の疑問もないからです。わざわざ文字色を変えて編者が見解を明示しています。 2.>> ただし、このテキストは異説も併記している。<<・・・これ以下について テキストに全部書いてあります。転記、ご苦労様でした。 危うく 「>>テキストに書いてあるそのままやんけ、<< 」なんて言いそうになってしまいました。危なかったです。 さて、大事な用件です。 >>長歌と反歌は、普通同じ人が作る。<< これは、普通でない場合は別の人が作るという主張です。別人が作った例を幾つでも紹介下さい。これは山上憶良説とNHK説との孰れに信憑性があるかを判断する貴重な資料ですから素通りはできません。 何の前触れもなしに締め切ることはありません。何時まででも待っています。