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神様や仏様に叶えてもらいやすい願い事

お寺や神社で行われる祈祷や祈願について質問です。 神様や仏様に叶えてもらいにくい願い事は多くあります。 「宝くじで一等があたりますように」 などと努力せずに大きな結果を求める願い事はほとんど叶えてもらえません。 神様や仏様に叶えてもらいやすい願い事はあるのでしょうか。

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  • cyototu
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回答No.7

5才ぐらいの子供とじゃんけんをしたときに、その子に「願い事をしてからじゃんけんをしよう、勝てたら願い事が叶うかもしれないよ」と言ってじゃんけんをしました。その子は目をつぶって願い事をしてから、じゃんけんをしました。そしたら、その子が勝ったので、私はどんな願い事をしたか聞いてみました。曰く「このじゃんけんに勝ちますように」だったそうです。これ本当の話しです。神様って粋ですね。 願い事を叶えてくれるくらいの神様ですから、神様にこちらから自分に何が起こったら自分が幸せになれるかを一々教えてあげなくては解らないような神様である筈がありません。じゃなかったら神様に矛盾してしまいます。人間って言うのは浅はかなもんで、自分の望みが叶ったからといって幸せになれるわけではなく、それどころかそのお陰で不幸になってしまう人も幾らでも居ります。だから神様に祈るときの方法は決まって居ります。無念無想で頭を空っぽにして、ただ頭を下げる、これです。しかし、人間て弱いもんで、それじゃあ不安だと言う方もいると思います。その時には、「私にとって一番良いと神様が決めたことを起こして下さい」と祈りましょう。その望みの叶う確率は限りなく1に近いですよ。

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  • nontro_08
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回答No.9

創価学会の者です。 残念ながら、叶うことはないでしょう。 人間の生命は永遠です。過去世・現在世・未来世と、生死を繰り返しながら三世にわたって永遠に続きます。その永遠の生命の中で行なった善悪にわたる行為が、現在生きている生に、結果となって現出しているわけです。「宝くじで一等があたった」というのは偶然に思えますけど、実は前世に気前よく人にお金を恵んであげるなど、他の人に並々ならぬ貢献をしたという行為が福徳となって現れているのです。宝くじに限らず、株でも事業でも大当たりして、金持ちになる(中には20、30代の若さで)のは、そういうものを縁として、前世の善行が結果となって現れているのです。したがって、前世にそういう行為をしなかった人は、神であろうが仏であろうが、ましてや得体の知れない教祖様であろうが、祈願したところで「宝くじが当たる」などといった願いは、叶うものではありません。原因がなくては結果は生じないからです。 しかし、そのように過去世における善行のない人でも、金持ちになれることはあります。それは、この宇宙を動かしている根源の大法の力を、自分に引き出すことによります。それを「南無妙法蓮華経」といいます。この「南無妙法蓮華経」は、三世十方の諸仏・諸菩薩を成仏させたほどの大法だからです。「南無妙法蓮華経」と唱えながら、真面目に信心の実践に取り組む。そうすれば、その大力によって、あたかも前世に、人にお金をうんと恵んであげたと同じような原因を自身に築くことができます。したがって、金持ちになれるという結果を引き出すことができるのです。 ただ、思い違いをしてほしくないのは、「南無妙法蓮華経」の信心は努力を前提とした信心であり、努力もせず、ただ拝み祈りさえすれば“天からお金が降ってくる”などという軽薄な「おすがり信仰」ではないということです。金持ちになりたければ、信心しているからこそ、人の何倍も努力する。そして一生懸命信心の実践する。そこに策と祈りが絶妙に合致し、最大の結果を引き出すことができるのです。 さらに言いたいのは、祈りが叶う、すなわち功徳ということですが、この功徳には、祈ればすぐに思い通りの結果が現れる「顕益」と、祈ってもなかなか叶わないように思えるが、日時が経過した時に、考えてみたらいつの間にか幸せになっていたという「冥益」とがあります。ひとはどうしても「顕益」のほうを臨みがちですが、真の功徳は「冥益」なのです。 率直に言って、創価学会員でも全員が全員、金持ちになっているわけではありません。これは人によって宿業の軽重、信心の熱心不熱心ということもありますが、金があるから必ずしも幸福ではないというのが、この社会の現実なのです。金があるがゆえに強欲になって人間性が歪み身の破滅を招いたり、広い屋敷の中で家庭不和の不幸な日々を送っている資産家もいるのです。相対的幸福の限界です。真の幸福は、どこにいても、何をしていても、どんな境遇にあろうとも、生きていること自体に幸福を感じられるという、絶対的幸福です。創価学会が主に目指すのは、これです。もちろん、信心の功徳によって金持ちになった人もいますが、これはあくまでも「副産物」的な功徳といえます。「金持ちになれることはあります」という表現を用いたのはこのためです。生命が浄化されれば、お金などといった物質的なもの以外に価値を求めるようになるからです。もちろん、お金だってないよりはあるほうがよい。学会は禁欲的な教義を振りかざすものではありません。しかし、物質的なものに絶対の価値を置かないということです。 真に功徳を求めたいのなら、お金とか自分の外の不確実性な幸福ではなく、自分の生命、心の変革という功徳を求めるべきでしょう。いくらお金があっても、心が貧しければ、価値的に使うことはできず、かえって不幸の原因とさえなってしまうからです。 私の回答を詭弁と捉えるか否かは、質問者様に委ねます。

