「受動的な感覚の自我喪失的表現」に関して質問です。
“牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした” に関して以下の回答を『国語』カテゴリで得ました。
自分が「受動的な感覚の主体的表現」で合っているかどうか知りたくなりました と質問したことに対し、
相手はこの場合「させられ体験」なので「自分自身が主体的に行っているという意識がありません」能動的ではなく受動的方向に意識が傾いています。
自我が健全には機能していない印象があり、自分の中に他者が入り込んだような表現になっています。
ですから、私はこの場合は「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと思います。
「自我喪失的」とは言い換えるのならば「主体喪失的」ということになります。
しかし疑問に思ったことがあります。
受動的な感覚の自我喪失的表現は家族に伝えたところ、あまり使わないとのことをおっしゃってましたし、ややこしい表現に関してはわからないとのことでした。
それと、『視線をそらすのが(何らかによって)止められた感じがした』『まるで操られたような感じに陥った』『(何らかによって)頭の中の記憶が暴かれているような感じがした』なども「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと考えられるのです。
ここで質問があります。
★「受動的な感覚の自我喪失的表現」という言葉は本当に存在するのでしょうか?
★ここまでの文章に関して『牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした』『視線をそらすのが(何らかによって)止められた感じがした』『まるで操られたような感じに陥った』『(何らかによって)頭の中の記憶が暴かれているような感じがした』などは自らの意思に反して動いたり行動したりしたことだと思うのですが、『 』内の言葉が「受動的な感覚の自我喪失的表現」という解釈であることは間違いないですか?
最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。
※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。
お礼
使わせて頂きます必ずや。 意地悪な奴限定でや 参考になりました。 ご回答ありがとうございました。