- ベストアンサー
パナマはコロンビアからアメリカの圧力で独立した?
独立については、パナマ運河建設の利権やアメリカの交易上の必要性から、アメリカがコロンビアから租借権や民心コントロールで民衆を扇動し、独立を実現(今も強い影響力と運河への権益を有している)したと思いますが・・・※ノリエガ拘束事件 Q:それは、どのような背景と経緯で進められ、欧米列強の反対や対応はどうだったのでしょうか? また、現在のパナマの自主独立性の確立状況はどう変化しているのでしょうか? ※ノリエガ元将軍の利用と拘束追放 http://www.news24.jp/articles/2010/04/27/10158160.html
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
パナマの独立はアメリカの扇動とは言えないと思います。 まずコロンビアの事ですが、シモン・ボリバールがスペインからの独立を目指し戦い、1819年にコロンビアの建国を宣言し、さらにスペインと戦い勢力を広げていました。 パナマでは1821年に独自にスペインからの独立を宣言します。ただ、この時、パナマ内部も自主独立派とコロンビアに合流しようという併合派に分かれており、この時はコロンビアに併合する事になりました。 しかし、自主独立が完全に捨てられたわけではなく、1830年にエクアドルとベネズエラがコロンビアから分離独立すると、パナマも独立宣言をしコロンビアから離れようとします。しかし、この動きはコロンビアに阻止されました。 以後、何度かパナマは独立を試みますがコロンビアに阻止されます。 そうしているうちにアメリカが大西洋と太平洋を便利に結ぶために鉄道をパナマに建設する計画を立てました。 アメリカはコロンビアと交渉し合意を取り付け、パナマ地峡鉄道と呼ばれる鉄道の建設を1850年に開始し1855年に完成させました。 ここで問題なのが何度も反乱を起こしていたパナマ独立派です。 コロンビアはこの反乱を押さえるのにアメリカを利用しようとします。アメリカとしても安全に鉄道を利用し権益を守るため派兵に応じたりしました。そのためアメリカは何回もパナマに派兵しています。 さらに年月が経ち、今度はパナマに運河を作ろうとアメリカが計画を立てます。 この時のコロンビアとの交渉があまりうまくいきませんでした。あまりにアメリカに一方的な有利な条件だったため、コロンビア議会の議員の殆どが反対に回ったのです。 この時、アメリカに近づいたのが、パナマの独立派でした。 パナマ独立派は独力での独立が難しいのでアメリカを利用しようとしたのです。アメリカも運河を建設したいのでパナマ独立派を利用しようとしました。お互いに相手を利用しようとしました。 そしてアメリカ軍も動き1903年にパナマは独立しました。 しかし、完全な独立というよりはアメリカの保護国というような形で、運河の権益も一方的にアメリカに有利な条件となっており、パナマとしては不満の残るものとなりました。 この時、パナマに関しては列強各国は静観していました。 この頃は、どの国も自国の植民地獲得の戦略に忙しい時代でした。 ドイツはベルリン、ビザンティウム、バグダートを結ぶラインを勢力圏にして中東に進出する3B政策で。 イギリスはカイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ3C政策でドイツと対立してましたし、前年まではボーア戦争をしていました。 フランスはモロッコを狙い、オランダはインドネシアを獲得していました。 ロシアは南下政策で奉天を占領し、日本も大陸への進出の動きを強めていました。ちなみに日露戦争は翌年1804年です。 もともと1823年にアメリカの第5代大統領がモンロー宣言で南北アメリカ大陸への欧州各国の不干渉及び、アメリカも欧州へ不干渉とする相互不干渉を提唱していた事もあり、列強各国はパナマについては大きな動きは見せませんでした。 パナマ独立直前にベネズエラにドイツ、イタリア、イギリスが干渉しようとしましたが、アメリカが介入し阻止したという事もあり、この事も作用しています。 独立したパナマですがアメリカへの不満は高まり何度も反米運動が起きました。 この動きに1938年にはアメリカは干渉条項や保護国規定を撤廃しますが、パナマ運河を手放す事はしなかったため、市民の反米感情は高いままでした。 そして第二次世界大戦中、1940年に選挙でパナマ大統領になったアリアス大統領はアメリカが要請した運河地域以外の軍事基地設置を拒否します。 しかし翌年、クーデーターが勃発し親米政権ができ、軍事基地の協定が結ばれます。 しかし、また反米政権が権力を握ったりして政情は落ち着かず、反米デモやアメリカ大使館が襲撃を受けたり、政府が非常事態宣言を発令などしています。 そして1968年に軍事クーデターが起こり、トリホスが権力を握ります。 彼はアメリカの第二パナマ運河建設を拒否し、パナマ運河の返還を求め、左傾化した政策を進めます。 そして1977年にはアメリカのカーター大統領とパナマ運河の返還の協定を結びます。 この結果をもってトリホスは翌年の1978年に最高指導者の地位から退きました。また選挙も行われ新たな大統領が立ちました。 なお1981年にトリホスは飛行機事故で亡くなりますが、この件にはノリエガが関与していると言われます。 ノリエガはトリホスの部下でしたが1983年には軍の最高司令官になり強い実権を持ちました。 大統領選挙にも影響力を発揮し、選挙の時は軍による不正行為が行われたと言われています。 ノリエガはアメリカのCIAと60年代の頃から関係を持っていたと言われ、アメリカもパナマに援助などしています。 しかし1987年頃になると不況とノリエガと彼の影響力で大統領になったデルバイエに対し市民の不満が爆発し、全国でデモや暴動が起き、非常事態宣言が出され、軍と市民が衝突しました。 アメリカはパナマへの援助を打ち切り、ノリエガに引退を求めますが、彼は拒否します。アメリカはデルバイエ大統領にノリエガ解任を求め大統領はこれを了承しますが、逆にノリエガに監禁されたりします。デルバイエは逃亡し後にアメリカに行きました。大統領代行にソリスがつきますが、ノリエガの影響下にある人でした。 その後もパナマは混乱が続きます。 ノリエガは私兵集団を組織し自分に敵対する者は潰していくなどもしました。 大統領選挙も行われますが、その結果の信頼性には疑問符がつきました。 そして1989年10月に親米のクーデターが起こりますが失敗します。 そこでアメリカは1989年12月にパナマ侵攻を行いノリエガを排除しました。 国連はこのアメリカの侵攻に「軍事介入反対と即時撤退」を採択しています。 アメリカ軍は1991年には撤退し、民主的な選挙が行われ、新たな大統領も選ばれ、そして1999年にはパナマ運河も返還されました。 現在のパナマはアメリカとの友好関係を維持しつつも、中南米との連帯を重視しています。 国民生活は中南米で最高水準にあり、観光客も増加し観光産業も伸びています。 貿易において輸出、輸入の第一位の相手はアメリカですが、現在政治的には、アメリカの強い影響下にあるわけではなく、完全な独立国としての道を歩んでいます。 今、パナマで問題なのは中南米一国民生活が豊かなため、キューバやハイチなどの隣国から不法入国者が増えている事です。
お礼
大変詳しく、時系列に簡潔に解説を賜り、大変分かり易くアメリカ・列強・コロンビアの関与と影響について参考になりました。 パナマ運河の利権と独立の経緯並びに現在の国情についてお教え願いまして、心より感謝とお礼を申し上げます。 誠にありがとうございました。