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主語は何なのでしょうか?
『雨に降られる』という表現は、「自発」の助動詞の事例でよく使われておりますが、主語が何なのかが分かりません。 「受け身」・「可能」・「自発」・「尊敬」の意味が、同じ助動詞(れる・られる)によって纏められている、と言う事情の正当性の根拠もが、此の問いへの学術的な回答によって解消され得る、と思われますから、何卒御教授を宜しく御願い致します。
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「雨に降られる」は、単なる主格の省略ですので、いわゆる「受身」の助動詞になりますね。「(私が)雨に降られる」。 「れる」「られる」にいろんな意味が含まれている理由は簡単です。 というのも、古語でいう「る」「らる」は、もともと自発の意味しか無かったからですね。 そこから派生的に他の意味が含まれるようになりました。 尊敬、受身、自発、可能、いずれも共通するのは何か? 動作主の意志や主体を不可視化しようとする作用です。 今我々が参照する「古語」というのは、平安期以前の朝廷の言葉です。 政治的に常に微妙な立場にいる人々の言葉ですから、 動作主の主体性が堂々と前景化されないような言葉遣いが必要だったと考えられています。 実際、古代文学における「る」「らる」の微妙な使い分けや 複雑怪奇な敬語のルールには驚くばかりですからね。 ただし、今現在はら抜き言葉も一般的になっていますし、 実質的に「自発」の用法は消えかかってますから、 いつまでもこういう分類・ルールが適当かは分かりませんね。 という非常に基本的な「国語学」の知識で答えましたが、 ご理解いただけますでしょうか?
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- korokoro1980
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> 有り難いのですが、残念乍ら大学入試でも繰り返しで出題されております通りに、意味が「自発」であるのは自明のことです。 「受け身」ではないから、難しいのですよ。 「自明」が聞いて呆れる。「迷惑の受身」をご存知ないと見える。日本語では、自動詞にも受身の「られる」が付く。ドイツ語などでも、一部の自動詞に受身の(ような)用法があるそうだ。英語にはないと思うけど。 「大学入試でも繰り返しで出題されております」は虚言だろう。「迷惑の受身」は半世紀くらい前に提唱され、学界で論争になった。学界で論争になってた「雨に降られる」を、「意味が『自発』であるのは自明のこと」として大学入試に出題するか? 論争の結果は、「迷惑の受身」派が一定の地歩を得た。完勝とまでは行かないにしても。日本最大の国語辞典『日本国語大辞典』(小学館)においても、助動詞「られる」の説明で「迷惑の受身」が採用されている。
- 35to1
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主語は存在せず 省略されている「○○が」という主格(たとえば「僕が」)と 「雨に」という受身の格?と 「降られる」という述部によって構成されていると僕はおもいます。 すくなくとも「自発」の文には見えません。「受身」の文です。 北海道生まれとして言うなら「自発」の文は「雨が降らさる」です。 僕は素人なので御参考まで。
お礼
有り難いのですが、残念乍ら大学入試でも繰り返しで出題されております通りに、意味が「自発」であるのは自明のことです。 「受け身」ではないから、難しいのですよ。 話をはぐらかさないで頂きたいです。 1番の方よりも期待させてくれそうに感じられますから、 「究極」の調査を御願いします。