noname#156094
noname#156094
回答No.8

我欲を離れて、理にかなった事ではないでしょうか。 願う前に、この神様ならば、この願いは必ず叶えてくださる、といった確信も必要と思います。 迷った心で、我欲にとらわれた願いは聞き入れてもらえないものと思います。

noname#150036
noname#150036
回答No.6

まづは自分を知ることから始めないと、かないません。 子曰、君子不重則不威。学則不固。 主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。 子曰く、君子重からざればすなわち威あらず。 学べばすなわち固ならず。 忠信を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。 過ちてはすなわち改むるに憚るなかれ。 落ち着きがないと人に心服されない。 知識を身につければ物の見方に幅がでる。 なによりも自他に対する誠実さを大切にする。 友を選ぶときは必ず自分より優れた人物を選ぶ。 過ちを犯したと気づいたら即座に改める。 自分がこうなれますようにと祈るのです。 そうすれば貴方の望む事はすべて叶うでしょう。 でも宝くじ当選とかじゃあないですよ。もっと大きなことです。

回答No.5

自分の努力によって可能でありながら、自信がない事。

  • michael-m
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回答No.4

まず、その願いが本当に自分の取るべき行動、或いは得るべき御利益なのかを考えます。 次に、自分が信仰を持っているかどうかです。 信仰と言っても神道に宗旨替えする必要はありません。神道は“宗教”や仏教徒は違いますから、神仏を信じ、毎日神仏にも人にも感謝できる心構えがあれば充分です。 仏教では多くの宗派に別れていますが根本は仏陀一つです。 本当の願いとは常日頃から望み続けていて、それを実現するための努力を惜しまない事を言います。昨日今日思いついた事は願いとはいえません。 また例えば「宝くじに当たること」は手段でしかありません。これは願いではないのです。宝くじに幾ら当たったら何をするのか、それが自分にとってどのような「心の益」を与えてくれるのか。それが本当の願いになります。 最終的には神仏は自分の為にならないご利益は与えません。 幾ら素晴しい展望を持っていても、その人が宝くじに当たる事によって怠惰になるなら、願いは叶いません。 また、特に仏教の考えではこの世は修行場ですから、宝くじが当たり人生に課せられた修行が完結できないなら願いは叶いません。 願いを叶える為には長く思い続ける集中力と努力と精神の強さ、が必要になります。 それ無くしてのご利益は、新たな修行か、邪念と思ってください。 願いが叶うと言っても、ドコまでが「叶った」と判断するかによります。 100%願ったとおりでなければダメであるなら、叶う願いはありません。 そこには必ず自分自身でケリをつける必要があるからです。 人は難を乗り越える事によってのみ進歩します。だから難がなければ衰退するだけなんです。 神仏への願いは「大難を小難に小難を無難に」が基本です。 自分でも乗り越えられる山があってこそ、ご利益もありがたく大切に受け取れるでしょう。 それならば、多くの望みが叶うと思いますよ。例え宝くじでも。

回答No.3

最期の最後まで努力してもう限界だと感じたとき それでも私が挑んだら邪魔だけしないでください とかなら~邪神でもないかぎりきいてくれるかも

回答No.2

自分の信念に違う事をしでかすことの無いように!南妙法蓮華経~。ペコ・ペコ、パン・パン、ペコ。

  • try50
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回答No.1

神社では願い事をしてもいいけど お寺で願い事は「NG」だそうです 六星占術で有名なカノ細木先生の言うことだから間違いない お寺ではご先祖様に感謝の念をどうぞ