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芸術の範疇は何処迄?
芳香・味わい・手触りは芸術に含まれ得るのでしょうか? 音楽・美術等に比べると、上記の3種は比較的に軽んじられてきたのではないか、と思われますので、将来的な展望を窺う為に、伺いたくなりましたから、御教授を御願いします。
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No.2、11です。 この辺で、一度ご質問に内在する根本的な問題点について確認してみませんか? 、質問者さんは、 >芳香・味わい・手触りは芸術に含まれ得るのでしょうか? >音楽・美術等に比べると、上記の3種は比較的に軽んじられてきたのではないか、 と質問なさいましたよね。 そこで、私としては、「なぜ芸術のジャンルは、五官のうちの視覚・聴覚にもっぱら訴える音楽・美術に限定されてきたのか?」という視点、観点から回答させていただきました。 再度、私の回答の趣旨や拠り所について申し上げるなら、芸術的知覚というのは、対象(外界)に対して一定の距離を保ちながら、それを間接的に認識することではないかということになります。 もちろん、その点では科学的認識も同じですが、芸術的知覚だけは、既成の経験則(=科学的な知識)では対応できない経験、未知の対象と遭遇したときに惹起するのではないでしょうか。 だからこそ、芸術的体験においては、たとえば驚嘆、感動、恐怖、不安、快感、恍惚といった、ある意味合理的には説明しがたい、筆舌しがたい、言語道断の感覚に襲われるのではないでしょうか。 一方、こうした芸術的体験を、対象と直接触れ合うという「芳香・味わい・手触り」と比較したとき、やはり芸術的体験がどんなに感動的な、忘我の体験に思われようとも、必ずどこかに冷静な理性が多少は働いていますよね。 その点では、芸術的体験では、われわれは酔いつつ覚醒していると言えるはずで、これを可能にしているのは、やはり対象と主体との間に横たわる一種の《距離》であり、この《距離》を実現できるのは、「美術・音楽」だけではないか、これに対し、「芳香・味わい・手触り」に対象との《距離》を求めるのは不可能ではないかと思います。 その意味では、「芳香・味わい・手触り」をつかさどる嗅覚・味覚・触覚が卑官だからという理由で、これが芸術ジャンルから排除されるわけではなく、その直接性、対象との距離感のなさ故に、芸術たり得ないということになります。 それは、他でもなく、対象(外界)と距離を置かずに交わる(=触れる)というのは、われわれ知覚主体にとって危険きわまりないことだからでしょうね。 そうではなく、対象と深く交わる前に、対象の危険の有無を知るために活躍するのが《遠覚》としての視覚・聴覚であるからこそ、人間はこれを洗練させる方向で芸術を生み出してきたのではないでしょうか。 >『「視聴覚」の方式に乗っ取って、距離を設けますと、同時に集団が価値観を共有しやすくなりますので、「視聴覚」の対象の記録の技術が練磨されてきたのでしょうか?』 質問者さんは、もしかして、《芸術と非芸術とでは、どこがどう違うか?》ということよりも、芸術的体験の中でも、たとえば遊戯、祭儀、そこから派生した遊戯、演劇等に典型的に認められる集団的なオルギー、興奮、恍惚、共感、脱自、無我等の方により興味・関心をお持ちなのではないでしょうか。 もし、そうだとすれば、「音楽・美術だけがなぜ芸術とされてきたのか?」とか、「芳香・味わい・手触りがなぜ芸術とされてこなかったのか?」ということを敢えて問題にするには及ばないような気がしますが。
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つい20年前まで、歌舞伎や演歌は芸能で、オペラやシャンソンは芸術だった。 というよりも、西洋人の評価対象になるものは、芸術で、日本固有のもので西洋人の手あかがついていないものは、芸能です。 柔道もオリンピックでやるとスポーツですが、町場の道場では依然として武道として教えています。 ミシュランガイドに載るのは、白人に媚びた料理を出す料亭です。 つまり、白人に理解できるものが芸術です。 ただし、それらすべてを脳内現象の次元で考えてみると、けっこう簡単明瞭です。 だから、芸術産業が堂々とがらくたを作り販売出来るのです。
補足
凄く興味深い回答ですね。有り難う御座います。 因みに折角の機会を逃しますのは勿体無く思われますから、 畏れ入りますが、追加の質問をさせて下さい。 『アイススケートの試合での「芸術点」の様に、 西洋近代的な評価内容が、デジタル的な「採点」結果で表現されています故に、比較的に分かりやすくなっている御蔭で、 アナログ型の本来的な「芝居」よりも遥かに普及に適していますので、 其の風潮へ便乗して、派手な「スーパー歌舞伎」もが登場した』 という認識は正しい、と思われますでしょうか? 尚、静かでゆったりとした「能楽」を私は好んでおります。
- Mokuzo100nenn
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芳香・味わい・手触りが、自然の物でなく、人工的なもの(=アート)であるかぎり、ゲイジュツで良いのじゃありませんか? 芳香・味わい・手触りと言っても、自然の物を対象とするならば、ナチュラル・サイエンスってことで、科学の範疇です。
補足
有り難う御座います。 私の認識の誤りが残りますと勿体無いですから、 追加の質問をさせて下さい。 人工的な物は、 『認識主体に「快適性」を感じさせ得る「手段」』として機能している、 という認識で宜しいのでしょうか?
