※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:キリスト者の方へ - ご意見を下さい)
キリスト者への質問:苦難の中で被害者意識を持ち続けることは許されるか
このQ&Aのポイント
キリスト者に対して質問します。苦難の中で被害者意識を持ち続けることは許される行いなのでしょうか?
キリスト教の教えでは、自らの苦しみに向き合いながらも前向きに生きることが求められています。
被害者意識を持ち続けること自体は悪いことではなく、自分の行動を他人に任せることが問題とされています。
『今でも愛する夫の裏切りを知った』
『親しい知人を殺された』
上のような耐え難く苦しい経験を自分に与えた相手に対し、
報復することをキリストは赦しません。
私は、とてもこれを納得しています。
それで、上のことと関連するのですが、
今日ここで質問させて頂きますのは、
『耐え難く苦しい経験によって、
(相手を憎まずとも)被害者意識を持ち続けるということ』
が赦される行いかどうかということです。
(実際問題は、被害者意識など持ちたくないが、持ってしまうというのが実際なのでしょうけれども。)
また、その人が病に臥してしまった場合の行いについては考慮外とします。
どんな苦しみを受けても、自分が健康であるならば、
戦乱にも巻き込まれず平和に、
そして、他のいのちをいただいて生かされている以上、
前向きに生きなければと私は思います。
しかし、それが道義的に正しいのかの判断ができないのです。
なぜなら、恥ずべき事ですが以前の私は、(いや正直に言うと今もかもしれません)
そうした、(相手を憎まずとも)被害者意識を持ち続ける人を、
ある種の猜疑心を持って見ていたからです。
つまり、悲劇にかまけて、
自分の為すべき事を他人任せにしようとしているのではないかと疑っていたのです。
このような猜疑心は当然に悪徳ですが、
以上を分析すると、(相手を憎まずとも)被害者意識を持ち続けることが悪い事なのではなくて、
悲劇にかまけて、自分の為すべき事を他人任せにしようとしているのが単に悪いだけなのかも
知れないなと思うに至ったのです。
聖書で、こうした問題について述べられている所があれば、
その箇所を教えていただければと思います。
また、キリスト者のかたで見解のあるお方がおられましたら、
お考えをお聞かせください。
よろしくお願いします。
お礼
ありがとうございます。 うまく言葉で伝えられませんが、 あなたの仰る事、本当によくわかりました。 非思考の場において のぞみを持ってあゆみます。この信仰というのは いわば無根拠です。無根拠を根拠として生きます。これが 信仰をとおしての愛でありのぞみです。 というところに、私の抱えていた疑問は集約するように思います。 自分に起こりえる事象について、このような態度でのぞむということは、 間違いなく、私に変化を与えることになるはずです。 ただ、それだけに、やはりまだまだキリストについての勉強をしなければならないと思いました。