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東洋哲学的な概念の価値

「虚数」は実際に役立っていますので、その存在の価値が分かりますが、自然・社会への深い理解の為には、「絶対無」とか「無極」とかの存在が想定されなくても構わないのでしょうか? それとも、人生と自然・社会との関わりの為には、それ等が役立ち続けるのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

東洋哲学における無というとまず老子が 浮かびますが、老子の無は、相対的な無で 絶対的な無ではありません。 むしろ、仏教にいう「空」の方が絶対的無に 近いのではないでしょうか。 仏教では心を空(無)にすることにより、個人を救済 しようとします。 老子は、無為の方が社会が上手く行くと考えました。 ハイエクは老子の影響を受けている、との指摘があります。 私は、天皇制は老子の無の力により、日本を統治 しているのだと思っています。

YaGhoogle
質問者

お礼

別ページ(http://okwave.jp/qa/q6801267.html)にもご協力を賜れますと幸いです。

YaGhoogle
質問者

補足

有り難う御座います。 無為自然な天皇制ですか。 その点で改めて別の質問をさせて頂くかも知れません。

その他の回答 (1)

  • jag55jag
  • ベストアンサー率43% (10/23)
回答No.1

初めまして。私なりの持論や私見を打たせてもらいたく寄稿しました。 貴方の問いに対して参考になるかは不明ですが・・・、 結論から述べさせていただければ、 想定の必要というか、存在自体は有象無象あると思います。 ただ、人間社会における経済全般には殆ど必要とされていませんね。 なにせ、欲で動いている世界。貪欲な人曰く『無から有を生み出せ』ですから。 精神面でいえば、どっちとも言えないかと。 個人毎の内面での問題なので、全くそんなもの関係なく生きている人もいれば、 自身の指針に準じて生きている人もいるのが現実かと思います。 正に『0』か『1』かです。 ここからは蛇足です。いろんなことを簡素に羅列してみます。 まず社会においては、ゼロや虚数は『無』や『不』なのだと思わされることが多いように思えます。 そして、マイナスなことが多いかと。 『無関心』『無神経』『無慈悲』『不満』『不気味』等々・・・ 次に宗教ですと・・・ まず頭に浮かぶのは、仏教系でよく言う、『無我の境地』ですかね。 それとは別に、『一休さん』って知っていますか? 一休和尚は現実には破戒僧扱いでしたが、絶妙な言葉を沢山残してます。 私のお気に入りは、『在るがままに在れ』です。『無』に対しての回答なのにスイマセン・・・ ただ、『在る』ということは『無』の対極。無を証明するものです。 『無い』ことの存在を意識、認識した時点でそれは『有』であり、『在』なのかなと。 ですので、3次元の物質世界では付いてまわるものだと考えており、 その存在を認識できたものからは必要とされるモノなのだと思っています。 極論ですが、絶対無や無極も、物質面でその存在は発生してしまいます。 人の脳内では得られた情報はニューロン間で電気信号を使用して構築、蓄積されます。 電気も脳細胞も質量をもった物質です。 言い換えれば、その時点で、『無』が『無』としてそこにあるわけです。 乱長文、失礼いたしました。

YaGhoogle
質問者

お礼

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YaGhoogle
質問者

補足

有り難う御座います。 科学者の方々が完全な無心で研究に没頭なさっていれば、 比較的に理想的な展開を辿れるのでしょうね。

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