これは全くの私見ですが、 皆さんのご回答のような歴史的な背景から、ギリシアの演劇(叙事詩、歌、踊り)に始まって、音楽および美術の目覚しい発展を通過してきた西欧では、視覚・聴覚を媒体とした芸術から飛躍するのは難しいと思います。既成の枠組みが非常に頑丈だからです。 それと比べますと、日本の文化は非常にしなやかで融通が利くように思われます。日本独自の文化に、海外からの影響を取り入れて、融合させてゆくのが大変にうまい。そして、職人芸を尊び、それを芸術の粋にまで高めることが出来ます。 香りの芸術と言えば、もう、香道が成立しています。 手触りの芸術と言えば、茶室でお茶碗を手に載せて、拝見する、真剣勝負に似た瞬間が思い出されます。 味覚の芸術も”料理の鉄人”の世界や利き酒など、フランス料理に匹敵するものでしょう。(個人的には、これは芸術とは呼びたくないのですが。) 話は変わりますが、姪が美大を受けると言います。コンピューターグラフィックを学ぶためだそうです。もしかすると、私達の生きている間に、映画を発展させた、3Dで、かつ、臭覚、味覚、触覚も全て満足させるヴァーチゥァルな芸術形態が出来るかもしれない。そんな風に夢想しています。
補足
有り難う御座います。 『西洋近代的な解剖学と東洋の伝統的な鍼灸治療技術との差異もが、職人的な感性への依存の有無に起因している』 と私には思われますので、 『五感を越境させ得る「芸術」の技術が確立されていく』 という展開は、人類にとって望ましいですね。 ですから、その方にも大いに頑張って頂きたいです。 因みに伺わせて下さい。 『舞台演劇と違い、自分達もが主体的に参加する「社交ダンス」の分野もが、従来の「芸術」に属している』 と思われますでしょうか? 宜しければ、回答を頂けると、幸いです。
人間の五感にランク付けがあったということを確認することから、始めてみようかと思います。このヒエラルキーは思想家ロラン・バルトのまとめによると、視覚-聴覚-嗅覚-味覚-触覚であり、十八世紀には定着していたようです。西洋において最上位を占めるのは、視覚でした。そこで絵画や彫刻が優遇されました。触角はもっとも原始的な感覚として、最下位だったのです。 しかし芸術とはそもそも何なのでしょう。ロマン主義以降の芸術の定義では、制作者の主観が表現されているものが芸術であってよいといえます。こうなると何を芸術と呼んで悪いことはないのです。しかし視覚が上位だと言われたのはロマン主義の前の話ですから、私は古典主義に触れておくことにしましょう。 古典主義と一口に言ったにせよ、区分はいくつかありますが、大雑把に言って、新プラトン主義などの原典から離れた解釈を含めても、美は鑑賞者をイデアへ導くものだとみなされてきました。このような美の定義によれば、単に官能的であったり、心地よいとか、生産者の主観を表現しているということだけではなく、受け手を精神的に一段高いイデアへと導くことが必要なのです。簡単に言えば、芸術の鑑賞は精神修養にならなければならないのです(詳しくはパノフスキーの『イデア』を参照してください)。 さて、視覚は類型を分析するのに、容易です。たとえばどんな人間の姿が神々しいかを考えるのは、子供でもできることでしょう。形が整っていたり、威厳があるものが、非日常的な神の姿を描くにあたってふさわしいでしょう。 しかし香り・味わい・手触りにおいては、何が神々しいのでしょうか。詩人のボードレールに言わせると、少なくても香りは、精神的なものへと結びつくのだそうです。これは香水が好きな人なら、比較的容易に理解できるでしょう。実際、教会でもお香がたかれるように、嗅覚は宗教的な儀式にも利用されます。 しかし味わいと手触りは、どうなのでしょう。なるほど陶然とさせる味や手触りというものはあります。また料理を食べた時、「母の味だ」というなら、そこには精神的な何かがあるのです。ただし、それは主観性だけではなく、客観性を交えて、受け手を神的次元へと導くものでしょうか。こうしたイデアへの誘導があるというのなら、古典主義的に見ても、味覚や触覚は芸術の範疇に含めてよいことになるでしょう。この点について、触覚と味覚はあまり論じられてこなかったかもしれません。アリストテレスでも、料理は化粧と同様に、まやかしの術であるとされていたと記憶します。 しかし私はそれらの等閑視された感覚によっても、イデアが認識される例があると考えます。たとえばフランス料理において、素材の味をべとっと一様にしてしまうホワイトソースは自然を征服しているのかもしれません。ソースそのものの口当たりは良いが、四季も素材の鮮度も関係ないものにしてしまいます。なるほど、これを「まやかしの術」というなら、まさにその通りです。料理が好きな私にしても、何の異論もありません。 しかし和食は透き通った味付けの中で、自然や季節を感じさせてくれるものです。これを気取ったいい方をすれば、食事とは、食べる者を自然に結び付け、普遍的なイデアへと通ずる道を開いてくれる技であるように思えるのです。 同じ発想で、触覚にもイデアへ通ずる技はあるように思えるのです。動物の毛皮の肌触りを我々が知っているのは、その動物に直接触れたからではなく、革製品のお陰でしょう。ここで技術は人間を自然へと結び付けてくれます。そして革の触覚を模した人工の布には、自然を模倣しつつも改良し、自然にはない美を追求する試みがあると考えられるのです。 上述のように、自然との関係を問題にするのなら、古典主義的な定義に照らしても、あらゆる制作物は芸術と接点を持つと考えます。換言すれば、古典主義の原則論から考えると、芸術の範疇に三つの感覚を本来、含めるべきであっただろうと私には思えるのです。それが等閑視されたのは、ひとえに五感のヒエラルキーを要因としていたと私は考えます。 ご参考までに。
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有り難う御座います。 詳しい解説を賜れそうですから、追加の質問をさせて下さい。 『視覚芸術が提供し得る「イデア」の延長線上に、 「透視遠近図法」由来の西洋近代科学が有る』 という認識で宜しいのでしょうか? 可能でしたら、諭して頂けると助かります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 芸術の範囲は ☆ すべてである。と答えます。 文化とは 人為であり非自然でありそのすべてであるのですが この文化という意味で《芸術》を捉えた上での答えです。 言いかえると 人間のおこないがすべて自己表現であるということにもなります。 中で文学は ほかの誰でもないその人のこの世における一回きりの出来事をあつかいます。 一回性としての出来事を 想像においていわゆる虚構として考え描きます。 (同じ内容のものごとを扱っても そのモノゴトにかかわるその人にとっては そのときそのつど一回性を持つという意味です)。 自然科学は ぎゃくに無限回性のものごとを出来る限りにおいてほかの誰が認識しても同じであるかたちで しかも自己表現として あつかいます。自己表現である限りにおいて 文化ないし芸術の範疇に属します。 普遍性のある出来事ということになりますから 虚構ではないのでしょうが 言わば一人の人間のやはり自己表現であると言わなければならないとしたら それは作品であると考えられます。文化であり芸術作品であるという捉え方です。つまりは ほとんど同じ作品を自然科学者としては表わしている。 ★ 芳香・味わい・手触り ☆ にかかわる自己表現 これも したがって 芸術であると考えます。範疇に入るというよりも 人為のすべてが芸術であると。
補足
有り難う御座います。 折角の機会に恵まれましたので、 安易に締め括らせて頂くのが勿体無く思われますから、 畏れ入りますが、追加の質問をさせて下さい。 そこで、唐突ですが、伺います。 『芸術に「伝達」の役割りが必要なのか否かを判断なさるなら、 どちらだと思われますか?』 もし支障が御座いませんでしたら、御教授を御願い致します。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>芳香・味わい・手触りは芸術に含まれ得るのでしょうか? こういう問いを発するには、あらかじめ「芸術」の基本概念や範疇等について、質問者と回答者の間にしかるべき根拠にもとづいた共通了解ができていることが前提条件なのではないでしょうか。 >音楽・美術等に比べると、上記の3種は比較的に軽んじられてきたのではないか、と思われますので、将来的な展望を窺う為に、伺いたくなりましたから、御教授を御願いします。 昔読んだハリソン著『古代芸術と祭式』には、芸術が視覚、聴覚に限定されてきた理由について、美術と音楽だけが「遠覚」(distant sense)によって知覚されるからだと述べられており、「なるほど、言い得て妙だ!」と感心させられたのを思い出します。 ハリソン女史の所説を私なりに敷衍して言えば、芸術の起源というのは、人類の遠い祖先が環境世界(自然界等)の中で生き残るべく、その仕組みなり、正体なり、真相なりをより正確に、より早く理解しようとしたところに求められるのではないかということになります。 具体的には、人類が過酷な自然環境の中で生き残るためには、有用なモノは巧みに実生活に取り込み、危険なモノはいちはやく排除するという対応を求められたはずで、このとき重要な役割を果たしたのは、より直接的な知覚機能としての嗅覚・味覚・触覚ではなく、「遠覚」としての視覚・聴覚だった点に帰着するのではないかということです。 なぜって、嗅覚・味覚・触覚というのは、環境世界(対象)と直接触れる、交叉して知覚することにほかならないからです。 対象との直接的な接触は、対象の性質によっては、生命の主体にとって危険きわまりないことですよね。 対象と直接接触せずとも、その安全性、危険性、有用性、無用性を把握しようとするには、どうしても対象との間に一定程度以上の距離を置きつつ対象の知覚を可能にする「遠覚」に頼るしかないのです。 こういう、本来、安全で快適な現実生活を営むという目的のための手段であったはずのわれわれの知覚活動が、徐々にその目的から切り離され、手段自体が自己目的化し、そこにあたかも自律的な価値があるかのように思い込んでしまったとき、われわれはこれを「芸術」と呼ぶようになったのではないでしょうか。 ということで、「芳香・味わい・手触り」は、その官能的、直接感覚的な性質からして、現実生活の《手段》というよりも、むしろ現実生活の《目的》ではないか、いや《現実生活》そのものではないかという点で、やはり芸術たり得ないだろうと結論せざるを得ないと思います。 芸術が《フィクション》でなければならない所以でもあります。 以上、少しでも参考にしていただければ幸いです。
補足
伺った内容から類推しまして、 勝手に私は次の様な解釈を致しました。 つまり、 『遠覚の認識内容は大衆によって共有されやすい故に、 非日常的な領域への独り歩きをし、 西洋近代科学の基を築いたのだろう』 と考えました。 でも此の解釈は誤りなのでしょうか? 御教授を賜れると有り難いですから、宜しく御願いします。
- cyototu
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最近知ったんだが、芸術とアートは同じじゃないらしい。アメリカ人が社会学をアートだと言ってたから。何でだと聞いたら、社会学をやる学部はその人の経験では、liberal artsでやるんだからだそうだ。liberal artsは一応日本語では教養学部と訳されている。教養学部の文字の中には芸術を匂わせる言葉が入っていないので、日本人にとっては社会学を芸術の一部だとする感覚が出て来ない。だけどliberal artsだと、artsすなわちアートなんで、だから彼等は社会学と聞くと我々の持つ芸術に関する感覚が想起されてしまうらしい。社会学は人間を対象にした学問なんで、他のアートと同じなんだそうだ。 だから、あんたの質問はどの国の人に質問するかによってその範疇が随分違うんじゃないかな。
補足
すいません。勉強不足で失礼を致しました。 勿論乍ら、私は「アート」なる表現を用いておりませんので、 日本の「芸術」に言及して頂けると有り難いです。
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補足
有り難う御座います。 質問文の意図の定義の難しさがよく分かりますね。